資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 儀鳳 元年 616年

相王への改封と安東都護府の移転

  • 春正月、冀王輪を相王に移封した。
  • 納州の獠が反乱を起こしたため、黔州都督に討伐を命じた。
  • 二月、安東都護府を遼東故城へ移した。これは高句麗残党の反乱に対応するためである。以前から東方任務に就いていた漢人官僚はこのとき一掃された。
  • さらに熊津都督府も建安故城へ移し、かつて徐州・兗州などへ移されていた百済の住民を建安へ戻して再編した。

中岳封禅計画と中止

  • 天后は高宗に中岳嵩山での大礼を勧めた。
  • 癸未、今冬に嵩山で祭礼を行うと詔した。
  • 丁亥、高宗は汝州の温泉へ赴いた。
  • 三月、来恒と薛元超を同中書門下三品に任じた。来恒は来済の兄、薛元超は薛収の子である。
  • 同月、吐蕃が鄯・廓・河・芳等州を侵したため、令狐智通に興州・鳳州などの兵を発して防がせた。
  • そのため、嵩山での封礼は中止された。

吐蕃討伐の発動

  • 乙酉、周王顕を洮州道行軍元帥、相王輪を凉州道行軍元帥として、劉審礼・契苾何力らに吐蕃討伐を命じた。ただし二王自身は出征しなかった。
  • 庚寅、高宗は西へ戻り、九成宮に至った。
  • 李義琰も同中書門下三品に加えられた。
  • 六月には高智周も宰相に加わった。

吐蕃の再侵入と南選

  • 秋八月、吐蕃が疊州を侵した。
  • 壬寅、桂・広・交・黔など南方諸道の人事について、これまで任用の吟味が甘かったとして、今後は四年ごとに五品以上の廉直な官と御史を派遣し、人材を選定させる制度を定めた。人々はこれを「南選」と呼んだ。

狄仁傑の直諫

  • 九月、大理寺は、権善才と范懐義が誤って昭陵の柏を伐った罪は除名相当と判定した。
  • しかし高宗は私情から処刑を命じた。
  • 大理丞の狄仁傑は、法に死罪の定めがないのに特殺すれば法そのものが信頼を失うとして、張釈之の古例も引き、陵の柏一本で将軍二人を殺せば後世の評判を損なうと強く諫めた。
  • 高宗は怒ったが、やがて気を和らげ、二人は除名のうえ嶺南流罪となった。
  • 数日後、狄仁傑は侍御史に抜擢された。
  • かつて并州法曹だった頃、同僚の鄭崇質に老母がいるのを見て、辺遠への使役を代わろうとしたことがあり、その徳は当時から知られていた。

祫祭の制度化

  • 冬十月、高宗は京師へ戻った。
  • 丁酉、太廟で祫祭を行い、史璨の議に従って、禘の三年後に祫、祫の二年後に禘を行うと定めた。
  • これにより、唐朝の禘祫の年次には一応の基準が立てられたが、胡三省はなお礼官が臨時に定めることの多い実情を指摘している。

郇王素節の左遷

  • 郇王素節は蕭淑妃の子で、聡明で学を好んだが、天后に憎まれていた。
  • すでに岐州刺史から申州刺史へ左遷されていたうえ、かつて「旧病があるから入朝不要」と命じられたが、実際には病はなかった。
  • 入朝できないのを悲しんで『忠孝論』を著し、王府倉曹参軍の張柬之がひそかにこれを上奏したところ、かえって天后の怒りを招いた。
  • 丙午、素節は鄱陽王へ降封され、袁州に安置された。

改元と巡撫使

  • 十一月、改元が行われ、大赦があった。
  • 李敬玄は中書令となった。
  • 十二月、来恒・薛元超・崔知悌・鄭祖玄らを各道へ派遣して巡撫させた。