資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 龍朔 二年 662年

八月 許敬宗の任命

  • 八月壬寅、許敬宗が太子少師となり、あわせて同東西臺三品として西臺の政務を統轄した。

九月 服色の変更

  • 九月戊寅、八品・九品の官人に碧色の服を着ることを初めて認めた。

冬十月 驪山行幸と上官儀の登用

  • 十月丁酉、高宗は驪山の温泉に行幸し、その間、太子が監国した。
  • 丁未、宮中へ帰還した。
  • 庚戌、陜州出身の上官儀が西臺侍郎となり、同東西臺三品に加えられた。

四年の封禅計画

  • 癸丑、龍朔四年正月に泰山で大礼を行い、あわせて翌年二月に東都へ行幸する予定が詔として出された。

許圉師の失脚

  • 左相の許圉師の子・自然が狩猟中に民の田へ踏み入り、怒った田主を鳴鏑で射た。
  • 許圉師は自然を杖刑百としたが、朝廷へ報告しなかった。田主が司憲に訴えたが、司憲大夫の楊德裔は取り上げなかった。
  • 西臺舎人の袁公瑜が、別名を使って密奏しこの件を告発した。
  • 高宗は、宰相でありながら百姓を侵し事実を隠したのは、私威を振るい私恩をほどこすことだと怒った。
  • 許圉師が弁明したが、言い回しがかえって帝の怒りを買い、許敬宗も重罪と断じたため、許圉師はただちに罷免された。

皇子の封建

  • 癸酉、皇子の旭輪が殷王に立てられた。のちの睿宗である。

十二月 東方遠征による負担と封禅中止

  • 十二月戊申、高句麗・百済討伐で河北の民が徴発に苦しんでいるとして、泰山封禅と東都行幸はともに中止された。

蘇海政による西突厥処断とその余波

  • 海道総管の蘇海政は、亀茲討伐の詔を受け、興昔亡・繼往絶の両可汗に出兵を命じて同行させた。
  • その途中、繼往絶は私怨から、興昔亡可汗の阿史那彌射に謀反の疑いがあると蘇海政へ密告した。
  • 蘇海政は兵力が少なかったため、もし彌射が反けば全軍が危ういとして、先手を打って殺す方がよいと判断した。
  • そこで偽って勅命を称し、絹を下賜すると見せて興昔亡と諸酋長を集め、ことごとく捕えて斬った。鼠尼施・抜塞幹の二部は逃亡した。
  • 蘇海政と繼往絶は追撃してこれを鎮圧したが、帰途、疏勒南方の弓月部が吐蕃軍を引き入れて唐軍と戦おうとした。
  • 蘇海政は軍の疲弊を理由に戦わず、軍資を与えて吐蕃と講和し帰還した。
  • このため諸部族は興昔亡の殺害を冤罪と見て離反しはじめ、まもなく繼往絶も死去した。十姓には主がなくなり、阿史那都支・李遮匐が余衆を集めて吐蕃に帰属した。

西突厥の侵攻と来済の戦死

  • この年、西突厥が庭州へ侵攻した。刺史の来済が兵を率いて防戦し、「長く死を覚悟していたが、今日ようやく身をもって国恩に報いる時が来た」と言って甲冑を脱がず敵に突入し、戦死した。