資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 八年 720年
正月:宋璟・蘇頲の罷免
- 丙辰、褚無量が死去した。
- 辛酉、右散騎常侍元行冲に群書の整理・校定を命じた。
- このころ宋璟は、罪を得てなお無理訴えを続ける者を御史台に送って裁かせ、訴えをやめる者は釈放、やめぬ者は拘禁する方針をとったため、怨む者が多かった。
- ちょうど旱魃のさなか、優人が魃の姿をまねて「相公の命で出てきた。冤罪の者三百余人を獄に押し込めたので、出ないわけにいかない」と演じると、玄宗はこれをもっともらしく感じた。
- また悪銭禁制も、江淮で監察御史蕭隠之が強圧的に実施して民怨を招いたため、玄宗は蕭隠之を左遷したうえ、辛巳、宋璟を開府儀同三司、蘇頲を礼部尚書として宰相職から退けた。
- 源乾曜を黄門侍郎、張嘉貞を中書侍郎とし、ともに同平章事とした。これにより悪銭禁制は緩み、粗悪銭が再び流通した。
二月:皇子の死と衛士制度の改定
- 戊戌、皇子敏が死去し、懐王に追封され、哀と諡された。
- 壬子、軍府の役が重いとして、衛士は六十歳を待たずもっと早く交代させ、百姓がより短い周期で交替勤務できるように定めた。
夏四月:西方三国を褒賞
- 丙午、烏長王・骨咄王・俱位王に冊命を与えた。これら三国はいずれも大食の西方にあり、大食に寝返るよう誘われても応じなかったので、それを賞した。
五月:按察使の復置と源乾曜の公議
- 辛酉、十道按察使を再設置した。
- 丁卯、源乾曜を侍中、張嘉貞を中書令とした。
- 源乾曜は、権門の家の者が京官に多く任じられ、有能な士が地方に沈滞していると述べ、自分の三人の子のうち二人を外任に出したいと願い出た。玄宗はこれを許し、その公正さを称えて百官にも見習わせたため、百余人が京官から外に出された。
- 張嘉貞は事務処理に強く敏捷であったが、気性が激しく独断的で、中書舍人苗延嗣・呂太一、考功員外郎貟嘉静、殿中侍御史崔訓ら引き立てた側近とともに政務を論じ、当時「令公四俊」と呼ばれた。
六月:洪水と朔方の降戸虐殺
- 瀍水・穀水が氾濫し、流死者はほぼ二千人に及んだ。
- 突厥から降った僕固都督勺磨と奚結部が受降城付近に散住していたが、朔方大使王晙は、彼らがひそかに突厥と通じて城を陥れようとしていると密奏し、宴に誘い出して伏兵で皆殺しにした。
- 河曲の降戸はほとんど尽き、抜曳固・同羅など大同軍・横野軍近辺の諸部も、この知らせを聞いて恐れおののいた。
秋:張説が北辺諸部を慰撫
- 并州長史・天兵軍節度大使の張説は、わずか二十騎を率いて節を持ち、直に部落へ赴いて慰撫し、その帳内に宿った。副使李憲は危険だとして止めたが、張説は、危うきに臨んで命を致すのが今だと答えた。
- この胆力により、抜曳固・同羅は安定した。
冬十月:諸王交結の禁止
- 辛巳、玄宗は長春宮に行幸し、壬午、下邽で狩りをした。
- 玄宗はかねて諸王が群臣と結びつくことを禁じていたが、駙馬都尉裴虚己が岐王範と遊宴し、さらに讖緯をひそかに所持していたため、戊子、新州に流し、公主とも離縁させた。
- また万年尉劉庭琦と太祝張諤がしばしば岐王範と飲酒・賦詩していたため、それぞれ左遷した。
- ただし玄宗は、兄弟の間に本来隔てはなく、媚びへつらう者が勝手に取り入っているだけだとして、岐王範自身は従前どおり遇した。
- さらに、薛王業の妃の弟韋賓と殿中監皇甫恂が、帝の病に際して吉凶を私議したことが発覚し、韋賓は杖殺、皇甫恂は錦州刺史に左遷された。しかし薛王業夫妻には安心するよう語り、妃も復位させた。
十一月:突厥の侵攻と契丹の内乱
- 乙卯、玄宗は京師に帰った。
- 辛未、突厥が甘州・涼州などを侵し、河西節度使楊敬述を破り、契苾部落を掠めて去った。
- これは以前、王晙が抜悉密・奚・契丹を動員して突厥を挟撃しようとした計画に関連していた。暾欲谷は、抜悉密だけが先に来て孤立すると見抜き、その退路を絶って大破し、さらに赤亭から出て涼州の羊馬を奪った。
- 盧公利・元澄が刪丹で迎え撃ったが大敗し、毗伽可汗は勢いを大いに回復し、黙啜旧衆をほぼ掌握した。
- 契丹では、牙官の可突干が勇猛で衆望を集めていたが、王李娑固がこれを疑って除こうとした。すると可突干は兵を挙げて娑固を破り、営州に逃れた娑固と、支援した奚王李大酺をいずれも殺し、薛泰を生け捕りにした。
- 許欽澹は渝関に退き、可突干は鬱干を立てて罪を請うたため、朝廷は可突干を赦し、鬱干を松漠都督、李大酺の弟魯蘇を饒楽都督に任じた。