資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 儀鳳 二年 617年

籍田の親耕

  • 春正月、高宗は籍田を耕した。

高句麗・百済旧勢力の再配置

  • かつて熊津から退いた扶余隆は新羅を恐れて長く留まれず、のちに朝廷へ帰っていた。
  • 二月、高蔵を遼東州都督・朝鮮王として遼東へ送り返し、高句麗残党の安撫を任せた。諸州に分散されていた高句麗人も彼に従わせて帰した。
  • また扶余隆を熊津都督・帯方王として百済旧民の安撫に当たらせた。
  • 安東都護府はさらに新城へ移してこれらを統轄させた。
  • しかし高蔵は遼東へ着くと叛乱を企てて靺鞨と通じたため、召還されて邛州へ移され、そこで死んだ。高句麗人は河南・隴右などへ散置され、旧城の多くは新羅に奪われ、残党は靺鞨や突厥へ流れた。
  • 扶余隆もついに旧地へ帰れず、高氏・扶余氏の国家はここに完全に滅んだ。

宰相人事と旱害対策の見直し

  • 三月朔、郝処俊・高智周を左庶子、李義琰を右庶子に任じた。
  • 夏四月、張大安を同中書門下三品とした。
  • 河南・河北で旱害があったため、崔謐らを分道派遣して慰問・賑給させようとした。
  • これに対し侍御史劉思立は、麦刈りや蚕事の最中に巡察使が来れば農民は迎接に追われ、かえって生業を妨げると上疏した。また賑給には帳簿づくりが伴い、安撫が煩擾になるとも論じた。
  • 高宗はこれを受けて、崔謐らの派遣を中止した。

吐蕃の侵攻と杜孝昇

  • 五月、吐蕃が扶州の臨河鎮を攻め、鎮将杜孝昇を捕えたうえで、松州都督武居寂に降伏を勧める書を持たせようとした。
  • 杜孝昇は拒絶し、吐蕃軍が退いた後も残兵を率いて守り続けたため、遊撃将軍に任じられた。

皇太子改名と吐蕃討伐準備

  • 秋八月、周王顕を英王に移封し、名を哲と改めた。
  • 劉仁軌には洮河軍の鎮守を命じた。
  • 冬十二月、吐蕃討伐のため大規模動員を命じた。
  • また、顕慶年間に作られた新礼が古制に合わないとして、五礼を周礼に基づいて行うよう命じた。しかしこれにより礼官はかえって拠り所を失い、大礼のたびに臨時に規定を作る状態になった。