資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十六年 728年

正月 安西方面と宇文融の再起用

  • 正月壬寅、安西副大都護の趙頤貞が曲子城で吐蕃を破った。
  • 甲寅、魏州刺史の宇文融を戸部侍郎兼魏州刺史とし、河北道宣撫使を兼ねさせた。宣撫使の設置はここに始まる。

二月 嶺南の大反乱

  • 乙卯、春州・瀧州などの獠族の陳行範、広州の獠族の馮璘・何遊魯らが叛き、四十余城を陥した。陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍、馮璘は南越王を号して、嶺南制圧を狙った。
  • 玄宗は楊思勗に桂州と嶺北近道の兵を授けて討伐に向かわせた。

宇文融による治水・開田計画

  • 丙寅、宇文融を検校汴州刺史とし、河南北溝渠堤堰決九河使に任じた。
  • 宇文融は『禹貢』に見える九河の旧道を用いて、稲田を開き、陸運を水運へ転換し、官がその利を回収する構想を進めた。
  • しかし工事ばかりが続き、実際に成し遂げられたことは少なかった。

張説の復権と飛騎の改称

  • 二月壬申、右丞相として致仕していた張説を集賢殿学士に任じた。張説は政事からは退いていたが、文史の任を一手に担い、朝廷の大事には常に中使が意見を聞きに来た。
  • 壬辰、彍騎を左右羽林軍飛騎と改称した。

夏秋 対吐蕃戦の勝利

  • 秋七月、吐蕃の大将・悉末朗が瓜州に侵入したが、都督の張守珪が撃退した。
  • 乙巳、河西節度使の蕭嵩と隴右節度使の張忠亮が渇波谷で吐蕃を大破した。
  • 張忠亮はさらに追撃して大莫門城を落とし、多数を捕え、駱駝橋を焼き払って帰還した。
  • 八月乙巳、張説が新暦である『開元大衍暦』を献上し、施行された。
  • 辛卯、左金吾将軍の杜賓客が祁連城下で吐蕃を破った。吐蕃が再侵入すると、蕭嵩は杜賓客に強弩四千を率いさせて攻撃させ、朝から日暮れまで戦って大勝した。敵将一人を捕え、敗兵は山へ逃れて四方に泣き声が満ちた。

冬 蕭嵩の入相

  • 十月己卯、玄宗は驪山温泉へ行幸し、己丑に還宮した。
  • 十一月癸巳、河西節度副大使の蕭嵩を兵部尚書・同平章事に任じた。
  • 十二月丙寅、長期出征兵に帰還の時期がないのは人情に堪えがたいとして、五番に分け、毎年一番ずつ帰郷して休養させる制度を定めた。また、五年で勲功を一括評価し、五転昇進させるとした。

戸籍制度の改定

  • この年、戸籍は三年ごとに改定し、九等に分ける制度を定めた。

楊思勗、嶺南反乱を鎮圧

  • 楊思勗は陳行範を討って瀧州で破り、何遊魯・馮璘を捕えた。陳行範は雲際・盤遼の二洞へ逃れたが、楊思勗は追撃してついに生け捕りにし、斬った。
  • 斬首は六万に達した。
  • 楊思勗は非常に厳酷で、副将たちは報告の際に顔を上げることもできなかった。そのため軍を用いれば必ず功があったが、捕虜の顔の皮を生きたまま剥いだり、髪の生え際から頭皮を剥ぎ取ったりする残忍さでも知られ、蛮夷は彼を恐れた。