資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十五年 727年
正月 青海西で吐蕃を破る
- 正月辛丑、凉州都督の王君㚟が青海の西で吐蕃を破った。
- もともと吐蕃は自らの強さを頼み、唐に対して対等の国書を送り、無礼な言辞を取っていたため、玄宗は常々怒っていた。
- 東封の帰途、張説は吐蕃が無礼なのは討つべきだとしても、十数年にわたる戦争で甘州・凉州・河州・鄯州の疲弊は深刻であり、勝っても失うものが多いので、悔悟して和を求めるなら受け入れて辺民を休ませるべきだと説いた。
- だが張説は、王君㚟は勇敢だが軽挙に走り、和親では功名を立てられないので、自分の意見は採用されないだろうとも予測した。
- 実際、王君㚟が入朝すると、深入りして討つべきだと主張した。
- 前年冬、吐蕃の大将・悉諾邏が大斗谷に侵入し、甘州を焼き払って去った。王君㚟は敵兵の疲弊を見て後を追い、大雪で凍死者が多く出るなか、積石軍より西へ帰る退路を狙った。
- 先に別働隊を潜入させて道沿いの草を焼かせたため、吐蕃軍は大非川で休養しようにも飼葉が尽き、馬が大量に死んだ。
- 王君㚟は秦州都督の張景順とともに追撃し、青海西方で後軍を破り、大量の輜重・羊馬を奪って帰還した。
王君㚟の栄転と辺功への傾斜
- 王君㚟はこの功で左羽林大将軍に昇進し、その父の王寿も少府監に任じられて致仕した。
- 玄宗はこれ以後、いよいよ辺境での軍功を重んじるようになった。
汴水改修の失敗
- 洛陽の劉宗器は、汜水の旧汴口を塞ぎ、熒沢から黄河水を引いて汴水へ流すべきだと上言し、左衛率府胄曹に抜擢されて工事にあたった。
- しかし新たに開いた水路はまもなく埋まり、通行できなくなったため、劉宗器は循州安懐戍主へ左遷された。
- そこで将作大匠の范安と、河南・懐・鄭・汴・滑・衛の三万人を動員して旧水路を浚渫し、十日ほどで工事を終えた。
張説派への一掃
- 御史大夫の崔隠甫と御史中丞の宇文融は、張説が再び起用されるのを恐れ、しばしば上奏して彼を中傷したが、互いに朋党をなして争っていると玄宗に見抜かれて嫌われた。
- 二月乙巳、張説には致仕を命じ、崔隠甫は母を侍養することを理由に免官、宇文融は魏州刺史に出された。
逃亡戸口への新方針
- 乙卯、諸州の逃亡戸について、勧農使がいったん整理・確定したのちに再び流入してきた者は、到着地で白丁として当年の租庸を課し、役がある場合はまず彼らを充てるよう命じた。
皇子たちの「十王宅」
- 夏五月癸酉、玄宗は皇子たちに州牧・刺史・都督・節度大使・大都護・経略使などの肩書を与えたが、実際に任地へ赴かせることはしなかった。
- 唐初には皇子の外居も行われたが、玄宗は即位後、苑城に沿って十王宅を造り、皇子たちをそこに住まわせた。宦官が管理し、彼らは夾城を通って参内するだけで、ほとんど宮外に出なかった。
- 王府の官属や藩鎮の属官も名目化し、侍読が時に出入りして教授する程度であった。
- 皇孫が増えると百孫院も置かれた。
- 太子も東宮に常住せず、天子の行幸先の別院にいることが多かった。
養蚕の奨励
- 玄宗は妃嬪以下に養蚕をさせ、女功を理解させようとした。
- 丁酉の夏至には、側近の貴人に糸を一綟ずつ賜った。
水害と蘇頲の死
- 秋七月戊寅、冀州で黄河が氾濫した。
- 己卯、礼部尚書の蘇頲が死去した。
吐蕃の瓜州侵攻
- 九月丙子、吐蕃の悉諾邏恭禄・燭龍莽布支が瓜州を陥し、刺史の田元献と、河西節度使王君㚟の父・王寿を捕えたうえ、さらに玉門軍へ攻め寄せた。
- 捕虜にした僧を解放して凉州へ帰し、王君㚟に対して「忠勇をもって国に報いるというなら、なぜ戦わないのか」と挑発した。
- しかし王君㚟は城上から西を望んで泣くだけで、ついに出兵しなかった。
- 吐蕃はさらに常楽県を攻めたが、県令の賈師順が守り抜いた。瓜州陥落後、敵は総力でこれを包囲し、半月以上攻めても落とせなかった。
- 吐蕃は降伏勧告と引き換えに財貨を求めたが、賈師順は兵卒の衣まで差し出して、もはや差し出す財もないことを示したため、敵は退いた。
- 賈師順はただちに門を開いて器械を収め、守備を立て直した。吐蕃の精騎が偵察に戻ってきたが、備えがあると知って去った。
- 田元献が瓜州を守れなかったのに対し、賈師順はよく常楽を守った。
河西諸部族と王君㚟の対立
- かつて突厥の黙啜が強勢だった頃、回鶻・契苾・思結・渾の四部は圧迫を避けて沙漠を越え、甘州・凉州の間へ移ってきていた。
- 王君㚟はまだ寒微の頃に彼らの間を往来して軽んじられた経験があり、河西節度使となると法で厳しく統制したため、四部はこれを恥じ、恨んだ。
- 四部はひそかに東都へ使者を出して王君㚟を訴えたが、王君㚟は先手を打って、彼らは制御しがたく叛意があると急報した。
- 玄宗は中使を派遣して調査させ、結局四部は正当性を訴えきれなかった。
- そこで回鶻の承宗を瀼州、渾の承明を吉州、契苾承明を藤州、思結帰国を瓊州へ流し、代わって回鶻の伏帝難を瀚海大都督に任じた。
- また、右散騎常侍の李令問は、その子が承宗と交際していた罪で撫州別駕に左遷された。
突厥との互市
- 丙戌、突厥の毗伽可汗が大臣の梅録啜を入朝させた。
- 吐蕃が瓜州へ侵攻した際、毗伽に対して共同侵攻を誘う書を送っていたが、毗伽はその書をそのまま玄宗に差し出した。
- 玄宗はこれを喜び、西受降城での互市を許した。毎年、数十万匹の絹帛を持参して軍馬を購入し、軍用や牧畜の種馬にも役立てたので、唐の馬政はさらに充実した。
閏月 安西包囲と王君㚟の死
- 閏月庚子、吐蕃の賛普と突騎施の蘇禄が安西城を包囲したが、安西副大都護の趙頤貞がこれを破った。
- 一方、回鶻承宗の族子で瀚海司馬の護輸は、承宗のための報復として党衆を糾合していた。
- ちょうど吐蕃の使者が密かに突厥へ向かおうとしていたため、王君㚟は精騎を率いて肅州でこれを遮断し、帰途、甘州南の鞏筆駅まで来たところで、護輸の伏兵に襲われた。
- 護輸は王君㚟の旌節を奪い、まず判官の宋貞を殺して心臓を取り出し、「最初に謀ったのはおまえだ」と罵った。
- 王君㚟は数十人の側近と朝から夕方まで戦ったが、ついに全員が戦死し、護輸は王君㚟を殺してその死体を吐蕃へ運ぼうとした。凉州兵が追うと、護輸は死体を捨てて逃走した。
河西の立て直し
- 庚申、車駕は東都を出発し、冬十月己卯に西京へ着いた。
- 辛巳、信安王李禕を朔方節度等副大使に、蕭嵩を河西節度等副大使に任じた。李禕は呉王李恪の孫である。
- 王君㚟の敗死で河隴は震え上がったが、蕭嵩は刑部員外郎の裴寛を判官に起用し、また王君㚟の判官だった牛仙客にも軍政を担当させて、しだいに人心を安定させた。
- 牛仙客はもと鶉觚県の下級吏だったが、実務と軍功で昇進して王君㚟の腹心となっていた。
- また蕭嵩は、建康軍使の張守珪を瓜州刺史に推挙し、残兵を率いて旧城を板築で急造させた。
- 吐蕃が急襲すると城中は動揺したが、張守珪は城上で酒宴と音楽を設けて敵を疑心暗鬼にさせ、敵が退くや追撃して敗走させた。
- その後、城郭を修復し、流民を呼び戻して旧来の生業に復帰させたため、朝廷はその功を嘉し、瓜州を都督府に昇格させ、張守珪を都督にした。
- 蕭嵩はさらに吐蕃に離間策を仕掛け、悉諾邏が唐と内通していると讒言させたため、賛普は彼を召して誅殺した。これによって吐蕃はやや弱体化した。
防秋兵の増強
- 十二月戊寅、吐蕃を辺患として、隴右道と諸軍に団兵五万六千人、河西道と諸軍に団兵四万人を置き、さらに関中兵一万人を臨洮、朔方兵一万人を会州に集め、防秋に備えることとした。
- ただしこの冬は敵の侵入がなく、兵は解散させたうえで、敵が来たときには挟撃する方針とした。
- 乙亥、玄宗は驪山温泉へ行幸し、丙戌に還宮した。