資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 九年 721年

春正月:楊敬述処分・河中府設置

  • 楊敬述は刪丹敗戦の責を負って官爵を削られたが、白衣で涼州都督を検校し、諸使を兼ねることを許された。
  • 丙辰、蒲州を河中府に改め、中都官僚を置いて京兆・河南に準じる体制とした。
  • 丙寅、玄宗は驪山温泉に行幸し、乙亥に還宮した。

正月・二月:宇文融の括戸政策

  • 監察御史宇文融が、天下の戸口には逃亡・移転・偽装がきわめて多いので、大規模な検括を行うべきだと上言し、源乾曜もその才を愛して賛成した。
  • 二月乙酉、招集した流民をどう扱い、巧偽をどう取り締まるか議させた。
  • 丁亥、州県の逃亡戸に百日以内の自首を許し、現住地で編籍しても旧里に帰ってもよいとした。期限を過ぎれば辺州への配流、公私で匿う者も処罰とした。
  • 宇文融を使として逃戸と籍外田の調査にあたらせ、多くの隠田・虚偽戸を摘発し、兵部員外郎兼侍御史に昇進させた。
  • 宇文融は勧農判官を各地に派遣し、新たに編入された客戸には六年の賦調免除を認めた。しかし使者たちは功を急いで過酷に取り立て、州県もこれに追随したため、百姓は大いに苦しんだ。
  • 陽翟尉皇甫憬がその実情を上疏したが、玄宗は宇文融を信用していたため、かえって盈川尉に左遷した。
  • 実際には、州県は迎合して実戸を客戸とし、正田を隠田扱いすることもあり、得た戸は八十余万、田もほぼ同数と称した。

二月:突厥に書を与える

  • 丙戌、毗伽可汗が再び使者を送って和を求めてきたので、玄宗は書を賜い、かつて唐と突厥が和親して双方とも安らかだったこと、黙啜の不信が関係を壊したことを説いた。
  • そのうえで、今後誠意があるなら遠くまで共に福を保てるが、さもなくば使者を煩わせても益はなく、侵辺するなら唐にも備えがあると警告した。

夏四月:六胡州の反乱

  • 蘭池州の胡人康待賓が降戸を誘って反乱し、六胡州を陥れ、七万人を率いて夏州に迫った。
  • 朝廷は朔方大総管王晙と隴右節度使郭知運に討伐を命じた。
  • 戊戌、京官五品以上、外官刺史、四府上佐に、それぞれ良県令一人を推挙させ、その政治の善悪によって推薦者を賞罰する制度を設けた。
  • 王毛仲を朔方道防禦討撃大使とし、王晙・張説とともに康待賓討伐にあたらせた。

六月:中都を廃し、陸象先の寛政

  • 己卯、中都を廃して再び蒲州とした。
  • 蒲州刺史陸象先は、政治を寛大簡素にし、罪ある者にも多くは諭して帰した。録事が、杖刑を用いずして威を示せるかと問うと、陸象先は、もし打って示威したいならまずお前からだと答え、相手を恥じ入らせた。
  • 彼は、天下はもともと多事ではなく、つまらぬ役人が騒がせるだけで、源を清くすれば治まらない心配はないと語っていた。

秋七月:康待賓平定、党項の処置

  • 己酉、王晙が康待賓を大破し、生け捕りにし、反乱した胡人一万五千を斬った。
  • 辛酉、四夷の酋長を集め、西市で康待賓を腰斬にした。
  • それ以前、叛胡はひそかに党項と結んで銀城・連谷を攻め、倉庫群を押さえていた。張説は歩騎一万で合河関を出て急襲し、大破して駱駝堰まで追撃した。
  • 党項は情勢を見て叛胡を離れ、逆に戦って胡軍を潰走させた。張説は彼らをなだめて旧業に復させ、討撃使阿史那献が党項も一緒に誅すべきと請うたのを退けた。
  • 張説は、王者の軍は叛く者を討ち、服する者には柔らかく接するべきで、すでに降った者まで殺すべきではないと述べ、麟州を置いて残余の党項を鎮撫するよう奏請した。

九月:王晙失脚、姚崇薨去、張説入相

  • 乙巳朔、日食があった。
  • 康待賓討伐では、王晙が郭知運に帰軍を求めたのに、返答前に郭知運が到着して両者は不仲となった。さらに知運が、王晙の招降した胡人まで撃ったため、胡人は王晙に売られたと思い、再び叛いた。
  • 玄宗は王晙が群胡を完全に平定できなかったとして、丙午、梓州刺史に左遷した。
  • 丁未、梁文献公姚崇が死去した。遺言では、仏法は本来清浄慈悲にあるのに、写経・造像で福を求める俗信は愚かであり、周斉の興亡や武氏・韋氏の造寺乱費を引いて戒め、後人にもまねるなと残した。
  • 癸亥、張説を兵部尚書・同中書門下三品として、宰相に加えた。

冬十月:郭知運死去

  • 河西隴右節度大使郭知運が死去した。瓜州出身で、同郷の王君㚟とともに勇猛・騎射で名を知られ、西辺の異民族に恐れられていた。
  • 王君㚟がその後任として河西隴右節度使となり、涼州都督を判じた。

十一月:群書四録

  • 丙辰、国子祭酒元行冲が『群書四録』を上進した。経・史・子・集の四部に分け、計四万八千一百六十九巻を著録した。
  • 庚午、天下に大赦があった。

十二月:驪山行幸、諸王召還、蒲津橋

  • 乙酉、玄宗は驪山温泉に行幸し、壬辰に還宮した。
  • この年、都督・刺史になっていた諸王はすべて京師に召し返された。
  • 新たに蒲津橋を築き、鉄を鋳て牛とし、大綱をこれに繋いで浮橋を安定させた。
  • 安州別駕劉子玄が死去した。これは劉知幾のことで、帝の諱を避けて字で行われていた。
  • また、呉兢が撰した則天実録に、宋璟が張説を激して魏元忠事件の証言をさせたと書かれていた件で、張説が誤記だと怒ったが、呉兢は自分の筆であり死者に罪を着せるなと譲らず、のちに張説が数字だけでも改めてほしいとひそかに頼んでも、直筆の史でなくなるとして応じなかった。
  • 太史が麟徳暦の誤差を指摘し、玄宗は僧一行に新暦作成を命じた。梁令瓚は黄道遊儀を作って日月五星の運行観測を助けた。
  • さらに朔方節度使を置き、単于都護府・夏州・塩州など六州、定遠・豊安二軍、三受降城を管轄させた。