資治通鑑唐紀二十二 則天順聖皇后 聖歴 一年 698年

正月 改元と通天宮祭祀

  • 正月甲子朔が冬至にあたったため、太后は通天宮で祭祀を行い、天下に大赦して元号を聖歴と改めた。
  • 宗楚客は政事を退いた。

二月 豆盧欽望の罷免

  • 乙未、豆盧欽望は文昌右相・同鳳閣鸞台三品を罷められ、太子賓客となった。

武承嗣・武三思の立太子工作と狄仁傑の進言

  • 武承嗣・武三思は皇太子の地位を求めて盛んに運動し、「古来、異姓を皇統の後継にした例はない」と太后に吹き込んだ。太后も決断できずにいた。
  • 狄仁傑は折に触れて、太宗は苦難の末に天下を定め、子孫へ伝えたのであり、高宗もまた二子を太后に託したのだから、これを他姓へ移すのは天意に背くと諫めた。
  • さらに、母子と姑姪のどちらが親しいかを問うて、子を立てれば太廟の祭祀も万世に続くが、姪が天子となって姑を太廟に祀る例はないと述べた。
  • 太后は「これは家事だ」と言ったが、狄仁傑は「王者は四海を家とする。宰相たる臣が関わらぬはずがない」と言い切った。
  • また狄仁傑は、廬陵王を房州から呼び戻すべきだとも勧めた。王方慶・王及善も同様に勧め、太后の心は次第に動いた。
  • さらに太后が「大鸚鵡の両翼が折れる夢を見た」と語ると、狄仁傑は「武は陛下の姓、両翼は二人の子です。二子を起こせば翼は再び振るいます」と答えた。太后はこれによって、武承嗣・武三思を立てる考えを弱めた。

吉頊と張易之・張昌宗の策動

  • 孫万栄が幽州を囲んだ際、檄文で「なぜ廬陵王を帰さないのか」と朝廷に迫っていたことも、世論の動きを示していた。
  • 吉頊は、この年に置かれた控鶴監で張易之・張昌宗とともに供奉していた。
  • 吉頊は兄弟に対し、今の寵愛は徳によるものではなく、天下は二人を憎んでいる、このままでは身を保てないと警告した。
  • そのうえで、天下の士庶はいまだ唐を忘れず、廬陵王を待望している、主上も高齢で大業を託す相手が必要なのに武氏諸王は本意ではないのだから、二人が太后に廬陵王擁立を勧めれば、禍を避けるだけでなく長く富貴を保てると説いた。
  • 張氏兄弟はこれに従ってたびたび太后へ進言し、太后は計略の出所が吉頊だと知って召し出した。
  • 吉頊は改めて利害を詳説し、太后はついに決意を固めた。

三月 廬陵王の召還

  • 己巳、太后は「廬陵王に病がある」との名目で、職方員外郎の徐彦伯を房州へ遣わし、廬陵王と妃・諸子を行在へ呼び寄せた。
  • 戊子、廬陵王は神都に到着した。

夏四月 太廟祭祀と辺防

  • 庚寅朔、太后は太廟を祀った。
  • 辛丑、婁師徳は隴右諸軍大使となり、営田をも兼ねて辺地経営に当たった。

六月 突厥との婚姻交渉

  • 甲午、淮陽王武延秀が突厥へ赴き、黙啜の娘を妃として迎えることになった。
  • 閻知微が春官尚書を、楊斉荘が司賓卿を仮に帯び、莫大な金帛を携えて同行した。武延秀は武承嗣の子である。
  • 鳳閣舎人の張柬之は、中国の親王が夷狄の女を娶る前例はないと諫めたが、太后の意に逆らったため、合州刺史に左遷された。

七月 杜景儉の罷免

  • 鳳閣侍郎・同平章事の杜景儉は罷められて秋官尚書となった。

八月 黙啜の翻意と北辺侵攻

  • 戊子、武延秀が黒沙の南庭に至ると、黙啜は閻知微らに対し、「自分は李氏の皇子に娘を嫁がせたいのであって、武氏の子など不要だ。突厥は代々李氏の恩を受けてきた。李氏がほとんど滅び、残るは二人の子だけだと聞く。自分が兵を出してこれを助けて立てる」と言った。
  • 武延秀は別所に拘禁され、閻知微は「南面可汗」とされて、唐の民を治める役に使うとされた。
  • そして黙啜は兵を起こし、静難・平狄・清夷などの軍を襲った。
  • 静難軍使の慕容玄崱は兵五千で降服し、敵勢は大いに振るった。
  • さらに媯州・檀州などに侵攻した。
  • 閻知微に従って突厥へ入った者たちは、みな五品や三品に相当する服を与えられていたが、太后はそれをすべて剥奪した。
  • 黙啜は書簡で朝廷を責め、与えられた種籾は芽が出ず、金銀器は粗悪品で、使者に与えた紫緋の衣は取り上げられ、繒帛も粗悪であり、しかも可汗の娘にふさわしいのは天子の子であって、門地の低い武氏では釣り合わない、と五つの不満を並べて「このため河北を取る兵を起こす」と宣言した。

裴懐古の帰還

  • 監察御史の裴懐古も閻知微に従って突厥へ行っていたが、黙啜が官を授けようとしても受けず、囚われて殺されそうになった末、逃げ帰った。
  • 晋陽へ着いたときには痩せ衰えており、突騎の兵が間諜と疑って首級を取ろうとした。
  • しかし、かつて冤罪を裴懐古に正された果毅が彼を救い、都へ着いて引見されると、祠部員外郎に昇進した。

秋の農事を守る地方官

  • 各州では突厥侵攻の報を受け、秋であるにもかかわらず争って民を徴発して城の修築を急がせた。
  • だが衛州刺史の太平敬暉は、食糧こそ守りの本であり、収穫を捨てて城壁だけを固めても意味がないと判断し、工事を全部やめさせて民を田に帰した。百姓は大いに喜んだ。

王方慶の罷免と武承嗣の死

  • 甲午、鸞台侍郎・同平章事の王方慶は麟台監に退いた。
  • 武承嗣は太子になれなかったことを深く恨み、気鬱のまま戊戌に病没した。
  • 庚子、武三思が検校内史、狄仁傑が兼納言となった。

狄仁傑の用人

  • 太后が宰相たちに尚書郎を一人ずつ推挙させたとき、狄仁傑は自分の子の狄光嗣を推した。
  • 狄光嗣は司府丞から地官員外郎に任じられ、職務に適っていたため、太后は「そなたは祁奚に劣らぬ」と喜んだ。
  • 通事舎人の元行沖は博識で、狄仁傑にしばしば意見した。自分は名薬ではないが、薬籠に欠かせぬ一味になりたいと言うと、狄仁傑も笑ってこれを認めた。

北辺討伐軍の大動員

  • 武重規が天兵中道大総管、沙吒忠義が西道総管、張仁愿が東道総管となり、三十万の兵を率いて黙啜討伐に向かった。
  • さらに閻敬容が西道後軍総管となり、十五万を率いて後援した。

八月末から九月 黙啜の河北侵攻

  • 癸丑、黙啜は飛狐に侵入した。
  • 乙卯には定州を陥れ、刺史の孫彦高と官民数千人を殺した。
  • 九月甲子、武攸寧が同鳳閣鸞台三品となった。
  • 朝廷は黙啜の名を辱めるため「斬啜」と呼び替えた。

閻知微の変節

  • 黙啜は閻知微を使って趙州を招降させようとした。
  • 閻知微は敵と手を取り合って「万歳楽」を歌い踊り、城下に立った。城上の将陳令英が、重い地位にある者が虜に仕えて踊るとは恥を知らぬのかと責めると、閻知微は小声で「やむを得ないのだ」と歌うように答えた。

趙州の攻防と高叡夫妻の殉節

  • 戊辰、黙啜が趙州を包囲すると、長史の唐般若は城を挙げてこれに応じた。
  • 刺史の高叡は妻の秦氏とともに毒をあおって死んだふりをしたが、敵に輿で黙啜のもとへ運ばれた。
  • 黙啜は紫袍と金獅子帯を示し、降れば官を与え、降らねば死だと迫った。
  • 高叡が妻を見ると、妻は「国恩に報いるのは今日しかありません」と言った。二人は目を閉じて一言も発しなかった。
  • 二晩たっても屈しないのを見た黙啜は、ついに夫妻を殺した。
  • 黙啜が退いたのち、唐般若は一族誅滅とされ、高叡には冬官尚書が追贈され、「節」の諡が贈られた。

皇太子の復立

  • 皇嗣は固く辞退して廬陵王へ譲ろうと願い、太后もこれを許した。
  • 壬申、廬陵王李哲が皇太子に立てられ、本名の李顕に復した。
  • 天下に大赦が行われた。
  • 甲戌、太子を河北道元帥として突厥討伐の名目上の総帥とした。
  • それまで募兵しても月余で千人に満たなかったのに、太子が元帥になると聞くや応募者は雲のように集まり、たちまち五万人を超えた。
  • 戊寅、狄仁傑が河北道行軍副元帥、宋元爽が長史、崔献が司馬、吉頊が監軍使となった。
  • 実際には太子は出征せず、狄仁傑が元帥の事務を統べた。
  • 太后自ら見送り、薛訥は「太子は立ったとはいえ、外ではまだ疑いが残る。これを確定しなければ敵を平らげることはできない」と進言した。太后も深くうなずいた。
  • 王及善は、太子を外朝に出して群臣と対面させ、人心を安んじるべきだと請い、これも採用された。

蘇味道の入相

  • 天官侍郎の蘇味道が鳳閣侍郎・同平章事となった。
  • 蘇味道は長く相位にあっても迎合に終始し、「政事はあまり白黒を明らかにせず、両端を保つのがよい」と人に語っていたため、世人は彼を「蘇模棱」と呼んだ。

黙啜の撤退

  • 癸未、黙啜は趙州・定州などから奪った男女一万余人をすべて殺し、五回道を通って北へ引き上げた。
  • 通過した先々でも殺掠は数えきれず、沙吒忠義らはその後を追うだけで、近づいて戦うことができなかった。
  • 狄仁傑も十万の兵で追撃したが、追いつけなかった。
  • 黙啜は漠北へ戻り、四十万の兵と万里の地を擁して、西北の諸族を従え、中国を軽んじる気持ちをいよいよ強めた。

十月 河北安撫と狄仁傑の善後策

  • 十月、都下の屯兵を整理し、武懿宗と武攸帰がこれを統轄した。
  • 癸卯、狄仁傑は河北道安撫大使となった。
  • 北辺では、突厥に駆り立てられた人々が、敵が去ったあと処罰を恐れて逃げ隠れることが多かった。
  • 狄仁傑は上疏し、契丹や突厥に脅されて従った者は、形の上では同じでも本心からの反逆ではないと論じた。
  • 山東では軍事の徴発が重く、家産は尽き、官吏の搾取も加わって、鞭杖の苦しみから逃れるためやむなく敵に従った者が多いと説明した。
  • さらに、賊の側は招撫を務めて物を奪わないのに、唐軍が取り返した後の方がかえって将兵による暴虐が深い、これでは帰順者が悲しみ、盗賊化してもおかしくないと述べた。
  • そこで河北諸州を一括して赦免し、過去を問わぬよう願い、朝廷もこれに従った。
  • 狄仁傑は、突厥にさらわれた人々をみな本籍へ送り返し、運糧を放って貧民を救い、駅伝を修理して帰還兵の便を図った。
  • また諸将や使者が供給を求めて民を苦しめぬよう、自ら粗食をとって率先し、部下が百姓を侵せば必ず斬るとした。こうして河北は安定した。

年末の人事と閻知微の処刑

  • 姚元崇と李嶠が同平章事となった。
  • 黙啜は趙州を去る際、閻知微を放して帰らせた。
  • 太后は彼を天津橋の南で磔にし、百官に射させ、その後は肉を裂き、骨を砕き、三族を誅した。縁の薄い親族の中には、もともと互いに面識もないまま連座して死んだ者もいた。
  • 段瓚は以前から突厥に没していたが、趙州にいる間に楊斉荘を誘って逃走を図った。楊斉荘はためらって動けなかったが、段瓚だけ先に帰国し、太后から賞を受けた。
  • 楊斉荘もほどなく帰ったが、武懿宗の取り調べで「心に迷いがあった」とされ、閻知微とともに処刑された。矢を無数に受けてもまだ息があり、腹を裂かれて心を取り出されても、心臓はしばらく地上で脈打ったという。
  • 田帰道は夏官侍郎に抜擢され、深く信任された。

姚州・瀘南経営への批判

  • 蜀州では毎年五百人を姚州守備に送っていたが、道が険しく、死亡者が多かった。
  • 蜀州刺史の張柬之は、姚州はもと哀牢の地であり、はるかな外域で租税も兵源もほとんど得られないのに、国家は財貨を空費し、良民を蛮夷のための苦役に追い立てていると上言した。
  • 彼は姚州を廃して嶲州に属させ、年時の朝覲だけを行う蕃国扱いとし、瀘南の諸鎮も廃して瀘北に関を置き、使節以外の往来を禁ずべきだと主張した。
  • しかし奏上は採用されなかった。