資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十年 722年
春正月:東都へ
- 丁巳、玄宗は東都へ行幸した。
- 刑部尚書王志愔を西京留守とした。
- 癸亥、公廨銭を国が回収し、その税収で百官の俸給にあてることを命じた。
- 乙丑、職田も収公し、一畝につき倉粟二斗二升を支給する方式に改めた。
二月:東都到着
夏四月・五月:張説に朔方節度を兼ねさせる、水害
- 己亥、張説に朔方軍節度使を兼ねさせた。
- 五月、伊水・汝水が氾濫し、数千家が流失した。
閏五月・六月:辺境諸事
- 壬申、張説は朔方へ赴いて辺境を巡視した。
- 己丑、余姚県主の娘・慕容氏を燕郡公主とし、契丹王鬱干に嫁がせた。
- 六月丁巳、博州で黄河が決壊し、按察使蕭嵩らに治水を命じた。蕭嵩は後梁明帝の孫である。
- 己巳、太廟を九室に増やし、中宗の神主を別廟から太廟に戻した。
秋八月:裴景仙事件と安南反乱
- 癸卯、武彊令裴景仙が五千匹相当の賄賂を取った罪で発覚し逃亡したため、玄宗は衆中で斬るよう命じた。
- 大理卿李朝隠は、景仙の罪は死刑に当たらず、しかも曾祖の裴寂は建国の大功臣で、家が非罪で滅んだ後の嫡流は景仙一人だけだとし、流罪にとどめるよう強く主張した。
- 玄宗はいったん杖殺を命じたが、李朝隠はさらに、もし乞取程度で斬刑にするなら、もっと重い枉法には何を科すのか、法を守ることこそ国のためだと再諫した。
- ついに玄宗は折れ、景仙を百杖のうえ嶺南の悪地に流した。
- 同月、安南で梅叔焉らが州県を攻囲したため、驃騎将軍兼内侍の楊思勗を派遣して討たせた。楊思勗は蛮族の子弟十余万を募って奇襲し、大破して叔焉を斬り、その屍を積んで京観としたのち帰還した。
王皇后の失脚へ
- 玄宗が韋氏を誅した際、王皇后は密かに功があったが、即位後数年して色衰え、武恵妃が寵愛を受けるようになると、皇后はしばしば不満を表した。武恵妃はひそかに後位を奪う志を抱いた。
- 玄宗は姜皎と、皇后に子がないことを理由に廃そうと相談したが、姜皎がその話を漏らした。これを嗣濮王嶠が奏上すると、玄宗は怒り、張嘉貞が帝意に迎合して姜皎の罪を重く構成した。
- 甲戌、姜皎を六十杖のうえ欽州へ流し、その弟姜晦も春州司馬に左遷した。親党で連座して流死する者も多く、姜皎自身も流所へ向かう途中で死んだ。
- 己亥、宗室・外戚・駙馬は至親でない限り往来を禁じ、卜占の術者も百官の家に出入りさせないよう詔した。
八月末:権楚璧の乱
- 己卯夜、左領軍兵曹の権楚璧が党与の李斉損らと反乱し、兄の子梁山を「光帝」と称して立て、襄王の子と偽った。
- 左屯営兵数百を率いて宮城に入り、西京留守王志愔を求めたが得られず、夜明けごろには兵が自壊し、楚璧らは斬られて首を東都へ送られた。
- 王志愔は驚きのあまり死去した。
- 壬午、河南尹王怡を派遣して京師の按問・宣慰にあたらせた。
秋:小勃律救援
- 癸未、吐蕃が小勃律王没謹忙を包囲した。没謹忙は北庭節度使張嵩に救援を求め、「勃律は唐の西門であり、ここを失えば西域は皆吐蕃のものになる」と訴えた。
- 張嵩は疏勒副使張思礼に蕃漢歩騎四千を与え、昼夜兼行で救援させた。張思礼は没謹忙と合流して吐蕃軍を大破し、数万を斬獲し、その後数年にわたり吐蕃は辺境侵犯を控えた。
冬:宋璟の再起と兵制改革
- 王怡が権楚璧の獄を大規模に連座させて長引かせたため、玄宗は宋璟を西京留守に任じた。宋璟は到着すると、共謀した数人のみを誅し、他は赦免するよう奏した。
- 康待賓の残党康願子が再び可汗を称して叛いたが、張説が追討して捕らえ、その党を平らげた。
- 河曲六州の残余の胡人五万余口は、許州・汝州・唐州・鄧州・仙州・豫州などに移住させ、河南・朔方間の千里を空地化した。
- それまで辺境戍兵は常に六十余万いたが、張説は強敵のない今、二十余万を削減して農に帰すよう奏請した。玄宗は疑ったが、張説は一家百口を担保にするほど言い切り、許可を得た。
- また府兵制は、成丁から六十歳まで従軍し、家では雑徭も免れないため疲弊し、逃亡が相次いでいた。張説は、壮士を募って宿衛に当て、色役を問わず優遇する制度を建議した。
- 玄宗がこれを採ると、旬日で精兵十三万が集まり、諸衛に分けて交替勤務させた。これにより、兵農一致の旧制はここに大きく転換した。
冬十月:明堂の再改称、北辺へ軍威を示す
- 癸丑、乾元殿を再び明堂とした。
- 甲寅、寿安の興泰宮へ行幸して上宜川で狩りをし、庚申に還宮した。
- 北辺に軍威を示すため、丁卯、秦州都督張守潔らを諸衛将軍に任じた。
十一月:実封の新制と裴伷先獄
- 乙未、この日から初めて宰相にも実封三百戸の食封を許した。
- 前広州都督裴伷先が獄に下され、その処分を議した際、張嘉貞は杖刑を請うたが、張説は「刑は大夫に及ばず」として反対した。
- 姜皎が朝堂で杖刑を受けた前例を引きつつ、三品の大臣に軽々しく笞辱を加えるのは、士大夫の廉恥を壊すことだと述べ、罪状から見て流罪が相当で、再び前失を繰り返すべきでないと主張した。
- 玄宗はこれを深く是とし、張嘉貞は不快感を示したが、張説は、これは裴伷先個人のためでなく天下の士大夫のための発言だと答えた。
十二月:交河公主降嫁、后土祠、永穆公主の嫁資
- 庚子、十姓可汗阿史那懐道の娘を交河公主とし、突騎施可汗蘇禄に嫁がせた。
- 玄宗が晋陽へ行幸して長安へ戻る計画に際し、張説は汾陰の后土祠の礼が久しく廃れているので、この機会に農作祈願をすべきだと進言し、採用された。
- 永穆公主の降嫁にあたり、玄宗は太平公主と同じだけの厚い資送を命じたが、僧一行が、武后が太平公主一人を偏愛して豪奢にしたことが、のちの驕慢と敗亡につながったと諫めたため、玄宗は直ちに取りやめた。