資治通鑑唐紀二十一 則天順聖皇后 万歳通天 元年 636年

臘月 登封・封禅

  • 甲戌、太后は神都を発した。
  • 甲申、嵩山を神岳として封じ、天下に大赦して万歳登封と改元し、この年の租税を免除し、大酺を九日間行った。
  • 丁亥、少室山で禅を行い、己丑、朝覲壇で群臣の賀を受け、癸巳に還宮、甲午に太廟を拝した。

臘月から春 武攸緒の隠遁

  • 右千牛衛将軍の安平王武攸緒は、若いころから志操があり、欲が少なかった。中岳への行幸に従ったのち、官を辞して嵩山南麓に隠れたいと願った。
  • 太后は偽装ではないかと疑いつつも許可し、その行動を見た。
  • 武攸緒は本当に山中で暮らし、冬は茅椒の室、夏は石室に住み、賜物や諸王公の贈り物も使わず、田を買って奴に耕させ、民間人同様に暮らした。

春一月 婁師徳の復権

  • 甲寅、婁師徳が粛辺道行軍副総管として吐蕃討伐に向かった。
  • 己巳、左粛政大夫となり、引き続き知政事を兼ねた。
  • また、長安の崇尊廟を太廟へ改めた。

二月 神岳祭祀の拡張

  • 辛巳、神岳天中王を神岳天中黄帝とし、その妃を天中黄后、啓を斉聖皇帝、啓母神を玉京太后にそれぞれ尊崇した。

三月 吐蕃に大敗

  • 壬寅、王孝傑・婁師徳は、素羅汗山で吐蕃の論欽陵・賛婆と戦ったが、唐軍は大敗した。
  • その責任で王孝傑は庶人に落とされ、婁師徳は原州員外司馬へ左遷された。
  • 婁師徳は辞令の牒に自分の官爵が消えているのを見て一瞬驚いたが、すぐ「それもまたよい」と言い、少しも意に介さなかった。

三月 新明堂完成と改元

  • 丁巳、新しい明堂が完成した。高さ二百九十四尺、方三百尺で、旧制よりやや小さいが、上には金塗りの鉄鳳を置いた。のち風損があったため、銅の火珠を群龍が支える形に改め、「通天宮」と号した。
  • 太后は天下に大赦し、万歳通天と改元した。

春から夏 大食の獅子献上辞退

  • 大食が獅子を献じようとしたが、姚璹は、獅子は肉食で遠路の輸送に多大な費用を要し、陛下が自ら鷹犬も飼わず漁猟も止めているのに、どうして獣にだけ厚くできるかと上疏した。
  • 太后はこれを容れ、獅子献上を辞退した。

夏五月 契丹の反乱

  • 壬子、営州の契丹の松漠都督・李尽忠と帰誠州刺史・孫万栄が挙兵して反し、営州を陥れて都督の趙文翽を殺した。
  • 李尽忠と孫万栄は姻戚で、いずれも営州城のそばに住んでいた。趙文翽は剛愎で、契丹が飢えても救済せず、酋長を奴隷同然に扱ったため、怨まれていた。
  • 乙丑、曹仁師・張玄遇・李多祚・麻仁節ら二十八将が討伐に派遣された。

七月 対契丹の大軍編成

  • 辛亥、武三思が榆関道安撫大使、姚璹が副使となり、契丹に備えた。太后は李尽忠を李尽滅、孫万栄を孫万斬と改名して蔑んだ。
  • 李尽忠は間もなく無上可汗を称し、孫万栄を前鋒として諸地を席巻し、十日余りで数万の兵を得て檀州を囲んだが、張九節がこれを撃退した。

八月 硤石谷の大敗

  • 丁酉、曹仁師・張玄遇・麻仁節らは契丹と硤石谷で戦い、大敗した。
  • 契丹はあらかじめ捕虜にした唐兵を使って「官軍が来れば降る」と偽情報を流し、さらに老弱を遣わして迎降を装い、道に痩せた牛馬を置いて官軍を油断させた。
  • 曹仁師らは歩兵を捨てて騎兵だけで先行したため、契丹の伏兵に横撃され、張玄遇・麻仁節は生け捕られ、多くの将卒が山谷を埋めて死んだ。
  • 契丹は得た軍印で偽牒を作り、燕匪石・宗懐昌らに急行を命じた。彼らは疲労困憊したところを途中で邀撃され、全軍覆没した。

九月 罪人・奴婢の徴発と陳子昂の諫言

  • 太后は天下の繋囚や庶民・士人の家の奴で驍勇な者を、官が代価を払って徴発し、契丹討伐に送るよう命じた。
  • さらに山東の辺州に武騎団兵を置き、建安王武攸宜を清辺道行軍大総管に任じた。
  • 右拾遺の陳子昂は、罪人や奴を兵に充てるのは皇帝の正兵ではなく、天下に示すべき威信を傷つける策だとして反対上疏した。忠義の士がまだ無数にいるのに、なぜそこを用いないのかと論じた。

九月 突厥の涼州侵攻と許欽明兄弟

  • 丁巳、突厥が涼州を侵し、都督の許欽明を捕えた。彼は按部中に城下へ急襲されて抗戦したが、虜囚となった。
  • 兄の許欽寂もまた東北で契丹と戦って敗れ、捕えられた。虜は安東を囲んで彼に属城を説得させようとしたが、欽寂は安東都護の裴玄珪へ、賊は天罰ですぐ滅ぶから固守して忠節を全うせよと告げたため、殺された。

秋 吐蕃との講和交渉と郭元振

  • 吐蕃は再び和親を求め、太后は郭元振を派遣して情勢を視察させた。
  • 吐蕃の論欽陵は、安西四鎮の戍兵撤収と、十姓突厥の地の分割を求めた。
  • 郭元振は、四鎮と十姓は吐蕃と別系統であり、これを求めるのは明らかに兼併の意図だと喝破した。帰国後の上疏では、ただ拒絶すれば甘凉に近い脅威が深まるため、吐谷渾諸部と青海故地の返還を逆提案し、四鎮・十姓との交換を装って時間を稼ぐべきだと論じた。
  • また、毎年和親使を送れば、吐蕃国内では和を望む民衆の不満が論欽陵へ向かい、上下の猜阻を生じさせられるとも説いた。太后は深くこれに同意した。

秋 王方慶・李道広の入相

  • 庚申、并州長史の王方慶が鸞台侍郎、殿中監の李道広が同平章事となった。

秋冬 黙啜との連携

  • 突厥の黙啜は、太后の子となることと、その娘を妻に迎えることを求め、あわせて河西の降戸を返し、自部を率いて契丹討伐に従うと申し出た。
  • 太后は閻知微・田帰道を遣わし、黙啜を遷善可汗に冊した。

冬十月 契丹の継続反乱と河北震動

  • 辛卯、李尽忠が死去し、孫万栄がその軍を引き継いだ。
  • 突厥の黙啜はその隙に松漠を襲い、李尽忠・孫万栄の妻子を奪って去った。
  • 太后は黙啜をさらに頡跌利施大単于立功報国可汗に進めた。
  • だが孫万栄は残兵を再結集して勢いを盛り返し、別帥の駱務整・何阿小を前鋒として冀州を陥れ、刺史の陸宝積を殺し、さらに瀛州を攻めたため、河北は大いに震動した。

冬 狄仁傑・姚元崇・徐有功

  • 太后は、この事態に際して彭沢令へ左遷していた狄仁傑を起用し、魏州刺史とした。
  • 前任の独孤思荘は百姓をみな城内へ追い込み守備を固めていたが、狄仁傑は賊はまだ遠いとして農作業に帰らせ、「賊が来たら自分が引き受ける」と言って民心を安定させた。
  • 契丹関連の軍報が殺到するなか、夏官郎中の姚元崇は事務を見事に整理して処理し、太后に才能を認められて夏官侍郎に抜擢された。
  • また、太后はかつて公正な裁断で知られた徐有功を思い出し、左台殿中侍御史に取り立てた。世人はこれを聞いてみな喜んだ。
  • 潘好礼は論を著し、徐有功は張釈之よりもなお難しい時代に法を守り抜いたと絶賛し、その器は司刑卿に留まらず、さらに大きく用いうると評した。