資治通鑑唐紀二十六 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之上 開元 元年 713年
正月 兵制再整備
- 正月己亥、兵役年齢を改め、二十五歳で入軍し五十歳で免ずるとした。
- 羽林・飛騎にはこの衛士から選抜して補充した。
- 皇帝が予定していた辺境巡幸は延期され、募集した兵もいったん解散させ、八月に再集合すると約したが、結局実施されなかった。
二月 盛大な灯会と厳挺之の諫言
- 庚子夜、宮門を開いて灯をともし、前年にできなかった大酺を追って催した。上皇と玄宗は門楼に登ってこれを観覧し、夜を日に継ぐほどに長く、一か月余り続いた。
- 左拾遺厳挺之は上疏し、酺とは本来民衆が利を持ち寄って楽しむものなのに、今は万人の労力を使って百戯の資を整える有様であり、聖徳や風化を飾る道ではないと諫めた。
- 玄宗はこれを受けて中止した。
渤海の成立と冊封
- 高麗滅亡後、その別種である大祚栄は営州に移り住んでいた。李尽忠の反乱時に靺鞨の乞四比羽とともに東へ逃れ、険阻を頼って自立した。
- 武后は李楷固を派遣してこれを討たせたが、乞四比羽は討てても、大祚栄に対しては天門嶺で大敗した。
- 大祚栄は東牟山に拠って城を築き、勇戦で知られ、高麗人・靺鞨人が続々と帰附した。領域は二千里、戸数十余万、精兵数万に及び、自ら振国王と称して突厥に附いた。
- 奚・契丹の叛乱で道が塞がれていたため、武后は討てなかった。中宗即位後、張行岌を派遣して慰撫し、その子を入侍させていた。
- この年、唐は大祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王に封じ、その地を忽汗州とし、祚栄に都督を兼ねさせた。ここから靺鞨は渤海を国号として強盛になっていく。
皇后親蚕の復活
- 三月辛巳、皇后が親蚕を行った。
- これは嗣聖光宅以来絶えていた礼を復活させたもので、先蚕を祀り桑をとる皇后の伝統儀礼であった。
楊相如の上疏
- 晋陵尉楊相如は時政を論じ、煬帝が強さを恃んで政を顧みず、名目は堯舜で実際は桀紂のようで、天下を一挙に失ったことを引いた。
- さらに、隋が欲望を放縦して滅び、太宗が欲を抑えて昌えたことを対比し、忠臣は君意に逆らいがちで疎まれ、佞臣は順って愛されがちであるから、明主はむしろ逆耳の忠を愛し、順耳の佞を退けるべきだと説いた。
- また法は簡にして犯しがたく、罰は軽くして必ず行われるのがよく、細事に煩わされず大悪を逃さぬ政を求めた。玄宗はこれを善しとした。
大明宮工事の停止
- 以前から進められていた大明宮の工事はまだ完了していなかったが、五月庚寅、農繁期ゆえいったん中止し、農閑期を待つことにした。
六月 郭元振の再入相
- 六月丙辰、郭元振が同中書門下三品となった。
太平公主派の拡大
- 太平公主は上皇の後ろ盾を頼みに権力を振るい、玄宗と不和になっていた。
- 宰相七人のうち五人が公主の門から出たとされ、文武百官の多くもこれに附いた。
- 竇懐貞・岑羲・蕭至忠・崔湜・薛稷・新興王晋・常元楷・李慈・李欽・李猷・賈膺福・唐晙・慧範らが、公主とともに廃立を謀った。
- さらに宮人元氏と共謀し、赤箭の粉に毒を入れて玄宗に進めようともした。赤箭は天麻にあたる薬草で、その粉末が使われたとされる。
- 新興王晋は長平王叔良の系統で、徳良の孫である。
- 常元楷と李慈はたびたび公主邸を往来し、密議を重ねた。
王琚・張説・崔日用の決断
- 王琚は玄宗に「事は切迫した。急がねばならない」と告げた。
- 張説は東都から人を送り、佩刀を献じて、決断を促した。
- 荊州長史崔日用も入朝して、「東宮時代なら策謀も必要だったが、いまは天子なのだから、一詔を下せば誰が従わぬか。万一逆徒が先手を取れば後悔しても遅い」と進言した。
- 玄宗は上皇を驚かせることを案じたが、日用は「天下を安んじることこそ天子の孝。まず北軍を押さえ、次いで逆党を捕えれば上皇を驚かせずに済む」と説いた。
- 玄宗はこれを是とし、崔日用を吏部侍郎に任じた。
七月 太平公主一派の誅滅
- 七月、魏知古が太平公主がこの月四日に乱を起こす予定だと告発した。計画では、常元楷・李慈が羽林兵を率いて武徳殿へ突入し、竇懐貞・蕭至忠・岑羲らが南牙で呼応するはずだった。
- 玄宗は岐王範・薛王業・郭元振・王毛仲・姜皎・李令問・王守一・高力士・李守徳らと計を定めた。王毛仲は龍武将軍で、姜皎は姜謩の曾孫、李令問は李客師の孫である。高力士は潘州の人であった。
- 甲子、玄宗は王毛仲に閑厩の馬と兵三百余人を取らせ、自ら武徳殿から虔化門へ入り、常元楷・李慈を召してただちに斬った。
- 賈膺福と李猷は内客省で捕えられ、外へ連れ出された。蕭至忠と岑羲は朝堂で捕えられ、斬られた。
- 竇懐貞は溝に逃げ込み自縊したが、死後その遺体は辱められ、姓を「毒」と改められた。
- 上皇は変を聞いて承天門楼に上ったが、郭元振が「皇帝は詔を奉じて竇懐貞らを誅しただけです」と奏したため安心した。
- ほどなく玄宗も楼に至り、上皇は懐貞らの罪状を詔して大赦した。ただし逆人の親党だけは赦されなかった。
- 薛稷は万年獄で死を賜った。
上皇の完全退位
- 乙丑、上皇は今後、軍国・政刑のすべてを皇帝の処分に任せると誥を下し、自らは百福殿へ移って無為に養志するとした。
太平公主の最期
- 太平公主は山寺に逃げ込んだが、三日後に出て、家において死を賜った。
- その子らと党与のうち数十人が処刑された。
- ただし薛崇簡だけは、たびたび母を諫めて鞭打たれていたため、特に死を免じられ、李姓を賜って官爵も旧のままとされた。
- 公主家の財貨は山のように積まれ、珍宝は御府に匹敵し、厩牧・羊馬・田園・利息金まで没収しても、数年かかっても尽きないほどであった。
- 慧範の家財も数十万緡に達していた。
- 新興王晋は姓を「厲」と改められた。
崔湜・盧蔵用・薛稷らの処分
- 玄宗は当初、崔湜を呼んで心腹として扱うように見せたが、湜の弟崔滌は「何を聞かれても隠すな」と忠告した。湜は従わなかった。
- 乱後、崔湜と右丞盧蔵用は、太平公主に私的に近侍した罪で、それぞれ竇州・瀧州へ流された。
- 新興王晋は刑に臨み、「本来この計画を主導したのは崔湜なのに、自分が死んで彼が生きるのは無念だ」と嘆いた。
- その後、宮人元氏が取り調べで崔湜の毒殺共謀を証言したため、荊州で死を賜った。
- 薛稷の子伯陽は公主の婿であったため死を免れ嶺南流罪となったが、道中で自殺した。
陸象先の節義
- 太平公主らが廃立を論じたとき、竇懐貞・蕭至忠・岑羲・崔湜は皆賛成したが、陸象先だけは反対した。
- 公主が「長を廃して少を立てるのは不順だし、徳もない者をどうして立てられよう」と言うと、象先は「功によって立てたのなら、罪によってのみ廃すべきだ。いま皇帝には罪がない」と答え、最後まで与しなかった。
- 公主は怒って去ったが、乱後に玄宗は象先を呼び、「歳寒にして松柏を知るとはこのことだ」と賞した。
- 公主の党与の多くが連座しそうになった時も、象先は密かに弁護して救う者が多かったが、自分では決して言い立てなかった。
粛清と恩賞
- 百官のうち太平公主に善しとされた者、または悪まれた者は、左遷・昇進が年内いっぱい続いた。
- 丁卯、承天門楼で大赦を行った。
- 己巳、郭元振ら功臣に官爵・邸宅・金帛を与えた。
- 高力士は右監門将軍となり、内侍省事を知ることになった。
宦官勢力の拡大
- 太宗以来、内侍省には三品官を置かず、黄衣で食を受け、門を守り命令を伝えるだけに限っていた。
- 武后も女主であったが宦官を政治に用いなかった。
- ところが中宗の時には嬖幸が増え、七品以上の宦官は千人を超えた。
- 玄宗は藩邸時代から高力士の献身を受けており、太子時代に内給事としたうえ、今度の誅逆の功で賞した。
- 以後、宦官は三千余人に増え、三品将軍に除せられる者も多くなり、緋紫を着る者が千人以上に達した。宦官隆盛の出発点はここにあるとされる。
張説・劉幽求の復権
- 壬申、畢構ら六人を十道へ宣撫に遣わした。
- 乙亥、張説を中書令とした。
- 庚辰、陸象先は宰相を罷めて益州長史・剣南按察使となった。
- 八月癸巳、封州流人であった劉幽求を呼び戻し、左僕射・平章軍国大事に任じた。
突厥との再婚約
- 丙辰、黙啜はその子楊我支を遣わして再び婚姻を求めた。
- 丁巳、唐は蜀王の娘である南和県主を妻わせると約した。
李嶠の旧表
- 中宗崩御の際、李嶠は韋后に対して相王の諸子を外に出すよう密表していた。
- 玄宗は即位後、宮中でその表を見つけて侍臣に示した。ある者は誅殺を求めたが、張説は「逆順を見誤ったが、その時々の主君のために尽くしたのは忠だ」と弁護した。
- 玄宗もこれを是とし、李嶠自身は致仕のまま、子の李暢を虔州刺史とし、嶠をその任地に随わせた。
秋 御史台復活と按察使廃止
- 庚午、劉幽求を同中書門下三品とした。
- 丙戌、右御史台を復置して諸州を督察させ、諸道按察使は廃止した。
十月 京畿県令への戒諭
- 辛卯、京畿の県令たちを引見し、飢饉の年であるから民を恵み養うよう戒めた。
- 己亥、新豊に幸し、癸卯、驪山の麓で講武を行った。兵二十万を徴発し、旌旗は五十余里に連なった。
郭元振失脚と薛訥・解琬
- しかし軍容が整わなかったため、玄宗は兵部尚書郭元振を纛下に引き出して斬ろうとした。
- 劉幽求と張説が馬前に跪いて、元振には社稷の大功があるから殺すべきでないと諫めたため、新州流罪にとどめた。
- 給事中で礼儀を知る唐紹は軍礼不粛の責任を問われて斬られた。玄宗は本来そこまでの意図はなかったが、金吾将軍李邈が軽々しく勅を宣したため、のちに彼自身は罷免され終身廃棄された。
- 全軍が震えた中でも、薛訥の左軍と解琬の軍だけは少しも動揺せず、玄宗が軽騎で呼んでも陣中へ入れないほど整っていた。帝は深くこれを賞した。
- 甲辰には渭川で狩を行った。
姚崇の再登用
- 玄宗は同州刺史姚元之を宰相にしたいと考えていた。
- 張説はこれを嫌い、趙彦昭に弾劾させたが、帝は聞き入れなかった。
- さらに姜皎に「河東総管にふさわしい人物がいる、それは姚元之だ」と言わせたが、玄宗はこれが張説の意だと見抜いて姜皎を叱責した。
- そのうえで中使を遣わし、姚元之を行在に召した。狩場で引見し、ただちに兵部尚書・同中書門下三品に任じた。
- 元之はもとの名を避けて字で通していたが、のちに開元尊号を避ける必要から元の名「崇」に復した。
- 姚崇は吏事に明敏で、三度宰相となるたび兵部尚書を兼ね、辺境の屯戍・斥候・士馬・兵器備蓄をことごとく記憶していた。
- 玄宗は即位以来、励精して政治にあたっていたが、とりわけ姚崇に何事も諮問し、姚崇は即座に答えた。ほかの宰相はただ唯々諾々とするばかりであったため、帝の信任は姚崇に集中した。
- 姚崇は、権幸を抑え、爵賞を惜しみ、諫争を納れ、貢献を退け、群臣との馴れ合いを避けるよう求め、玄宗はすべて受け入れた。
宰相と帝の役割分担
- 乙巳、車駕は京師へ還った。
- 姚崇は以前、郎吏の昇進順序について奏請したが、玄宗は屋根を見上げるばかりで答えなかった。崇は不安のまま退出した。
- すると高力士が「新たに万機を総べる天子として、宰相の奏事には面前で可否を示すべきでは」と諫めた。
- 玄宗は「大政は姚崇に委ね、共に議すればよい。卑職の昇進までいちいち朕を煩わせる必要はない」と答えた。
- 高力士がこの言葉を崇に伝えると、崇は大いに喜んだ。聞く者は、帝が人を使う道をよく心得ていると感じた。
張九齢の奏記
- 左拾遺の張九齢は、姚崇が重望をもって信任されていることを見て、奏記を送り、軽躁で人情に流れる者を遠ざけ、純厚な人を進めるよう勧めた。
- 人材登用は政治の大体であり、以前に人を誤って用いたのは知人の明が無かったからではなく、情に引かれて失敗したのだと論じた。
- また、相国として人事権を握れば、恥を知らぬ者が親戚・賓客にへつらって群がるので、才能があっても無恥な者には警戒すべきだと述べた。姚崇はこれを嘉納した。
李撝の節義
- 新興王晋が誅された時、僚吏はみな逃げ散ったが、司功李撝だけは徒歩で柩に従い、官としての礼を失わず、その遺体を哭した。
- 姚崇はこれを聞いて、漢の欒布のような人物だと賞し、のちに尚書郎へ抜擢した。
十一月 諸臣の動き
- 己酉、趙彦昭を朔方道大総管とした。
- 乙丑、劉幽求は侍中を兼ねた。
- 辛巳、群臣が「開元神武皇帝」の尊号を奉るよう請い、玄宗はこれを受けた。戊子、正式に冊を受けた。
王琚への警戒
- 王琚は玄宗に最も親しく、夜に及んで語らうこともしばしばで、休沐の日にさえ中使で呼び出されるほどだった。
- しかし「王琚は機略縦横の才はあるが、乱を平らげるにはよくても太平の世を守るには向かない」との声があり、帝も次第に距離を置き始めた。
- この月、王琚に御史大夫を兼ねさせ、北辺諸軍の巡察に出した。
十二月 開元改元と官制改定
- 庚寅、大赦して年号を開元と改めた。
- 官制も改め、尚書左右僕射を左右丞相、中書省を紫微省、門下省を黄門省、侍中を監とし、雍州を京兆府、洛州を河南府とし、長史を尹、司馬を少尹とした。
- 甲午、吐蕃は大臣を遣わして和を求めた。
- 壬寅、姚元之は開元の尊号を避けて、元の名である姚崇に復した。
- また都督・刺史・都護が赴任する際には、面辞の後に側門で最終指示を受けることとした。
張説の失脚
- 姚崇が宰相になると、紫微令張説は不安を覚え、ひそかに岐王に接近して誠意を示した。
- ある日、姚崇が便殿で対見した際、わざと歩みに異変を見せた。玄宗が足の病かと問うと、崇は「腹心の病です」と答え、張説が輔臣でありながら密かに岐王家へ車で出入りし、国を誤らせかねないと憂えると述べた。
- 癸丑、張説は相州刺史へ左遷された。
- 右僕射・同中書門下三品の劉幽求もまた罷められ、太子少保となった。
- 甲寅、黄門侍郎盧懐慎が同紫微黄門平章事となった。