資治通鑑唐紀二十二 則天順聖皇后 聖歴 二年 699年

正月 控鶴監の整備と人事

  • 丁卯朔、通天宮で朔を告げる儀が行われた。
  • 壬戌、皇嗣は相王となり、太子右衛率を兼ねた。
  • 甲子、控鶴監に丞・主簿などの属官が置かれた。そこに集められたのは多くが太后の寵臣であったが、一部には文章や学問の士も加えられた。
  • 張易之が控鶴監、張昌宗、吉頊、田帰道、李迥秀、薛稷、員半千らが内供奉となった。
  • ただし員半千は、古来こうした官はなく、しかも軽薄な者が多いとして上疏し、廃止を求めたため、水部郎中に左遷された。

臘月 吉頊・魏元忠の入相、宗氏兄弟の失脚

  • 戊子、吉頊が天官侍郎、魏元忠が鳳閣侍郎となり、ともに同平章事となった。
  • 文昌左丞の宗楚客と、その弟で司農卿の宗晋卿は、賄賂が一万余緡に達し、邸宅も制度を超えて豪奢だったため、楚客は播州司馬、晋卿は峰州へ流された。
  • 太平公主はその邸宅を見て「この程度の暮らしもできぬとは、私たちはむなしく生きているようなものだ」と嘆いた。

辛亥 武姓の下賜と重眉の瑞祥

  • 辛亥、太子に武姓が賜われ、天下に赦しが行われた。
  • 太后の眉が重なって八字の形に見えるとされ、百官はこれを賀した。
  • 河南・河北には、突厥への備えとして武騎団が置かれた。

春一月 武攸寧の罷免

  • 庚申、武攸寧は同鳳閣鸞台三品を罷められ、冬官尚書となった。

二月 嵩山行幸

  • 己丑、太后は嵩山へ行幸し、途中で緱氏に立ち寄って昇仙太子廟に詣でた。
  • 壬辰、太后が病んだため、給事中の閻朝隠が少室山へ祈祷に遣わされた。
  • 閻朝隠は自ら犠牲となる覚悟を示し、身を清めて祭壇の上に伏し、自分の命で太后の病を代わってくれと願った。
  • 太后の病が少し快方に向かったため、彼は厚く賞された。
  • 丁酉、太后は緱氏から帰還した。

吐蕃での欽陵一族滅亡

  • 吐蕃では、賛普の器弩悉弄がまだ若く、論欽陵兄弟が政務と軍事を分掌して強大な権勢を持っていた。
  • 兄弟はいずれも勇略に富み、諸胡から恐れられ、賛婆は長年東辺で唐の大きな脅威だった。
  • 器弩悉弄が成長すると、大臣の論巌らと密かに欽陵一族を誅そうと謀った。
  • 欽陵が外出した機会を利用して、賛普は狩猟を装って兵を集め、欽陵の親党二千余人を捕えて殺した。
  • 欽陵兄弟を呼び戻したが、彼らは兵を挙げて応じず、賛普の討伐を受け、兵が潰えると欽陵は自殺した。

夏四月 賛婆の降伏

  • 賛婆は部衆千余人を率いて唐へ降った。
  • 太后は左武衛鎧曹参軍の郭元振と河源軍大使の夫蒙令卿に騎兵を率いさせて迎えさせた。
  • 賛婆には特進・帰徳王が授けられた。
  • 欽陵の子の弓仁もまた、吐谷渾の七千帳を率いて降り、左玉鈐衛将軍・酒泉郡公に任じられた。

并州・隴右の防衛体制

  • 壬辰、魏元忠は検校并州長史・天兵軍大総管となり、突厥に備えた。
  • 婁師徳は天兵軍副大総管となるとともに、隴右諸軍大使として、吐蕃からの降人の懐柔に専ら当たった。

壬寅 武氏と李氏の和解誓約

  • 太后は高齢となり、自身の死後に太子と武氏諸王が争うことを憂えた。
  • そこで壬寅、太子・相王・太平公主と武攸暨らに誓文を作らせ、明堂で天地に告げ、その文を鉄券に刻んで史館に納めた。

七月 西京留守の交代

  • 建安王武攸宜が西京留守となり、会稽王武攸望に代わった。

吐谷渾・突騎施との外交

  • 丙辰、吐谷渾の部落千四百帳が内附した。
  • 八月癸巳、突騎施の烏質勒が子の遮弩を入朝させた。
  • 朝廷は侍御史の解琬を派遣し、烏質勒と十姓諸部を安撫させた。

碑文濫立の禁止

  • 州県の長吏に対し、詔命がない限り、みだりに碑を立ててはならないとの制が下された。

王及善の退場

  • 内史の王及善は学識こそ乏しかったが、清廉で、大臣として節操を失わなかった。
  • 張易之兄弟が宮中の宴でますます臣下の礼を失っていくと、王及善はたびたび奏してこれを不可とした。
  • 太后は不快に思い、「高齢なのだから、今後は遊宴に侍る必要はない。閤中の事務だけ見よ」と言った。
  • 王及善は病と称して長く休み、太后も見舞わなかった。
  • 彼は「中書令が一日も天子に会わぬなど、先は知れた」と嘆き、致仕を願ったが、許されなかった。
  • 庚子、文昌左相となり、豆盧欽望が右相となり、いずれも同鳳閣鸞台三品を兼ねた。
  • 楊再思は政事を退いて左台大夫となった。
  • 丁未、相王は検校安北大都護を兼ねた。

婁師徳の死

  • 婁師徳が隴右諸軍大使の任にあって死去した。
  • 河隴で前後四十余年、恭勤して倦まず、民も夷も彼を頼った。
  • 性格は沈着で厚く、寛恕に富んでいた。
  • 狄仁傑が宰相となったのも実は婁師徳の推薦によるものだったが、狄仁傑はそれを知らず、むしろ師徳を軽んじ、しばしば外へ押しやろうとした。
  • 太后が狄仁傑に師徳の人物を問うと、狄仁傑は辺将としては有能だが、賢者かどうかは知らない、また人を知るかどうかもわからないと答えた。
  • そこで太后は、自分が狄仁傑を知ったのはまさに婁師徳の推挙によるのだと明かした。
  • 狄仁傑は退出後、婁公の盛徳は深く、自分は長く包容されながらその大きさに気づかなかったと嘆いた。
  • 羅織が渦巻く時代にあって、婁師徳が功名を全うして天寿をまっとうできたことも、人々に重んじられた理由だった。

秋九月 武三思の内史就任

  • 戊申、武三思が内史となった。
  • 乙亥、太后は福昌へ行幸し、戊寅に神都へ帰った。
  • 庚子、王及善が薨じ、「邢貞公」とされた。
  • このころ黄河があふれ、済源で百姓の家千余戸が流された。

十月 論賛婆の厚遇

  • 丁亥、論賛婆が都に到着した。
  • 太后は非常に手厚くもてなし、褒賞を惜しまず、右衛大将軍とし、その部衆を率いて洪源谷を守らせた。

太子・相王の諸子の復帰

  • 太子と相王の諸子は、再び宮中の幽閉状態から出された。

学校の頽廃と冤罪の整理を求める韋嗣立の上疏

  • 太后が臨朝して以来、武氏諸王や駙馬都尉がしばしば成均の祭酒・博士・助教に任じられ、その多くは儒者ではなかった。
  • また、郊祀・明堂・洛・嵩山封禅などのたびに、弘文館や国子監の学生が斎郎として動員され、そのまま選補への近道となった。
  • このため学生は学業を怠り、二十年のうちに学校制度はほとんど荒廃した。
  • さらに、酷吏によって罪を着せられた者たちの親友・一族は離散したまま、まだ赦免されていない者が多かった。
  • 韋嗣立は上疏し、儒学軽視の風を正し、王公以下の子弟をみな国学に入れ、別ルートでの仕官を抑えるべきだと提案した。
  • また、徐敬業や越王貞の挙兵以来、獄事は繁くなり、酷吏が人を殺すことで昇進しようとしてきたが、周興・丘神勣・王弘義・来俊臣らが次々に誅されてようやく朝野は春のような安堵を得たと述べた。
  • 狄仁傑や魏元忠ですらかつては自らを誣告させられたのであり、のちに良臣として用いられている事実から見ても、多くの冤罪があったのは明らかだとした。
  • そこで垂拱以来の軽重すべての罪を洗い、死者には官爵を復し、生者には帰郷を許せば、天下はそれが陛下の本意でなく獄吏の罪だったことを知り、幽明ともに慰められようと進言した。
  • しかし太后は全面的には従わなかった。
  • 韋嗣立は韋承慶の異母弟で、母の王氏は承慶に酷かったが、嗣立はいつも代わって杖を受けようとし、そのため母も次第に態度を和らげたという。
  • 韋承慶が病で鳳閣舎人を退くと、当時萊蕪令だった嗣立が召され、「そなたの父は、二人の子はいずれも朕に仕えうると言ったが、その通りだ」として、その日のうちに鳳閣舎人に任じられた。

突厥内部の体制整備

  • この年、黙啜は弟の咄悉匐を左廂察、骨篤禄の子の黙矩を右廂察とし、それぞれ二万余の兵を統べさせた。
  • さらに自分の子の匐俱を小可汗として、両察の上位に置き、処木昆など十姓の兵四万余を統べさせ、「拓西可汗」と号させた。