資治通鑑唐紀二十一 則天順聖皇后 証聖 元年 635年

正月 改元と宰相一斉左遷

  • 辛巳朔、太后はみずからに「慈氏越古金輪聖神皇帝」の号を加え、大赦して証聖と改元した。
  • 周允元・皇甫文備らは、豆盧欽望・韋巨源・杜景儉・蘇味道・陸元方が李昭徳に迎合し、諫止できなかったと弾劾した。
  • そのため、豆盧欽望は趙州、韋巨源は麟州、杜景儉は溱州、蘇味道は集州、陸元方は綏州へ、それぞれ刺史として左遷された。

正月 薛懐義の奢侈と明堂・天堂

  • 明堂が完成すると、太后は薛懐義に巨大な夾紵の仏像を作らせ、その北に天堂を築いて安置しようとした。像の小指の中に数十人が入れるほど巨大だった。
  • 天堂は一度風で倒れ、再建には日に一万人を役し、江嶺から木材を集め、数年で国家財政を大いに耗した。
  • 薛懐義は財を土のように使い、太后も一切咎めなかった。無遮会には万緡を費やし、さらに銭をばらまいて群衆に拾わせ、踏み死ぬ者まで出た。
  • 公私の田宅の多くが寺領となり、懐義は白馬寺にこもって千人の力士僧を養った。
  • 侍御史の周矩が陰謀を疑って摘発を請うたが、太后は懐義をかばい、彼の配下の僧だけを遠州へ流し、周矩自身を転出させた。

正月 無遮会と明堂炎上

  • 乙未、明堂で無遮会を開き、地中深くに坑を掘って彩色の宮殿や仏像を置き、地から湧出するように見せた。
  • また牛を殺してその血で高さ二百尺の大仏の首を描き、懐義が自ら膝を刺して血を混ぜたとも称した。
  • 丙申、その像を天津橋南に立てて斎会を行った。
  • このころ、御医の沈南璆も太后の寵を受けており、懐義は不満を抱いていた。
  • その夜、懐義はひそかに天堂に放火し、火は明堂にも延焼して、夜の都を昼のように照らした。夜明けまでにすべて焼け落ち、血で描いた大仏像も暴風で砕け散った。
  • 太后はこれを恥じて真相を隠し、「工人が麻製の像を焼き、それが明堂に及んだ」とだけ公表した。
  • 左拾遺の劉承慶は、天譴に答えるため朝会と酺宴をやめるべきだと請うたが、姚璹は周宣王や漢武帝の火災を引いて、明堂は宗廟ではないから自らを損なう必要はないと述べた。太后は結局、平常通り端門で観酺し、明堂・天堂の再建を命じ、薛懐義にその任を続けさせた。
  • さらに九州鼎と十二神像の鋳造も進めた。

正月 妖妄集団の粛清

  • 河内の老尼や韋什方らは、日中は粗食を装いながら、夜には飲食・淫逸にふけり、多数の弟子を抱えていた。
  • 明堂火災の後、老尼が弔問に来ると、太后は「未来を知ると言いながら、なぜ火を予言しなかったのか」と叱って河内へ追い返した。
  • さらにその奸状を告発する者が現れたため、太后は老尼を再び麟趾寺へ呼び戻し、弟子たちが集まったところを一斉に捕え、みな官婢に没した。
  • 韋什方は偃師まで戻ったところで事が露見したと知り、自殺した。

正月 明堂火災後の諫言

  • 庚子、太后は明堂火災を宗廟に告げ、直言を求めた。
  • 劉承慶は、火元は麻像であり、その後も総章以来の仏教建築を再建するのは徒労であるとして、これをやめるよう上疏した。また、焼失直後に酺宴を続けたことも不適切だと批判した。
  • 劉知幾も上表し、赦令の頻発、官階・勲位の濫授、六品以下清官の粗製濫造、地方長官の短期転任を四つの弊害として論じた。太后はある程度これを評価した。

春二月 薛懐義誅殺

  • 僧懐義はますます驕り高ぶり、明堂を焼いた後は心中穏やかでなく、言動も不遜になったため、太后はこれを嫌った。
  • 壬子、太后はひそかに力の強い宮人百余人を選んで備えさせ、建昌王武攸寧に命じて瑶光殿前の樹下で懐義を殴り殺させた。
  • その死体は白馬寺に送って焼き、塔を建てる資材に用いた。
  • 甲子、太后は「慈氏越古」の号を除いた。

三月 周允元の死

  • 丙辰、鳳閣侍郎・同平章事の周允元が死去した。

夏四月 天枢完成

  • 天枢が完成した。高さ一百五尺、径十二尺、八面構造で、下に鉄山、周囲に銅の蟠龍や麒麟を巡らせ、上には承露盤を載せ、四龍人が火珠を捧げる形とした。
  • 工匠の毛婆羅が型を作り、武三思が銘文を作成し、百官と四夷酋長の名を刻んだ。太后自ら額に「大周万国頌徳天枢」と書いた。

秋七月 吐蕃侵攻への備え

  • 辛酉、吐蕃が臨洮に侵攻したため、王孝傑が粛辺道行軍大総管に任じられ、討伐に向かった。

九月 郊祀と改元

  • 甲寅、太后は南郊で天地を合祭し、「天冊金輪大聖皇帝」の号を加え、大赦して天冊万歳と改元した。

冬十月 黙啜の降服願い

  • 突厥の黙啜が使者を送って降服を請うた。
  • 太后は喜び、左衛大将軍・帰国公に冊した。