資治通鑑唐紀二十六 睿宗玄真大聖大興孝皇帝下 景雲 二年 711年
正月 突厥との和議
- 正月癸丑、突厥の可汗黙啜が使者を送って和を請い、唐はこれを許した。
- 己未、郭元振と張説がともに宰相となった。
- 温王重茂は襄王に改められ、集州刺史として任じられ、さらに中郎将に兵五百を率いさせてその防衛に当たらせた。
追立された二妃
- 乙丑、劉氏を肅明皇后、竇氏を昭成皇后と追立し、それぞれ恵陵・靖陵と号した。
- 二人ともすでに亡くなって久しく、遺体は失われていたため、招魂によって東都城南に葬り、京師に儀坤廟を建てて祀った。
- 竇氏は太子李隆基の母である。
太平公主の策動と韋安石・宋璟の抵抗
- 太平公主は益州長史竇懐貞らと朋党を結び、太子を危うくしようとした。
- その婿の唐晙を使い、韋安石を自邸に招こうとしたが、安石は固辞して応じなかった。
- 睿宗はひそかに安石を呼び、「朝廷はみな東宮に心を傾けていると聞く」と尋ねた。安石は「亡国の言です。これは太平公主の策に違いありません。太子は社稷に功があり、仁明孝友は天下の知るところです」と直言した。
- 帝ははっとして了解したが、この対話を簾の下で盗み聞きしていた太平公主は安石を憎み、流言で陥れようとした。郭元振の救いで大事には至らなかった。
- また太平公主はかつて光範門内で輦に乗ったまま宰相たちを呼び止め、東宮交代をほのめかした。皆が顔色を失う中、宋璟は「東宮は天下に大功があり、宗廟社稷の主にふさわしい」と公然と反対した。
太子保全策と公主の東都移置案
- 宋璟と姚元之は密かに睿宗に、宋王成器と豳王守礼が太平公主の策動に利用され、東宮が不安定になる恐れがあると告げた。
- 両王を刺史として外に出し、岐王・薛王から羽林使の任を解いて東宮の左右率に改め、太子に奉事させるよう求めた。
- さらに太平公主と武攸暨を東都に移すよう請うたが、睿宗は「兄弟はなく、妹は太平ただ一人」としてそこまでは認めなかった。
- しかし諸王・駙馬が禁兵を統べることを禁じ、現任者を他官に移す詔は先に出された。
術者の「急兵」説と太子監国
- しばらくして睿宗は「術者が、五日以内に急兵が宮中へ入ると言う」と側近に警戒を命じた。
- 張説はこれを讒言だと見て、「流言を鎮めるには太子に監国させるのがよい」と進言した。
- 姚元之もこれを国家の大計だとして支持し、二月丙子、宋王成器を同州刺史、豳王守礼を豳州刺史、岐王・薛王を左右衛率に任じた。
- 丁丑、太子に監国を命じ、六品以下の任官と徒罪以下の処分はすべて太子に委ねた。
斜封官の復叙
- 殿中侍御史崔蒞と太子中允薛昭素は、斜封官は先帝の恩命であり、一朝にして尽く奪えば先帝の過失を天下に示し、怨みを招くと進言した。
- 太平公主も同じ主張を行い、睿宗はこれを容れて、戊寅、いったん停任した斜封官を能力に応じて再登用する詔を出した。
- 太平公主は姚元之・宋璟が自分に不利な政策を進めたことを怒り、太子を責めた。
- 太子は恐れて、姚元之と宋璟が姑と兄の仲を離間したとして厳罰を請うた。
- 甲申、姚元之は申州刺史、宋璟は楚州刺史に左遷され、丙戌には宋王と豳王の外任命令も取り消された。
- 劉幽求も参知機務を罷められ、代わって韋安石と李日知が政治を担うことになったが、ここから綱紀は再び景龍期のように乱れていった。
柳沢の諫言
- 前右率府鎧曹参軍の柳沢は上疏し、斜封官は僕妾や私的な引き立てによるもので、中宗本来の意思ではないと主張した。
- 一度はすべて退けて天下の称賛を得たのに、ここで全員を復叙すれば善悪の基準が揺れ、政令不一と見られると批判した。
- また、太平公主が胡僧慧範を用いて帝を惑わせていると述べ、これを放置すれば大禍になると警告したが、睿宗は聞き入れなかった。柳沢は柳亨の孫である。
北門四軍
- 左右万騎と左右羽林は合わせて北門四軍とされ、葛福順らがこれを統率した。
三月 突厥との婚姻
- 三月、宋王成器の娘を金山公主として黙啜に嫁がせることが決まった。
四月 睿宗の譲位意向
- 四月甲申、宋王成器は司徒を辞し、代わって太子賓客となった。韋安石は中書令に進んだ。
- 睿宗は三品以上の群臣を召し、「自分はもとより淡泊であり、天子の位を貴いとは思わない。かつて皇嗣・太弟の時も辞退した。今は太子に譲りたい」と語った。
- 群臣は答えられず、太子も右庶子李景伯を通じて固辞した。
- しかし太平公主に通じる和逢堯が「陛下はまだ壮年で、四海の依るところである」と述べたため、この時は譲位を取りやめた。
- ただし戊子、政事はすべて太子の処分を経ることとし、軍事・死刑・五品以上の任命のみは帝と太子が先に協議してから奏聞させることとした。
五月 太平公主の帰京と二観建立
- 太子は宋王への譲位を願ったが許されず、次に太平公主を京へ戻すよう請い、これは許された。
- 庚戌、武后の父母の墓を再び昊陵・順陵として官属を置くことが定められた。これは太平公主が武攸暨のために請うたものである。
- 辛酉、西城公主を金仙公主、隆昌公主を玉真公主と改め、それぞれのために道観を建てることになった。
- 民家の強制接収が多く、工費も莫大であったため、魏知古や李乂らが諫めたが帝は従わなかった。
竇懐貞の入相と慧範の専横
- 壬戌、竇懐貞が御史大夫・同平章事となった。
- 胡僧慧範は太平公主の権勢を背景に民産を奪った。御史大夫薛謙光と殿中侍御史慕容珣はこれを弾劾したが、公主の訴えにより薛謙光は岐州刺史へ左遷された。
十道按察使と都督府再編案
- この頃、十道に使者を遣わして州郡を按察させる制度が議された。山南道は広すぎるため東西に分けられ、隴右も河西道に分けられた。
- 六月壬午には、さらに天下を二十四都督に分けて刺史以下を監察させる案も出た。洛陽と近畿州は都督府に属さないものとされた。
- しかし李景伯・盧俌らは、都督に生殺与奪の権を持たせるのは危険であり、品秩は低くとも名望の重い御史が巡察すれば十分だと上言した。
- 結局、二十四都督制は定着せず、十道按察使だけが残った。
七月 上官昭容の復権など
- 癸巳、上官昭容の官位を回復し、恵文の諡を贈った。
- 乙卯、高祖旧宅の枯れた柿の木が再び生えたとして大赦が行われた。
朔方の兵削減
- 己巳、解琬が朔方大総管となり、三受降城の守兵を調査した結果、十万人の削減を奏上した。
韋安石の実権剥奪
- 庚午、韋安石は左僕射・兼太子賓客・同中書門下三品となった。
- だがこれは太平公主が、安石が自分に与しないのを嫌って、名誉職に上げることでかえって実権を外したものだった。
九月 竇懐貞と二観工事
- 庚辰、竇懐貞は侍中となった。
- 退朝すると必ず太平公主邸を訪れ、金仙・玉真二観の工事ではみずから役人を督した。
- 当時の人々は、彼は昔は皇后の「阿㸙」、今は公主の「邑司」だと揶揄した。
十月 政局の総入れ替え
- 甲辰、睿宗は承天門に出て韋安石・郭元振・竇懐貞・李日知・張説を召し、政治の欠陥、水旱の災い、府庫の空乏、冗官の増加を責めた。
- そのうえで、安石を左僕射・東都留守、郭元振を吏部尚書、竇懐貞を左御史大夫、李日知を戸部尚書、張説を左丞とし、いずれも政事から外した。
- 代わって劉幽求を侍中、魏知古を左散騎常侍、崔湜を中書侍郎、陸象先を同平章事とした。これらは多く太平公主の意にかなう人事であった。
- 陸象先は清静で欲が少なく、言論も高く評価されていた。崔湜は太平公主に近侍し、彼女はこれを宰相に引き上げようとした。湜は単独昇進を遠慮し、象先とともに進むことを望んだため、二人とも起用された。
辛替否の痛烈な上疏
- 右補闕辛替否は、太宗の治世が寺観乱造を避け、官爵を濫発せず、財政も豊かで天下も安定したことを称えた。
- それに対し中宗は、女子の意に従って数千の冗官・百余家の無功封爵を生み、寺観建立と出家者の増加で租庸を免れる者が十万規模に達し、国家財政も民生も破綻したと述べた。
- 現在も水旱・霜蝗が相次ぎ、民に食がないのに、二公主のための道観に巨費を投じるのは誤りだと厳しく批判した。
- また、韋氏を族滅しても韋氏政治の悪弊を改めないなら、結局はまた人々に恨まれると警告した。
- 安楽公主の大邸宅や園林を造った宗晋卿・趙履温の例を引き、今の造観の背後にも同種の佞臣がいるはずだとし、直言の価値を説いた。睿宗は従わなかったが、その率直さは賞した。
和逢堯の突厥外交
- 御史中丞和逢堯は鴻臚卿を兼ね、突厥へ使いした。
- 彼は黙啜に、「処密・堅昆などは、可汗が唐と婚姻したと聞けば帰附するだろう。ならば唐風の冠服を着てみせれば諸胡への示威になる」と説いた。
- 黙啜はこれを受け入れ、翌日、襆頭に紫衫の唐装で南向し、臣と称して再拝した。
- その子楊我支と国相を逢堯に伴わせて入朝させた。十一月戊寅に京師へ着き、逢堯はその功で戸部侍郎に昇った。
兵役年齢の改定
- 壬辰、天下の百姓は二十五歳で兵に入り、五十五歳で免ずると定めた。
司馬承禎の召見
- 十二月癸卯、興昔亡可汗阿史那献が十姓慰撫の使に任じられた。
- 睿宗はまた天台山の道士司馬承禎を召し、陰陽・術数について問うた。
- 承禎は「道はひたすら欲を減らし、無為に至るもので、術数に心を労するものではない」と答えた。
- 帝が「身を治めるにはよいが、国を治めるにはどうか」と尋ねると、承禎は「国も身と同じで、自然に従い私心をなくせば天下は治まる」と説いた。
- 睿宗はこれを広成子の道に比し賞賛した。
- 帰山を望む承禎に対し、盧蔵用は終南山こそ佳地だと勧めたが、承禎は「あそこは仕官への近道にすぎない」と評した。蔵用がかつて終南隠士を装って徴用された経歴を踏まえた皮肉である。