資治通鑑唐紀二十二 則天順聖皇后 神功 一年 697年
正月 通天宮での祭祀と契丹・突厥をめぐる情勢
- 正月己亥朔、太后は通天宮で祭祀を行った。
- 突厥の黙啜が霊州へ侵攻し、捕らえていた許欽明を従えて城下に来た。許欽明は大声で味噌・粟米・墨を求めたが、これは城中に夜襲を促す合図だったらしい。しかし守る側はその意図を理解できなかった。
劉思礼の謀反事件と大規模な冤罪
- 箕州刺史の劉思礼は、かつて相人術を学んだ術士から高位に上ると告げられ、自力でそこへ至るには「佐命の功」が必要だと考えた。
- そこで洛州録事参軍の綦連耀とともに反乱を企て、朝士たちに人相見で栄達をほのめかしつつ、綦連耀に天命があると説いて仲間を広げようとした。
- 吉頊がこの謀を察知して来俊臣に告げ、太后は武懿宗に取り調べを命じた。
- 武懿宗は劉思礼に、広く朝士の名を挙げれば死を免じると持ちかけ、少しでも気に入らぬ者まで次々と巻き込ませた。
- その結果、李元素・孫元亨・石抱忠・劉奇・周譒・王勮の兄弟ら、名望ある士人三十六家が拷問で自白させられ、壬戌に一族ごと誅殺された。連座して流罪になった親族・党与は千人を超えた。
- 劉思礼自身も、他人を陥れたのちに捕えられ、ようやく後悔した。
- 武懿宗は天授年間以来、太后の命で獄事を扱い、虚偽の告発を好んだため、人々は彼を来俊臣に次ぐ存在と見ていた。
- 来俊臣は功を独占したくなり、今度は密告者の吉頊まで逆に陥れようとしたが、吉頊は太后に直訴してかろうじて難を逃れた。もっとも、この件で来俊臣は再び重用され、吉頊もまた出世のきっかけを得た。
来俊臣政治の横暴
- 来俊臣の一派は、司刑府史の樊惎を謀反人として告発し、処刑した。樊惎の子は朝堂で冤を訴えたが誰も取り合わず、自ら腹を裂いて抗議した。
- 秋官侍郎の劉如璿はその光景を見て密かに涙したが、来俊臣はこれを「逆党への同情」として獄に下し、絞首刑にさせた。
張易之・張昌宗兄弟の寵遇
- 張易之は張行成の一族で、若く美貌があり、音楽にも秀でていた。太平公主の推薦で弟の張昌宗が宮中に入り、さらに兄の易之も推され、ともに太后の寵愛を受けた。
- 二人は化粧をし、錦繍をまとい、昌宗は散騎常侍に、易之は司衛少卿にまで進んだ。
- その母の臧氏・韋氏まで高位の夫人に封じられ、褒美は数えきれなかった。
- さらに太后は鳳閣侍郎の李迥秀に、臧氏の「私夫」という屈辱的な役回りまで命じた。
- 武承嗣・武三思・武懿宗・宗楚客・宗晋卿らは、競って張氏兄弟の門に出入りし、易之を「五郎」、昌宗を「六郎」と呼んでへつらった。
突厥の勝州侵攻と婁師徳の登用
- 癸亥、黙啜が勝州に侵攻したが、平狄軍副使の安道買がこれを破った。
- 甲子、原州司馬の婁師徳が鳳閣侍郎・同平章事となった。
春三月 東硤石谷の大敗
- 清辺道総管の王孝傑・蘇宏暉らは十七万の兵で孫万栄と東硤石谷で戦ったが、唐軍は大敗し、王孝傑は戦死した。
- 王孝傑は自ら精兵を率いて前鋒となり、契丹軍を押し返したが、相手が退いたのを追って険しい崖地に入り込んだ。
- そこで契丹が反転攻勢に出、蘇宏暉は先に逃走し、王孝傑は崖下へ落ちて死んだ。将兵の損害はきわめて大きかった。
- 管記の張説が急報し、太后は王孝傑に追贈を与え、蘇宏暉を斬る使者を送ったが、到着前に蘇宏暉が別の戦功で罪を免れてしまった。
- 武攸宜の軍は漁陽にあったが、この敗報を聞いて動揺し、前進できなかった。契丹は勝ちに乗じて幽州へ侵攻し、城邑を落とし、官民を掠奪した。
閻知微・田帰道の突厥使節
- 閻知微と田帰道は突厥に赴き、黙啜を可汗に冊立する使者となった。
- 途中で閻知微は突厥の使者に勝手に緋袍と銀帯を与え、さらに入朝の饗応を盛大にすべきだと上奏した。
- これに対し田帰道は、突厥は長年背信を重ねてきた相手であり、閻知微の独断は朝廷の恩賞の余地をなくすと論じ、使者は本来の服装のまま待たせ、過剰な饗応も不要と主張した。太后はこれを是とした。
- 閻知微は黙啜に面会すると媚びへつらい、靴に口をつけるほどだったが、田帰道は拝礼せず、堂々とした態度を崩さなかった。
- 黙啜は田帰道を拘禁して殺そうとしたが、田帰道は少しも屈せず、突厥の貪欲を非難しつつ利害を説いたため、側近の阿波達干元珍が「大国の使者を殺すべきでない」と諫め、死は免れた。
- かつて唐に降っていた突厥系住民は豊・勝・霊・夏・朔・代の六州に置かれていたが、黙啜はこれら六州の降戸と単于都護府の地、さらに穀種・繒帛・農具・鉄を求めた。
- 太后は当初これを拒んだが、契丹がまだ平定されていないため、姚璹と楊再思が妥協を求めた。
- 李嶠は、これは敵に兵と糧を貸すようなもので危険だと反対したが、受け入れられなかった。
- 結局、六州の降戸数千帳をまるごと黙啜に引き渡し、穀種四万斛・彩帛五万段・農具三千・鉄四万斤を与え、婚姻まで約束したため、黙啜はますます強大になった。
- 田帰道はようやく帰還し、太后の前で閻知微と論争した。田帰道は黙啜は約束を破る相手で、和親は頼れないから備えが必要だと主張したが、閻知微は和親を信じていた。
夏四月 九鼎の完成
- 九鼎の鋳造が完成し、通天宮へ移された。豫州鼎だけが特に大きく、他州の鼎もそれぞれ高大で、山川や物産が図示された。
- 使用した銅は五十六万余斤に及んだ。
- 太后は黄金で表面を塗ろうとしたが、姚璹は、神器は自然のままの質感が尊く、すでに五色が輝いているから金を施す必要はないと諫めた。太后は従った。
- 鼎を玄武門から引き入れる際には、宰相・諸王が南北牙の宿衛兵十余万人を率い、大牛や白象まで使って曳かせた。
王及善の再起
- かつて益州長史だった王及善はすでに引退していたが、契丹の乱で山東が不安になると、滑州刺史として起用された。
- 太后が召して朝廷の得失を問うと、王及善は政治の要点を十余条にわたって述べた。
- 太后は「外州は枝葉で、ここが根本だ」として、癸酉に彼を内史に留めた。
契丹討伐軍の再編
- 癸未、武懿宗が神兵道行軍大総管となり、何迦密とともに契丹討伐を命じられた。
- 五月癸卯には、婁師徳が清辺道副大総管、沙吒忠義が前軍総管となり、二十万の兵を率いて出征した。
朱前疑の追放
- 朱前疑という者は夢占いめいた上書で太后の長寿や瑞祥を称え、たびたび恩賞と昇進を得ていた。
- 契丹討伐で官人に軍馬供出が命じられると、彼は馬を買って納め、その見返りに位階の昇進をしつこく求めた。
- 太后はその貪婪さを嫌い、六月乙丑、馬を返したうえで郷里へ追放した。
喬知之の死
- 右司郎中の喬知之には碧玉という愛妾がいたが、武承嗣が自家の女性に教養をつける名目で借り受け、そのまま返さなかった。
- 喬知之は石崇の愛妾緑珠になぞらえた怨詩を作って碧玉に送った。碧玉はそれを身につけたまま井戸に身を投げた。
- 武承嗣は裙帯に残っていた詩を見て激怒し、酷吏に命じて喬知之を告発させ、一族を滅ぼした。
来俊臣の滅亡
- 来俊臣は権勢を恃み、貪欲で淫虐だった。士民の美しい妻妾があれば、罪をでっちあげたり詔を偽称したりして奪い取った。
- 誅殺すべき人物の名簿を宰相以下広く作り、次々に網をかけた。自らの才を石勒に比すほど増長していた。
- 李昭徳は以前から来俊臣を憎み、また皇甫文備を朝廷で辱めたこともあったため、二人は結んで李昭徳を謀反人に仕立て、獄に下した。
- さらに来俊臣は、武氏諸王・太平公主・皇嗣・廬陵王、さらには南北牙の兵まで反乱に結びつけて一挙に国政を奪おうとした。
- しかし河東の衛遂忠がこれを武氏諸王と太平公主に告げたため、皆が恐れ、逆に来俊臣の罪を暴き立てた。
- 有司は極刑を求めたが、太后はしばらく赦す気配を見せ、奏上を三日間留め置いた。
- 王及善は「この者を除かねば朝廷が揺らぐ」と強く主張し、太后が苑中に出た際、吉頊もまた馬の轡を執って、来俊臣は国家の大悪であり惜しむに足りぬと説いた。
- ようやく太后は裁可し、丁卯、李昭徳と来俊臣はともに棄市となった。
- 当時の人々は李昭徳の死を痛み、来俊臣の死を快く思った。仇を持つ者はその肉を争って食い、眼をえぐり、面を剥ぎ、腹を裂いて心臓を取り出し、死骸を泥のように踏みにじった。
- 太后もまた天下の憎悪を知り、詔でその罪悪を列挙し、一族誅滅と家産没収を命じた。人々は道で祝い合い、「これでようやく安心して眠れる」と語った。
- 来俊臣はかつて綦連耀を告発した功で奴婢十人を賞される際、斛瑟羅の家の歌舞に巧みな婢を欲しがり、そのために斛瑟羅を逆に反乱人として告発させようとした。諸酋長数千人が耳を切り顔を傷つけて冤を訴えたが、来俊臣の誅殺によってこの件も収まった。
- また、選曹は来俊臣の請託で本来の順序を越えた任官を何百人にも行っていたが、彼の失脚後、侍郎たちはみな自首した。太后は一度は責めたものの、「逆らえば一族が滅ぼされる」との弁明を聞いて赦した。
- 上林令の侯敏はふだん来俊臣にへつらっていたが、妻の董氏の勧めで距離を置いた。来俊臣は怒って彼を武龍令へ左遷したが、そのおかげで来俊臣一派が嶺南へ流される中、侯敏だけは助かった。
契丹の再転機と孫万栄の最期
- 太后は于安遠を尚食奉御とし、吉頊を右粛政中丞に抜擢、宗楚客を検校夏官侍郎・同平章事とした。
- 武懿宗の軍が趙州へ到着した時、契丹の駱務整が数千騎で冀州へ向かうとの報が入ると、武懿宗は恐れて南へ逃げようとした。
- 幕僚には、敵は輜重を持たず掠奪に頼るから、守っていれば自然に散る、そこを撃てば大功になると進言する者もいたが、武懿宗は従わず、相州まで退却した。
- そのため軍資・武器が大量に放棄され、契丹は趙州を屠った。
- 甲午、孫万栄はついに奴僕に殺された。
- その前、孫万栄は柳城西北に険阻な城を築いて老弱・婦女・財貨・兵器を置き、妹夫の乙冤羽に守らせていた。自らは精兵を率いて幽州を脅かしつつ、背後を突かれぬよう、黙啜に使者を送り「唐軍を破ったので幽州を共に取ろう」と誘った。
- 先着した三人だけの報告を聞いた黙啜は喜んで褒賞したが、後から来た二人が契丹の内情、すなわち本拠が手薄であることを告げると、黙啜は先の三人を殺し、後の二人に褒賞を与えて案内役にした。
- こうして黙啜は契丹の新城を襲い、捕らえていた許欽明を天に祭ってから城を陥し、老弱・婦女・財貨をすべて奪った。
- 乙冤羽が急報すると、唐軍と対峙していた孫万栄の陣営は恐慌を起こした。奚人も離反し、神兵道総管の楊玄基が前から、奚兵が後ろから挟撃したため、契丹軍は総崩れとなった。
- 孫万栄は軽騎数千を率いて東へ逃れたが、張九節の兵に道を塞がれ、潞水の東で窮した。林下で「唐へ帰っても罪は重く、突厥へ行っても死、新羅へ行っても死だ。どこへ行けばよいのか」と嘆いたところを、奴僕に首を斬られて降服のしるしとされた。
- 首級は四方館門にさらされ、残党や奚・霫の衆は突厥へ降った。
武承嗣・武三思の入相と河北安撫
- 戊子、武承嗣と武三思が同鳳閣鸞台三品となった。
- 辛卯、契丹がようやく平定されたとして、武懿宗・婁師徳・狄仁傑の三者が分道して河北を安撫することになった。
- しかし武懿宗は、契丹に脅かされて従っただけの帰順者までも反逆とみなし、生きたまま腹を裂いて胆を取るほど残酷だった。
- もともと契丹側の将何阿小も嗜虐的で、河北ではこの二人を並べて「人殺しの二何」と呼ぶほどだった。
七月 昆明の内附と武氏政権の動き
- 丁酉、昆明が内附し、竇州が置かれた。
- 武承嗣・武三思はともに政事を退いた。
- 庚午、武攸宜が幽州から凱旋した。
- 武懿宗は、河北で賊に従った百姓をことごとく族滅すべきだと奏請したが、左拾遺の王求礼が朝廷でこれを厳しく非難した。
- 王求礼は、民は武備もなく、力で賊に従わされたにすぎないのに、数十万の兵を擁しながら逃げた武懿宗が、かえって草野の誤って巻き込まれた人々に罪を着せようとしている、と述べ、先に武懿宗を斬って河北に謝すべきだと迫った。
- 司刑卿の杜景儉も、みな脅従の民であり赦すべきだと奏上し、太后もこれに従った。
八月 宰相人事
- 丙戌、姚璹は罪により益州長史へ左遷された。
- 豆盧欽望が文昌右相・同鳳閣鸞台三品となった。
九月 大赦と「神功」改元
- 壬辰、太后は通天宮で大祭を行い、大赦を実施して元号を神功と改めた。
- 庚戌、婁師徳が守納言となった。
九月 冤獄への反省
- 甲寅、太后は近臣に対し、周興や来俊臣が獄事で多くの朝臣を連座させた際、自分は国法ゆえに従ったが、その後に近臣を派して獄中で確認させたところ、本人たちも自白していたので疑わなかった、と語った。
- しかし周興・来俊臣の死後、もはや反乱の話が聞こえなくなったことから、「以前に死んだ者には冤罪があったのではないか」と述べた。
- 夏官侍郎の姚元崇は、垂拱以来の謀反事件の多くは周興らの羅織であり、近臣であっても自分の身が危うい中では真実を覆せなかったのだと説明した。
- そして、今後は内外の臣に再び謀反はないと、自らの一族をかけて保証した。太后はこれを喜び、過去の宰相たちがみな自分に迎合して酷刑を助長したのに対し、姚元崇の言葉は自分の心にかなうとして、銭千緡を賜った。
- このころ、世人が魏元忠の冤を訴える声も多く、太后は再び彼を召して粛政中丞に任じた。魏元忠はこれまで死罪や流罪に四度もあいながら生き延びていた。
- 宴席で太后に「なぜそなたはたびたび誹謗されるのか」と問われると、「私は鹿のようなものです。羅織の徒は私の肉を羹にしたいのです」と答えた。
閏十月 狄仁傑・杜景儉の入相
- 甲寅、狄仁傑が鸞台侍郎・同平章事、杜景儉が鳳閣侍郎・同平章事となった。
- 狄仁傑は上疏し、四夷は本来、中華の封域の外に置かれるものであり、無理に遠方を取っても税は増えず、耕作もできず、民力と府庫を疲弊させるだけだと論じた。
- 秦の始皇帝や漢の武帝が外征で国を疲れさせた例を引き、近年の唐も西の四鎮、東の安東などへの遠戍で財政と民力を消耗し、関東では飢饉、蜀漢では逃亡、江淮以南でも徴発がやまず、民が業を失って盗賊化していると指摘した。
- そのうえで、西突厥の阿史那斛瑟羅を可汗として立て四鎮を委ね、高氏の国を継がせて安東を守らせれば、遠征の費用を省き、塞上に兵を集中できると提案した。
- また、突厥・吐蕃に対しては、辺兵を整え、斥候と兵糧を備え、深入りさせてから逸をもって労を待つべきで、数年のうちに戦わずして服させうると説いた。政策としては採用されなかったが、識者はこれを高く評価した。
- 李嶠はこのころ天官の選事を担当し、ここから員外官が数千人も新設されるようになった。
- また暦法を改め、従来の月建のずれを正すため、当月を閏月とし、来月を正月とする措置が取られた。