春正月・中宗の人事と廃位
- 正月甲申朔、嗣聖と改元し、天下を赦した。これは太子が即位翌年に行った改元である。
- 太子妃韋氏を皇后とし、その父韋玄貞を普州参軍から豫州刺史へ抜擢した。この豫州は春秋時代の沈・蔡、漢の汝南郡方面で、後に蔡州と改称される。
- 癸巳、左散騎常侍の韋弘敏を太府卿・同中書門下三品とした。杜陵は漢宣帝陵邑に始まり、隋に大興県へ併合され、唐では万年県となった。
- 中宗は韋玄貞を侍中とし、乳母の子にも五品官を与えようとした。裴炎が強く反対すると、中宗は天下を韋玄貞に与えても構わないのに侍中を惜しむのかと怒った。裴炎は恐れ、皇太后に報告して密かに廃立を協議した。
- 二月戊午、皇太后は乾元殿に百官を集めた。裴炎、劉禕之、羽林将軍程務挺・張虔勗が兵を率いて宮中に入り、皇太后の令として中宗を廬陵王へ廃し、殿から引き下ろした。中宗が罪を問うと、皇太后は天下を韋玄貞へ与えようとしたことが罪だと答え、別所に幽閉した。
睿宗擁立と告密の始まり
- 己未、雍州牧・豫王李旦を皇帝とした。政務は皇太后が決し、睿宗は別殿に置かれて政治へ関与できなかった。
- 豫王妃劉氏を皇后とした。劉氏は劉徳威の孫である。
- 飛騎十余人が坊内で飲酒した際、一人が、恩賞がないと知っていたなら廬陵王を奉じるべきだったと語った。別の一人が席を抜けて玄武門へ告発し、残る者は捕らえられた。発言者は斬られ、同席者は謀反を知りながら告げなかったとして絞首、告発者は五品官となった。ここから告密の風潮が始まった。
- 壬子、睿宗の長子である永平郡王李成器を皇太子とし、天下を赦して文明と改元した。
- 庚申、皇太孫重照を庶人に落とした。
劉仁軌への西京委任と李賢の死
- 劉仁軌に西京留守を専任させ、韋玄貞を欽州へ流した。欽州は京師から五千二百五十一里とされた。
- 皇太后は、漢高祖が関中を蕭何に任せた例になぞらえて劉仁軌へ書を送った。仁軌は老衰を理由に辞任を求め、さらに呂后・呂禄・呂産の破滅を挙げて戒めた。
- 皇太后は武承嗣に璽書を持たせ、皇帝が諒闇中なので自分が代わって政務を執っていると説明し、仁軌の忠直を古今まれだと称賛して、引き続き補佐するよう求めた。
- 辛酉、左金吾将軍丘神勣を巴州の元太子李賢の宅へ遣わし、外患への備えを検査する名目で、実際には自殺させるよう暗示した。丘神勣は丘行恭の子である。
- 甲子、皇太后は武成殿に出御し、皇帝以下の王公が尊号を奉った。武成殿は洛陽宮の明福門東側、武成門内にあった。
- 丁卯、武承嗣を遣わして嗣皇帝を冊立した。以後、皇太后は内朝の紫宸殿に淡い紫の帳を設けて朝政を執った。
- 丁丑、王徳真を侍中、劉禕之を同中書門下三品とした。
三月から五月・皇族の移動と高宗の柩
- 三月丁亥、杞王李上金を畢王、鄱陽王李素節を葛王へ移した。
- 丘神勣は巴州で李賢を別室に幽閉し、自殺を強いた。皇太后は罪を丘神勣へ帰し、戊戌に顕福門で哀悼を行い、神勣を疊州刺史へ貶した。顕福門は本来明福門で、中宗の諱を避けた名称と考えられる。
- 己亥、李賢を雍王に追封した。丘神勣はほどなく左金吾将軍へ復帰した。
- 夏四月、開府儀同三司・梁州都督の滕王李元嬰が死去した。
- 辛酉、畢王上金を澤王・蘇州刺史、葛王素節を許王・絳州刺史とした。
- 癸酉、廬陵王を房州へ移し、丁丑には均州の旧濮王宅へ移した。これは貞観末に濮王李泰が均州へ移された際の邸宅である。
- 五月丙申、高宗の霊柩を西京へ運んだ。
- 閏五月、武承嗣を太常卿・同中書門下三品とした。
広州都督殺害と水害
- 秋七月戊午、広州都督路元叡が崑崙人に殺された。崑崙国は林邑の南、交趾から海路三百余日で、風俗・文字は婆羅門と同じとされた。
- 路元叡は暗愚で、属官の横暴を抑えられなかった。外国商船への収奪が続き、商人が訴えると、元叡は逆に枷を求めて処罰しようとした。怒った崑崙人が袖の剣を抜いて政庁に上り、元叡と側近十余人を殺して逃げた。追跡船は追いつけなかった。
- 温州で大水があり、四千余戸が流された。温州は後漢の永寧県、晋の永嘉郡を経て、唐上元二年に設置された州である。
- 阿史那骨篤禄らが朔州を侵した。
高宗の葬送と馮元常の左遷
- 八月庚寅、天皇大帝を乾陵に葬り、廟号を高宗とした。乾陵は奉天県北五里の梁山にある。
- 尚書左丞馮元常は高宗から信任され、高宗晩年には体調が悪い時の政務を元常と協議するよう命じられていた。元常は中宮の権力が強すぎるので抑えるべきだと密奏し、高宗も実行できないながら正しいと認めていた。
- 皇太后の称制後、各地が瑞祥を競って報告した。嵩陽令樊文が瑞石を献じ、朝堂で百官に示されたが、馮元常は諂媚と偽りを含み、天下を欺くべきでないと奏した。皇太后は不快に思い、隴州刺史へ出した。隴州は京師から四百九十六里、東都から千百三十二里とされた。馮元常は北斉の馮子琮の曾孫である。
- 丙午、武承嗣を同中書門下三品から外して礼部尚書とした。
- 栝州でも大水があり、二千余戸が流された。
九月・官制改編と武氏追尊
- 九月甲寅、天下を赦し、光宅と改元した。旗はすべて金色とし、八品以下で青服だった者は深青色の碧服へ改めた。
- 東都を神都、宮を太初宮と改称した。尚書省を文昌台、左右僕射を左右相、六曹を天地四時の六官、門下省を鸞台、中書省を鳳閣、侍中を納言、中書令を内史、御史台を左粛政台とし、右粛政台を新設した。左台は京官・軍旅・勅使、右台は諸州監察を担当した。その他の省・寺・監・東宮十率も職掌に応じて改称された。
- 程務挺を単于道安撫大使として突厥に備えた。
- 武承嗣は武氏の祖先を王に追封し、七廟を立てるよう求めた。裴炎は、皇太后は天下に至公を示すべきで、呂氏の敗亡を教訓に親族を私的に尊崇してはならないと諫めた。
- 皇太后は、生者へ権力を委ねた呂后と違い、死者を追尊するだけだと反論した。裴炎は禍根を微細なうちに断つべきだと再諫したが、聞き入れられず、これにより憎まれた。
- 己巳、武氏の五代祖武克己を魯靖公、その妻を夫人、高祖武居常を太尉・北平恭粛王、曾祖武倹を太尉・金城義康王、祖父武華を太尉・太原安成王、父武士彠を太師・魏定王とし、祖母らを妃とした。文水県には五代の祠堂を造った。文水は旧名を受陽といい、隋開皇十一年に改称された。
李敬業の挙兵
- 武氏一族が権力を握ると、唐の宗室は恐れ、人々は憤った。
- 眉州刺史李敬業、その弟で盩厔令の李敬猷、給事中唐之奇、長安主簿駱賓王、詹事司直杜求仁らは、それぞれ事件に連座して左遷・免官となった。盩厔は漢武帝が置き、北魏に再置された京兆の県である。杜求仁は杜正倫の甥であった。
- 元御史の盩厔尉魏思温も失脚しており、彼らは揚州に集まり、廬陵王復位を掲げて挙兵を計画した。揚州は京師から二千七百五十三里、東都から千七百四十九里とされた。
- 魏思温を謀主とし、仲間の監察御史薛仲璋を江都への使者に仕立てた。韋超が「揚州長史陳敬之が謀反する」と告発し、仲璋は陳敬之を収監した。
- 数日後、李敬業が駅伝で到着し、揚州司馬に赴任したと偽ったうえ、高州酋長馮子猷の謀反を討つ密旨を受けたと称した。府庫を開き、士曹参軍李宗臣に囚人・工匠を集めて武装させ、獄中の陳敬之を斬った。録事参軍孫処行も抵抗したため処刑した。薛仲璋の名や経緯には異説があるが、本文は実録を主とする。
- 敬業は揚州全軍を動員し、嗣聖元年の年号を復活させた。匡復府・英公府・揚州大都督府の三府を設け、自ら匡復府上将・揚州大都督を称した。唐之奇・杜求仁を左右長史、李宗臣・薛仲璋を左右司馬、魏思温を軍師、駱賓王を記室とし、十日で十余万の兵を集めた。
駱賓王の檄文と各地の呼応
- 駱賓王の檄文は、武氏を太宗の後宮から高宗の東宮へ入り、先帝の寵愛を利用して皇后を陥れ、親族を殺し、皇帝と母を害し、睿宗を幽閉して武氏を重用した者として非難した。また高宗陵の土も乾かぬうちに孤児たる皇帝はどこにいるのかと訴え、天下が誰のものかを問うた。
- 皇太后が作者を尋ね、駱賓王と知ると、これほどの才人を不遇にしたのは宰相の過ちだと語った。
- 李敬業は元太子李賢に容貌の似た者を探し出し、太子は生きており挙兵を命じたと偽って号令に利用した。
- 楚州司馬李崇福は管下の山陽・塩城・安宜三県を率いて呼応した。一方、盱眙の劉行挙は県城を守って従わず、敬業は尉遅昭に攻撃させた。朝廷は行挙を遊撃将軍、弟の行実を楚州刺史とした。
朝廷の討伐軍と裴炎の逮捕
- 甲申、左玉鈐衛大将軍李孝逸を揚州道大総管とし、李知十・馬敬臣を副将として三十万の兵を与えた。この年、左右領軍衛は左右玉鈐衛へ改称されていた。
- 武承嗣と従弟の武三思は、韓王李元嘉と魯王李霊夔の身分・人望を恐れ、殺すようたびたび勧めた。劉禕之と韋思謙は沈黙したが、裴炎だけが強く反対したため、皇太后はいよいよ不快に思った。
- 敬業挙兵後、皇太后が裴炎に策を問うと、炎は皇帝が成人しているのに親政しないことが反乱の口実なので、政権を返せば自然に鎮まると答えた。
- 監察御史崔詧は、遺詔を受けた裴炎が大権を握りながら皇太后に返政を求めるのは異心の証拠だと告発した。皇太后は左粛政大夫騫味道と侍御史魚承曄に取り調べさせ、裴炎を投獄した。騫味道は金城の人で、騫姓は閔子騫の後裔とされる。
- 裴炎は屈せず、宰相が獄に下された以上助からないと言った。李景諶は謀反を証言したが、劉景先と胡元範は、裴炎は国家の元勲で反逆者ではないと弁護した。皇太后は裴炎の反逆だけは知っていると言い、多数の弁護を退け、景先・元範も投獄した。
- 裴炎が龍門行幸中に皇太后を捕らえようとした説や、駱賓王と暗号「青鵝」で通じたという説は、当時裴炎を陥れた者の作り話で、事実ではないと胡三省は判断する。
- 丁亥、騫味道を検校内史・同鳳閣鸞台三品、李景諶を同鳳閣鸞台平章事とした。
敬業軍の進路論争と潤州攻略
- 魏思温は、洛陽へ直進すれば勤王の意志が明らかとなり、天下が呼応すると主張した。
- 薛仲璋は、金陵には王気があり長江の天険もあるので、先に常州・潤州を取り、進退の拠点とすべきだと唱えた。潤州は京口の要衝で、州名は潤浦にちなむ。
- 魏思温は、山東の豪傑は農具を武器に南軍を待っているのに、根拠地確保を優先すれば人心が離れると反対した。しかし敬業は採用せず、唐之奇を江都に残し、自ら長江を渡って潤州を攻めた。
- 魏思温は杜求仁に、兵力を分散し、山東勢を集めて洛陽へ向かわなければ敗北は目前だと語った。
- 壬辰、敬業は潤州を落とし、刺史李思文を捕らえ、李宗臣を後任とした。李思文は敬業の叔父だが、計画を事前に朝廷へ密告し、長く抗戦していた。敬業は殺さず、武氏に味方したのだから姓を武に変えよと嘲った。潤州が四十余日抵抗したとする説は、挙兵から鎮圧までの日数と合わない。
- 潤州司馬劉延嗣は降伏を拒んだが、魏思温に救われた。劉延嗣は劉審礼の従父弟である。
- 曲阿令尹元貞は援軍を率いたが敗れて捕らえられ、刃を突きつけられても屈せず殺された。曲阿は秦が雲陽から改称した県、尹元貞の本籍河間は漢の州郷県方面である。
裴炎の処刑
- 丙申、裴炎を洛陽の都亭で斬った。炎は死に際し、兄弟の官位は各自の力で得たもので、自分の助けはないのに連座して流されるのが悲しいと語った。家を没収したが、一甔一石ほどの蓄えもなかった。
- 劉景先は普州刺史へ貶され、胡元範は瓊州へ流されて死んだ。瓊州への道程は崖州とほぼ同じとされた。
- 裴炎の甥で十七歳の裴伷先は上封事し、皇太后が李氏の嫁でありながら政権を奪い、皇帝を交替させ、李氏を遠ざけ武氏を尊んだと直言した。早く皇帝へ政権を返さなければ天下の変乱を救えなくなると三度叫んだため、朝堂で杖百を受け、瀼州へ長流となった。瀼州は貞観十二年に交趾方面への道を開いて設けられ、瀼水にちなむ。
- 裴炎投獄時、姜嗣宗が長安で劉仁軌に、以前から炎の異変に気づいていたと語った。仁軌はその発言を表に記し、嗣宗が謀反を知りながら告げなかったと奏した。皇太后は嗣宗の胴を殿庭で折り、都亭で絞殺した。
- 丁酉、李敬業の祖父・父の官爵を削り、墓を暴いて棺を壊し、姓を徐へ戻した。
- 李景諶を司賓少卿へ降格し、沈君諒・崔詧を正諫大夫・同平章事とした。司賓はこの年に鴻臚寺を改称したもの。
下阿溪の決戦
- 徐敬業は李孝逸の接近を知り、潤州から戻って高郵の下阿溪に布陣した。下阿溪は後世の天長県石梁河に当たると考えられる。
- 徐敬猷を淮陰へ進出させ、韋超・尉遅昭を都梁山に置いた。淮陰は漢の臨淮郡以来の県で、唐乾封元年に再置された。都梁山は盱眙県にある。
- 李孝逸が臨淮へ着くと、偏将雷仁智が敗れ、孝逸は進軍をためらった。魏元忠は、天下の安危がこの一戦にかかり、長く進まなければ別将と交代させられ、逗留の罪を免れないと迫った。孝逸は前進し、壬寅に馬敬臣が都梁山で尉遅昭を斬った。
- 十一月辛亥、黒歯常之を江南道大総管とした。この年、左右武衛は左右鷹揚衛と改称された。
- 韋超が険阻な都梁山に籠もると、諸将は包囲して主力を江都へ向ける案を出した。支度使薛克揚は、少数の守備では後患、多数なら主軍が弱まるので先に全力で撃つべきだとした。支度使は辺軍の兵糧・武器などの支出を管理した。
- 魏元忠は、精兵を持つ敬業より、博徒出身で軍事に疎い徐敬猷を先に破れば勢いに乗れると主張した。李孝逸はこれに従い、韋超を退走させ、敬猷も敗走させた。
- 庚申、敬業は溪を盾に守った。後軍総管蘇孝祥が夜、小舟で五千人を渡して攻めたが敗死し、兵の半数以上が溺れた。
- 左豹韜衛果毅の成三朗が捕らえられると、唐之奇は彼を李孝逸だと偽って処刑しようとした。三朗は、自分は果毅にすぎず官軍は目前に迫っている、自分の妻子は栄誉を得るが反乱軍の妻子は没収されると叫び、斬られた。果毅都尉は折衝府に置かれ、府の等級により従五品下から従六品下であった。
- 官軍は数度敗れ、李孝逸は撤退を考えた。魏元忠と劉知柔は、順風と乾いた荻を利用した火攻めを主張した。敬業軍は長時間の布陣で疲れ、陣形が乱れていたため、孝逸は攻撃し、風上から火を放った。
- 敬業軍は大敗し、斬首七千、溺死者は数え切れなかった。敬業らは軽騎で江都へ戻り、妻子を連れて潤州から海路で高麗へ逃れようとした。
- 乙丑、海陵境で風に阻まれ、部将王那相が敬業・敬猷・駱賓王を斬って降伏した。唐之奇・魏思温も捕らえられ、首を神都へ送られた。揚州・潤州・楚州は平定された。王那相による殺害地や逃走経路には異説があるが、実録・唐統紀に基づく。
乱後の論評と人事
- 陳嶽は、敬業が魏思温の策に従って河洛へ直進し、匡復だけを目的としたなら敗死しても忠義といえたが、金陵の王気を頼んだことで真の反逆者となったと評した。
- 敬業挙兵時、敬猷は五千を率いて長江沿いに西進し、和州を攻略しようとした。元弘文館学士で歴陽の高子貢が郷里数百人を率いて防ぎ、西進を阻んだ功で朝散大夫・成均助教となった。成均は国子監の改称で、助教は従六品上、朝散大夫は従五品下である。
- 丁卯、郭待挙を左庶子へ移して政務から外し、韋方質を鳳閣侍郎・同平章事とした。韋方質は隋唐間に仕えた韋雲起の孫である。
- 十二月、劉景先を吉州員外長史、郭待挙を岳州刺史へ貶した。岳州は京師から二千二百三十七里、東都から千八百十六里とされた。
程務挺・王方翼の死
- 裴炎が投獄された時、単于道安撫大使・左武衛大将軍程務挺は密表で弁護したため、皇太后の意に逆らった。
- 程務挺が唐之奇・杜求仁と親しかったことから、裴炎・徐敬業と通謀したと讒言された。癸卯、左鷹揚将軍裴紹業を軍中へ遣わして斬らせた。皇太后が群臣へ大言したという『唐統紀』の記事は軽薄に過ぎ、胡三省は採用しない。
- 突厥は程務挺の死を知ると各地で宴を開いて喜び、逆に彼の祠を建て、出陣時には必ず祈った。
- 夏州都督王方翼も程務挺と親しく、廃后王氏の近親だったため召還・投獄され、崖州へ流されて死んだ。崖州は京師から七千四百六十里、東都から六千三百里とされた。