資治通鑑唐紀二十六 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之上 先天 元年 712年
正月 南郊と改元太極
- 正月辛巳、睿宗は南郊で祭祀を行った。
- これは賈曾の建議に基づき、天地を合祭する形式によった。古制では天は南郊円丘、地は北郊方丘に別々に祀るが、後世には大祭において合祭の前例もあると解された。
- 戊子、帝は滻水東方へ幸し、籍田を耕した。
- 己丑、大赦を行って年号を太極と改めた。
突厥婚姻の停滞
- 乙未、安福門で突厥の楊我支を宴し、金山公主を示した。
- しかしほどなく帝位継承の動きが生じたため、婚礼はついに実現しなかった。
宰相人事
二月 右御史台の廃止と蕭至忠
- 辛酉、右御史台を廃止した。これは武后以来左右に分かれていた御史台の再整理である。
- 蒲州刺史の蕭至忠は太平公主に接近し、その引き立てで刑部尚書となった。
- 華州刺史蔣欽緒は義弟である至忠に「君ほどの才能なら無理に出世を求めずともよい。非分の望みを持つな」と戒めたが、至忠は答えなかった。欽緒は、名門九代の家が一挙に滅ぶだろうと嘆いた。
- 至忠は名望ある人材であったが、公主邸から出てきたところを宋璟に見られ、「蕭君に望むところではない」と諫められた。至忠はただ笑って馬を進めた。
幽州の交代
- 薛訥は幽州で二十年余にわたり安定した統治を行い、辺外に兵を出さずとも異族は侵さなかった。
- しかし燕州刺史李璡と不和であり、璡が劉幽求に訴えたため、幽州大都督は孫佺に交代し、薛訥は并州長史へ移された。
五月 益州の獠反乱と延和改元
- 五月、益州で獠が反乱した。
- 戊寅、北郊祭祀を行い、辛巳に大赦して年号を延和と改めた。
武攸暨の死と岑羲の昇進
- 六月丁未、武攸暨が死去し、定王を追封された。
- 睿宗は、節愍太子重俊の乱の際、岑羲に自身と太平公主を保護する功があったとして、癸丑、羲を侍中に昇進させた。
幽州軍の大敗
- 庚申、幽州大都督孫佺は奚の酋長李大酺と泠陘で戦い、全軍が壊滅した。
- 当時、孫佺は李楷洛・周以悌らと兵二万、騎兵八千を三軍に分けて奚・契丹を奇襲しようとしていた。
- 将軍烏可利は、道が険しく夏暑でもあり、遠征は必ず失敗すると諫めた。だが孫佺は、薛訥は長年辺境にいても営州回復ができなかった、今こそ自分が成功すると豪語した。
- 李楷洛の先鋒が奚兵八千に当たって不利となったが、孫佺は臆して救わなかった。唐軍は大敗した。
- 孫佺は山に拠って方陣を組み、大酺に対し「詔により招慰に来たのであって戦いに来たのではない」と弁解した。軍中の帛一万余段や紫袍・金帯・魚袋まで贈ってようやく退却を許された。
- しかし退却中に追撃され、兵は完全に崩壊した。周以悌は捕えられて黙啜に献じられ、殺された。李楷洛と烏可利だけが逃げ帰った。
七月 彗星と譲位決意
- 七月、西方に彗星が現れ、軒轅・太微を経て大角に至った。相者は竇懐貞に刑罰の災いがあると告げ、懐貞は恐れて安国寺の奴となることを願い、一時的に官を解かれた。
- しかし乙亥、再び左僕射兼御史大夫・平章軍国重事に復帰した。
- 太平公主は術者に言わせて、「彗星は旧を除き新を布くしるしであり、帝座や心宿、前星にも変異があるから、皇太子が天子になるべきだ」と睿宗に説かせた。
- 睿宗は、中宗の時にも災異に応じて賢子を立てるよう進言したのに用いられなかったことを思い出し、自らは今こそ譲るべきだと決意した。
- 太子は泣いて固辞したが、睿宗は「社稷再安も、自分が天下を得たのもお前の功による。これで禍を福に転ずるのだ」と諭した。
- 壬辰、睿宗は太子に譲位する詔を出した。
- 太平公主は、譲位しても大政は上皇が握るべきだと勧めたため、睿宗は太子に「軍国の大事はなお兼ねて見る」と告げた。
八月 玄宗即位
- 庚子、李隆基が即位し、睿宗は太上皇となった。
- 上皇は自らを「朕」と称し命令を「誥」とし、五日ごとに太極殿で朝を受けた。新帝は自らを「予」と称し命令を「制敕」とし、毎日武徳殿で朝を受けた。
- 三品以上の官任と大刑・大政は上皇が決し、それ以外は皇帝が決する二重体制となった。
- 壬寅、武后の尊号を「聖帝天后」と改めた。
- 甲辰、大赦して年号を先天とした。
北辺軍備の整備
- 乙巳、鄚州北方に渤海軍を置いた。
- 恒州・定州境には恒陽軍、媯州・蔚州境には懐柔軍を置き、五万の兵を屯させた。
皇后・皇子の冊立
- 丙午、王氏を皇后とし、その父王仁皎を太僕卿とした。王仁皎は下邽の人である。
- 戊申、許昌王嗣直を郯王、真定王嗣謙を郢王に改封した。
劉幽求・魏知古・崔湜の起用
- 劉幽求が右僕射・同中書門下三品、魏知古が侍中、崔湜が検校中書令となった。
王琚の登用
- 河内の王琚は、かつて王同皎の謀に加わって亡命し、江都で書写をしていた。太子時代の李隆基が彼と会うと、琚はわざと「今や殿下と呼ぶべきは太平公主だけだ」と言って危機感をあおった。
- 彼は韋氏誅滅は容易だが、太平公主は武后の娘で狡猾きわまりなく、大臣の多くも従っているのでより危険だと説いた。
- 太子が「父帝を思うと公主をどう扱うべきか悩む」と言うと、琚は漢の蓋主の例を挙げ、天子の孝は宗廟社稷の安定を優先すべきだと説いた。
- 太子はこれを喜び、琚を詹事府司直に任じ、日々親しく交わった。即位後は中書侍郎に進めた。
劉幽求・張暐の密謀と失敗
- 宰相の多くが太平公主派であったため、劉幽求は右羽林将軍張暐とともに羽林兵で公主一派を誅そうと計画した。
- 張暐は密かに玄宗に、「竇懐貞・崔湜・岑羲らは公主によって出世し、日夜不軌を図っている。早く除かねば太上皇も危うい」と訴えた。
- 玄宗もこれを是としたが、張暐が侍御史鄧光賓に漏らしたため、光賓が急いで上奏し、帝は驚いて計画を表面化させた。
- 丙辰、劉幽求は下獄され、死罪の議も出たが、玄宗は大功を理由に助命し、癸亥に封州へ流した。張暐は峰州、鄧光賓は繡州へ流された。
崔湜の陰謀と王晙
- 崔湜はかつて譙王重福と密通し、その時にも張説・劉幽求に救われた経緯があった。
- ところが太平公主に附くと、張説を東都分司に退け、さらに流人となった劉幽求を広州都督周利貞に殺させようとした。
- 桂州都督王晙はその意図を察し、幽求を保護して送らなかった。利貞が何度も文書で送付を求めても応じず、崔湜が圧力をかけても退かなかった。
- 幽求は「私を守ればあなたまで危険です」と勧めたが、王晙は「友を見捨ててはならない」として、ついに送り出さなかった。これによって幽求は命を保った。
九月 皇子冊立
- 丁卯朔に日食があった。
- 辛卯、皇子嗣昇を陜王とした。嗣昇の母楊氏は楊士達の曾孫で、王皇后に子がなかったために養育されていた。
十月 新豊行幸と沙陀の朝貢
- 庚子、玄宗は太廟に謁して大赦した。
- 癸卯、新豊に幸し、驪山の麓で狩猟を行った。
- 辛酉、沙陀金山が使者を送って朝貢した。沙陀は処月の別種で、朱邪氏を姓とした。胡三省は、沙陀の由来を北庭の大磧に求め、後世の系譜説には誤りが多いと考証している。
十一月 奚・契丹の侵入と三総管
- 乙酉、奚・契丹二万騎が漁陽に侵入した。
- 幽州都督宋璟は城門を閉じて出撃せず、敵は大いに掠奪して去った。
- 上皇は皇帝に辺境巡幸を命じ、西は河隴から東は燕薊に至るまで将を選び兵を鍛えるよう告げた。
- 甲午、宋璟を左軍大総管、薛訥を中軍大総管、郭元振を右軍大総管とした。
十二月 李日知の引退願い
- 刑部尚書李日知は致仕を願った。
- 彼は在官中、鞭打ちを用いずに政務をまとめることで知られた。ある令史が勅命を受けて三日間執行を忘れた時、日知は杖を持たせて役所中の吏を集めたが、直前で「お前を打てば、世間ではお前が李日知を怒らせた能吏だと評し、妻子までお前を尊敬するだろう」と言って打たずに許した。
- そのため吏たちは皆感服し、誰も軽々しく法を犯さず、もし誰かが怠慢を犯すと同僚が責め立てた。