資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 七年 719年

春二月:西域諸国が大食の圧迫を訴える

  • 俱密王那羅延、康王烏勒伽、安王篤薩波提らが相次いで上表し、大食の侵掠を受けているので救援兵を求めた。

悪銭回収の継続

  • 太府および京兆府・畿県から粟十万石を出し、これを売却して市中の悪銭を回収し、少府に送って鋳つぶさせた。

三月:王毛仲の昇進

  • 乙卯、内外閑厩使・苑内営田使の王毛仲を太僕卿格で用いた。毛仲は厳格で処理能力に優れ、万騎功臣や閑厩の役人たちにも畏れられていた。
  • 閑厩や苑内営田の収穫・蓄積は常に豊富で、玄宗はその有能さを高く買って深く寵愛した。宦官の楊思勗や高力士でさえ彼を避けた。

春:渤海王の代替わり

  • 渤海王大祚栄が死去し、丙辰、その子武芸に襲位を命じた。

夏四月:王仁皎の墳墓をめぐる議論

  • 壬午、祁公王仁皎が死去した。その子で駙馬都尉の王守一は、竇孝諶の前例にならって高さ五丈二尺の大きな墳墓を築くことを願い出、玄宗はいったん許した。
  • しかし宋璟・蘇頲は、令では一品の墳は一丈九尺、陪陵でも三丈までに過ぎず、竇孝諶の例そのものが当時から批判されていたと強く諫めた。皇后の父だからといって礼を越えるべきでなく、後世の法となることを慎むべきだと説いた。
  • 玄宗は喜んでこれを受け入れ、自らを正して下に率いる以上、妻子にも私情を許せないと述べ、宋璟・蘇頲に褒美を与えた。

五月:日食と修徳の諫め

  • 己丑朔、日食があった。玄宗は素服して変を待ち、音楽を止め、食事を減らし、中書門下に命じて繋囚の審査、飢民救済、農事奨励を行わせた。
  • 辛卯、宋璟らは、こうした民への配慮はまことに結構だが、日食に対してはまず徳を修めるべきであり、君子を親しみ小人を遠ざけ、婦人の口出しや讒言を絶つことが肝要で、詔書を何度も下すこと自体が本筋ではないと諫めた。

六月:吐蕃の再請に応じず

  • 戊辰、吐蕃が再び使者を送り、皇帝自署の誓文を求めた。玄宗は、盟約はすでにあるので、誠意がないまま誓いだけ重ねても意味はないとして拒んだ。

閏七月・八月:喪服制度を旧制に戻す

  • 右補闕の盧履氷は、父在世中の母への服喪は本来一年であるのに、則天武后が三年喪へ改めたのは礼に反すると上奏し、旧制復帰を求めた。
  • 左散騎常侍の褚無量もこれを支持し、議論は長引いたが、八月辛卯、朝廷は五服を『喪服伝』どおりに戻すと決めた。
  • ただし士大夫の議論はなお続き、実際の運用は各人の判断に委ねられる面が残った。褚無量は、母恩の厚さは聖人も知らぬはずがなく、尊卑を明らかにするための制度なのに、いったん乱れれば正せなくなると嘆いた。

九月:寧王憲の諫言

  • 甲寅、宋王憲を寧王に改封した。
  • 玄宗が複道から衛士を見下ろしたとき、食べ残しを穴に捨てる者がいたため怒って杖殺そうとした。これに対し寧王憲は、帝が人の過失をひそかにうかがって殺せば、皆が不安になるうえ、食を大事にする心から出た怒りなのに、残飯のために人命を奪うのは本末転倒だと諫めた。
  • 玄宗は大いに悟って衛士を放免し、その日の宴で自らの紅玉帯と乗馬を憲に賜った。

冬十月:驪山温泉へ

  • 辛卯、玄宗は驪山の温泉に行幸し、癸卯に還宮した。
  • 壬子、突騎施の蘇禄を忠順可汗に冊立した。

十一月:故旧への恩典と宋璟の公正

  • 壬申、玄宗は藩邸時代の旧吏である岐山令王仁琛に、墨敕で五品官を与えようとした。宋璟は、恩私にも大原則があり、官職は資歴と公道に従うべきで、しかも仁琛は后族なので世論を防がねばならないとし、吏部に検討させて格に応じた優遇にとどめるよう求めた。玄宗は従った。
  • また選人宋元超が宋璟の親族を称して有利な扱いを求めたところ、宋璟は、普段は特に往来もなく、本来なら大例に従えばよいが、名が出てしまった以上、私情を疑われぬため、かえって任用対象から外して矯枉過正とすべきだと吏部に伝えた。
  • 寧王憲が薛嗣先の任官を願った際にも、宋璟は、景龍期の斜封のような私的任命を絶ったのが当代の美点であり、姻戚だからといって法を曲げるべきではないと奏し、通常の審査に付させた。

歳末:朝集使の弊を正し、剣南節度使を置く

  • 朝集使がしばしば土産や賄賂を携えて京師に入り、春の帰郷前に昇進を得る弊があったため、宋璟は一律に帰任させてこれを改めた。
  • この年、剣南節度使を新設し、益州・彭州など二十五州を管轄させた。