資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 永淳 一年 622年
春二月・改元と皇太孫の冊立
- 皇孫の重照が生まれたことを機に永淳と改元し、天下に赦令を出した。藍田に万泉宮を造営し、二月癸未に改元、戊午に重照を皇太孫とした。
- 高宗は皇太孫に府を開かせて官属を置こうとした。吏部郎中の王方慶は、晋・斉にも太孫の例はあるが、太子が東宮にいるまま別に太孫府を設けた先例はないと答えた。高宗が「自分が先例を作ってよいか」と問うと、方慶は礼制は時代ごとに異なるとして肯定した。師傅などの官を設ける案が奏上されたものの、高宗は後に合法性を疑い、実際の任官は行わなかった。
- 王方慶は王褒の曾孫で、本名を綝といい、字の方慶で通行した。江陵陥落後に一族が関中へ移り、咸陽の人となった。
西突厥の反乱と東都への行幸
- 西突厥の阿史那車薄が十姓部族を率いて反乱した。
- 夏四月甲子朔、日食があった。
- 関中では飢饉が深刻となり、米一斗が三百銭に達した。高宗は東都へ移ることとし、丙寅に京師を発った。太子に監国を命じ、劉仁軌・裴炎・薛元超を補佐に付けた。出発が慌ただしかったため、随行者には途中で餓死する者まで出た。
- 道中の盗難を懸念した高宗は、監察御史の魏元忠に車駕前後の警備を担当させた。元忠は長安・万年両赤県の獄から、風采と言葉遣いの異なる盗人一人を選び、拘束を解いて官人の姿をさせ、駅馬で同行させた。食事と宿を共にしながら盗賊の探索を任せると、その者は快諾し、東都到着まで数万の人馬から一銭の盗難も出なかった。
裴行倹の死と人物鑑識
- 辛未、礼部尚書・聞喜憲公の裴行倹を金牙道行軍大総管とし、右金吾将軍の閻懐旦ら三総管を率いて西突厥を分道討伐させようとした。しかし出陣前に裴行倹が死去した。金牙道とは西突厥の金牙山方面を指す。
- 裴行倹が吏部侍郎だったころ、進士の王勮と咸陽尉の蘇味道を一見して、将来相次いで銓衡を司る人物になると評し、自分の幼い子を託した。蘇味道の郷里である欒城について、旧史が「漢の開県」とするのは誤りで、漢の関県の故城に北魏が欒城県を置いたものである。
- 当時、王勮の弟の王勃、華陰の楊炯、范陽の盧照鄰、義烏の駱賓王が文章で名高く、司列少常伯の李敬玄は彼らが必ず栄達すると考えた。裴行倹は、遠大な功業には才能より器量と見識が先立つとし、王勃らは文才こそあるが浮薄で、禄位を保てる器ではないと評した。楊炯だけはやや沈着なので県令・県長にまではなり、ほかの者は無事に生涯を終えられれば幸いだろうと述べた。
- 後に王勃は海を渡る途中で水に落ち、楊炯は盈川令で終わり、盧照鄰は難病を苦に入水し、駱賓王は徐敬業の乱に加わって誅された。王勮と蘇味道は予言どおり選官を担当した。盈川県について、黔州の盈隆県を改称したものではなく、衢州龍丘県から武后期に分置された県である。
- 裴行倹が抜擢した程務挺・張虔勗・王方翼・劉敬同・李多祚・黒歯常之らの偏将は、多くが後に名将となった。
- 裴行倹は、側近が犀角と麝香を紛失した時も、礼部令史が勅賜の馬を走らせて転倒させ、鞍を壊した時も、逃亡した当人を呼び戻して「過失にすぎないのに、なぜ私が酷薄に扱うと思うのか」と言い、以前どおり遇した。
- 阿史那都支を破った際に得た直径二尺余りの瑪瑙盤を軍吏の王休烈が落として割った時も、故意ではないとして笑って許し、惜しむ様子を見せなかった。都支らから得て朝廷より下賜された財産・金器三千余点と、それに相当する家畜も、親族・旧友・偏将に数日で分け尽くした。
王方翼による西突厥平定
- 阿史那車薄が弓月城を包囲すると、安西都護の王方翼が救援し、伊麗水で敵千余人を斬った。弓月城から思渾川・蟄失密城を経て伊麗河を渡れば碎葉方面に至る。
- ほどなく三姓咽麪が車薄と合流したため、王方翼は熱海で戦った。熱海は碎葉城の東にあり、寒冷地ながら凍結しない湖である。流れ矢が方翼の腕を貫いたが、佩刀で矢を切り、部下には負傷を悟らせなかった。
- 配下の胡兵が方翼を捕らえて車薄に呼応しようとすると、方翼は彼らを軍議に召集し、軍資を与えるふりをして順次外へ出し、七十余人を処刑した。折からの強風に合わせて鉦鼓を鳴らしたため、仲間には気づかれなかった。
- 方翼は偏将を分遣して車薄と咽麪を襲わせ、大勝して酋長三百人を捕らえ、西突厥を平定した。閻懐旦は結局出征しなかった。
- 王方翼は夏州都督に移り、召されて辺境事情を論じた。高宗は衣に残る血痕を見て熱海での苦戦を聞き、傷を見て嘆息したが、方翼が廃后王氏の近親だったため登用せず、夏州へ帰した。廃后は方翼の従祖姉妹に当たる。
平章事の名称と選官制度論
- 乙酉、高宗は東都に到着した。丁亥、黄門侍郎郭待挙、兵部侍郎岑長倩、秘書員外少監で検校中書侍郎の郭正一、吏部侍郎魏玄同を政務に参与させた。郭待挙の本籍に関わる潁川県は、隋が長社を改称した県で、唐初に長社へ戻され許州に属した。郭正一・魏玄同の出身地鼓城は、漢の臨平・下曲陽付近に設けられた県である。
- 高宗は彼らの官歴が浅いため、従来の宰相と同じ称号にはせず「中書門下同承受進止平章事」とした。これ以後、外司の四品以下で政務に参与する者を「平章事」と呼ぶようになった。岑長倩は岑文本の兄の子である。
- 以前、魏玄同は選官が少数の吏部官に集中している弊害を論じた。君主は適任の長官を選び、その長官に属官選任を委ねて成果を問うべきであり、周の穆王が伯冏に僚属の選定を命じた制度や、漢代に州県・五府の辟召を経て朝廷へ昇進させた制度に倣うべきだとした。
- 魏晋以後のように、天下の多数の士を数人の選官が文書と筆跡だけで測る制度では、たとえ公平明敏でも能力に限界があり、不適任者なら愚昧・縁故・私情の害が避けられないと訴えたが、採用されなかった。
水旱・飢饉と宮殿造営への諫言
- 五月、東都に長雨が続き、乙卯に洛水が氾濫して民家千余戸が水没した。関中では水害の後に旱魃と蝗害、さらに疫病が続き、米一斗が四百銭となった。両京間の街道には死者が連なり、人肉を食べる者まで現れた。
- 高宗は泰山封禅の後、五岳すべてを巡って祭ろうとし、秋七月に嵩山南の嵩陽県へ奉天宮を造営した。
- 監察御史裏行の李善感は、泰山で太平を告げた後なのに、穀物不作、餓死、外敵侵入、連年の軍事行動が続いているとして、宮殿造営をやめ、静かに政治を省みて災異を除くべきだと諫めた。「裏行」は定員の御史に未昇任の者を御史班内で職務に就ける制度である。
- 高宗は諫言を採用しなかったが、李善感を寛大に遇した。褚遂良・韓瑗の死後、約二十年にわたり直諫する者が絶えていたため、人々は善感の諫言を喜び、『詩経』の瑞鳥になぞらえて「鳳が朝陽に鳴いた」と評した。朝陽は山の東側をいい、梧桐と鳳凰の出現は太平の象徴と解された。
蘇良嗣の宦官処罰
- 高宗は珍しい竹を苑内へ移植するため、宦官を長江沿岸に派遣した。宦官は船を徴発し、各地で横暴を働いたため、荊州長史の蘇良嗣が拘禁した。
- 良嗣は、遠方の珍品のために道路と民衆を苦しめ、宦官に威福を弄ばせるのは聖人の愛民に反すると厳しく諫めた。高宗は天后に、自分の統制不足を良嗣に批判されたと語り、手詔で良嗣を慰労して竹を川へ捨てさせた。蘇良嗣は蘇世長の子で、蘇世長は高祖武徳四年の記事に見える。
零陵王李明の死
- 黔州都督の謝祐は天后の意向を迎え、零陵王李明に自殺を強いた。李明が黔州へ移されたのは永隆元年である。高宗は深く惜しみ、黔州府の官属をすべて免官とした。
- 後に謝祐は婢妾十余人と平閣で寝ている間に首を奪われた。垂拱年間、李明の子である零陵王俊と黎国公傑が天后に殺され、家産没収の際、漆を塗って汚物容器とされた謝祐の首が見つかった。これにより、李明の子が刺客に取らせたと判明した。
太子への諫言と吐蕃防衛
- 京師留守中の太子が遊猟にふけったため、薛元超が上疏して諫めた。高宗は使者を送って慰労し、東都へ召した。
- 吐蕃の将・論欽陵が柘州・松州・翼州などを侵した。柘州は顕慶三年に松州都督府管下へ設置され、翼州は漢の蠶陵県方面で、州名は南方の翼水による。
- 左驍衛郎将李孝逸と右衛郎将衛蒲山に秦州・渭州などの兵を分けて防がせた。
- 冬十月丙寅、黄門侍郎劉景先を同中書門下平章事とした。
阿史那骨篤禄の蜂起
- この年、突厥の残党で頡利可汗一族の阿史那骨篤禄と阿史徳元珍が離散者を集め、黒沙城を拠点に反乱した。骨篤禄は骨咄禄とも書かれる。元珍は中国の制度と辺境事情に通じ、単于府で降戸を検校していたが、拘禁後に骨篤禄のもとへ逃れ、阿波大達干として兵馬を統率した。
- 彼らは并州と単于府北境を襲い、嵐州刺史王徳茂を殺した。右領軍衛将軍・検校代州都督の薛仁貴が雲州で元珍を攻撃した。
- 突厥軍は唐軍の大将が薛仁貴と聞くと、彼は象州へ流されて既に死んだはずだと疑った。仁貴は大非川敗戦後に除名され、再起後も事件で象州へ流されていたためである。仁貴が兜を脱いで顔を示すと、敵兵は驚いて下馬・拝礼し、退き始めた。仁貴は追撃して一万余級を斬り、二万余人を捕らえた。
婁師徳の河源防衛
- 吐蕃が河源軍を侵すと、軍使の婁師徳が白水澗で迎撃し、八戦すべてに勝利した。白水澗には白水軍があり、詳細は後文の注に見える。
- 高宗は婁師徳に文武の才能があるとして、比部員外郎・左驍衛郎将・河源軍経略副使に任じ、辞退を許さなかった。比部の「比」は「毗」と同音、驍は「堅堯」の反切と注される。