資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 總章 二年 669年
春二月 張文瓘・李敬玄の入相
- 二月辛酉、張文瓘が東臺侍郎に、譙出身の李敬玄が西臺侍郎に任じられ、ともに同東西臺三品となった。
- これ以前、同三品の者は官名にその称を付さなかったが、このときから正式に職銜へ入れるようになった。
盧承慶の人物
- 癸亥、雍州長史の盧承慶が司刑太常伯となった。
- 彼は以前、内外官の考課をした際、輸送監督のある官が風で米を失ったため、まず「監運損糧」として中下の評価を与えた。
- ところがその官人は顔色を変えず不満も述べずに退いたので、盧承慶はその雅量を重んじ、「不可抗力による損失」として中中に改めた。
- それでも喜色も恥色も見せなかったため、さらに「寵辱に驚かず」として中上に改めた。
三月 郝處俊の入相と明堂制度
- 三月丙戌、郝處俊が東臺侍郎のまま同東西臺三品となった。
- 丁亥、明堂の制度を定める詔が出され、基壇は八角、屋宇は上円、覆いは清陽玉葉とし、門・牆・階・窓・楣・柱・斗栱に至るまで天地陰陽と律暦の数に法るものとした。
- しかし詔下の後も議論は定まらず、さらに飢饉も重なったため、結局この時には建立されなかった。
夏四月 九成宮行幸と高句麗民の移住
- 四月己酉朔、高宗は九成宮へ行幸した。
- 高句麗の民には離反者が多かったため、朝廷はその戸口三万八千二百を江淮以南、山南・京西の空閑地へ移住させ、貧弱な者だけを安東に残して守備にあたらせた。
六月 日食
秋八月 凉州行幸計画と来公敏の直言
- 八月丁未朔、高宗は十月に凉州へ行幸するとの詔を出した。
- しかし隴右は戦争や消耗で疲弊しており、多くの人は今は適当でないと考えながら、公には言い出せなかった。
- 高宗はそれを聞いて、延福殿に五品以上を召し、「巡守は古来の帝王の常事である。もし本当に不可なら、なぜ面前で言わず、退いてから後言するのか」と問いただした。
- 宰相以下だれも答えなかったが、詳刑大夫の来公敏だけが進み出て、高句麗は新たに平定されたばかりで残党も多く、西辺の経略もまだ戦がやんでいない、隴右は戸口が疲弊しており、行幸には供給負担があまりに大きい、外でささやかれる議論には相応の理由があると述べた。
- 高宗はその率直さを嘉して西巡を取りやめ、まもなく来公敏を黄門侍郎に抜擢した。
安北都護府への改称
九月 吐谷渾移住案の停滞と海嘯
- 九月丁丑朔、吐谷渾の部落を凉州南山へ移住させる詔が出た。
- これに対し、吐蕃が攻めれば自力で立てなくなるとして、先に吐蕃を攻めるべきだという議論が起こったが、右相の閻立本は、昨年は飢饉であり今は出兵すべきでないとした。
- 議論は長引き、結局移住は実施されなかった。
- 庚寅、大風と海水の氾濫により、永嘉・安固で六千余家が流失した。
冬十月 帰京
十一月 豫王の改封改名
- 十一月丁亥、豫王旭輪は冀王に移され、名を輪と改めた。
李勣の最期
- 司空・太子太師の李勣が病となると、高宗は外地にいたその子弟をすべて呼び戻し、看病させた。皇帝と太子から薬が送られると、李勣はそれだけを服し、子弟が医師を招こうとしても許さなかった。
- 彼は、自分はもと山東の一農夫にすぎず、聖明の時に遭って三公にまで上り、年も将に八十になる、これ以上医術に頼って生を求める必要はないと言った。
- ある日少し気分が良いと、弟の弼を呼んで酒宴を開かせ、子孫を集めた。
- 酒席の終わりに、自分はもう起き上がれまい、だから今のうちに別れを告げるのだと言い、房玄齢・杜如晦の家が不肖の子によって没落した例を挙げ、自分の孤児たちを弼に託し、葬儀が終わったら自分の堂に移り住んで養育せよと命じた。
- さらに、志気が並外れ、交友も正しくない者がいたら、まず杖で打ち殺してから報告せよとまで言った。胡三省は、これは後に徐敬業が乱を起こすことを見抜いていたのではないかと論じる。
- その後、李勣はもう口を開かなかった。
十二月 李勣の死と人物評
- 十二月戊申、李勣が薨じた。
- 高宗はその訃報に涙を流し、葬日には未央宮に登って柩車を望み、慟哭した。
- 墓は陰山・鉄山・烏徳鞬山を模して築かれ、突厥・薛延陀平定の功を顕彰した。
- 李勣は将として謀略と決断に優れ、人の善言をよく取り入れ、戦勝の功は常に部下に譲った。手に入れた財貨はすべて将士に分け与えたので、人々は喜んで命を捨てた。
- 人事では、成功しそうな者を容貌の厚みで見抜こうとし、薄命そうな者は大事に用いなかったという逸話も残る。
- 家庭では和睦を重んじたが規律も厳しく、病気の姉のために自ら粥を煮た際、火が回って髭を焦がしても意に介さず、姉が年老い自分も老いた今、このようにしてやれる日も長くはないからだと言った。
- 若い頃の自分を「十二、三歳では人を見れば殺す無頼の賊、十四、五では気に入らぬと人を殺す手に負えぬ賊、十七、八では陣中でだけ殺す良い賊、二十では戦って人を救う大将になった」と自嘲したこともある。
- 長子の震は早世し、その子の敬業が爵を継いだ。
選挙制度の整備
- このころ天下は久しく太平で、選人は増える一方であった。
- その年、司列少常伯の裴行儉は員外郎の張仁禕とともに、長名・姓暦を設けて名簿順に銓注する方法を定め、州県官の昇降や官資の高下にも基準を立てた。
- これ以後、その制度は長く用いられ、容易には改められなかった。
- 唐の選挙法は、おおむね身・言・書・判の四点で人材を見、資歴と労績で任官を決めた。まず集めて書判を試し、次に身体と言辞を審べ、さらに官を注し、その利便を問い、最後に公示して甲乙に類別し、尚書・門下が順に審査したのち、勅許を得て告身を与えるという流れである。
- 武官の選試も同様で、騎射や翹関・負米で体力を試した。
- 年齢や資格に達しない者でも、文章三篇に優れれば宏詞、判三条に優れれば抜萃として、制限を越えて授官される道があった。
- 黔中・嶺南・閩中の州県官については、吏部を経ず、都督が現地人を選んで補任した。
- 官人の考課は年数を基本とし、六品以下は四考で満期とした。