資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 龍朔 三年 663年
春正月 鉄勒の平定
- 正月、左武衛将軍の鄭仁泰が鉄勒の残党を討ち、叛いた諸種族をことごとく平定した。
李義府の右相就任
- 乙酉、李義府が右相となり、なお人事選任を統轄した。
二月 北辺統治機構の再編
- 燕然都護府を回紇の地へ移して瀚海都護府と改称し、旧瀚海都護府は雲中古城へ移して雲中都護府と改称した。
- 大沙漠を境として、その北の州府は瀚海都護府、その南は雲中都護府に属させた。
三月 許圉師の再処分と李義府の専横
- 三月、許圉師はさらに虔州刺史へ左遷された。楊德裔も朋党を組んだ罪で庭州へ流された。許圉師の子の文思・自然もともに罷免された。
- 右相の李義府は選事を掌ると、皇后の後ろ盾を恃んで売官をほしいままにし、選任は秩序を失い、怨嗟が道に満ちた。
- 高宗はこれを耳にし、李義府の子や婿に不法が多いと遠回しに戒めたが、李義府は顔色を変えて逆に告げ口した者を問いただそうとした。
- 帝が「ただ自分の言葉として受け取ればよい」と諭しても、李義府は反省せず立ち去ったため、高宗は不快感を深めた。
李義府の占気と不穏な行動
- 望気者の杜元紀が、李義府の屋敷に「獄気」があるから、二十万緡を積んで厭えばよいと説いた。李義府はこれを信じ、いっそう苛斂に走った。
- 母の喪中でありながら、朔望の哭礼のための休暇を利用して平服で杜元紀と城東の古墳へ出かけ、気色をうかがった。
- これを、災異をうかがってひそかに異志を抱くものだと告発する者が現れた。
- また、子の李津を使って長孫無忌の孫・長孫延から七百緡を受け取り、司津監に任じたことも露見した。
夏四月 李義府の獄死同然の失脚
- 四月乙丑、李義府は獄に下された。
- 司刑太常伯の劉祥道・御史・大理寺官らが三司として取り調べ、さらに司空の李勣が監督した。
- 事実関係はすべて明白となり、戊子、李義府は除名のうえ巂州へ流され、李津は振州へ流された。諸子や婿もみな除名のうえ庭州へ流された。
- 朝野はみな歓声を上げ、彼の失脚を痛快に思った。
- 巷間では、劉祥道が「河間道行軍元帥として銅山の大賊李義府を破る」という露布を作り、町々に掲げたとも伝えられた。そこでは、李義府が取り込んだ奴婢たちが彼の没落とともに元の家へ我先に戻ったと皮肉られた。
新羅への冊封と宮城の整備
- 乙未、新羅国に鶏林大都督府を置き、金法敏をその長とした。
- 丙午、蓬萊宮の含元殿が完成し、高宗は初めてここへ移って政務を執った。従来の宮城は「西内」と呼ばれるようになった。
- 戊申には紫宸殿で初めて聴政した。
五月 嶺南の反乱
- 柳州の蛮族の酋長・呉君解が反乱を起こした。
- 朝廷は冀州長史の劉伯英、右武衛将軍の馮士翽らに嶺南兵を率いさせて討伐に向かわせた。
吐蕃と吐谷渾の争い
- 吐蕃と吐谷渾は互いに攻撃し合い、それぞれ使者を送って、自分たちの正当性を訴え、唐に援助を求めた。
- 高宗はいずれにも加勢しなかった。
- ところが、吐谷渾の臣・素和貴が罪を得て吐蕃へ逃げ、吐谷渾の内情を詳しく伝えたため、吐蕃はこれを機に大軍を起こして吐谷渾を大破した。
- 吐谷渾可汗の曷鉢は弘化公主とともに数千帳を率い、国を棄てて涼州へ逃れ、内地への移住を願った。
吐蕃への備え
- 高宗は涼州都督の鄭仁泰を青海道行軍大総管に任じ、独孤卿雲・辛文陵らを率いて涼州・鄯州に分屯させ、吐蕃に備えた。
- 六月戊申、さらに左武衛大将軍の蘇定方を安集大使とし、諸軍を節度して吐谷渾支援にあたらせた。
- 吐蕃の禄東賛は青海に駐屯し、論仲琮を派遣して入朝させ、吐谷渾の罪を述べるとともに和親を求めた。
- 高宗はこれを許さず、左衛郎将の劉文祥を吐蕃へ派遣し、璽書をもって非を責めた。
秋八月 東征負担の軽減
- 八月戊申、高宗は海東方面での長年の戦争により、百姓が輸送・徴発に苦しみ、兵士も戦死や溺死が多いことを理由に、三十六州で造船を進めていた事業を停止した。
- また、竇德玄らを十道へ派遣して民の疾苦を問わせ、官吏の善悪を査察させた。
九月 白江口の戦いと百済滅亡
- 九月戊午、熊津道行軍総管の孫仁師らは、白江で百済残党と倭軍を破り、周留城を攻略した。
- もともと劉仁願・劉仁軌が真峴城を落としたのち、詔により孫仁師が海路から増援として送られていた。
- 百済王の豊は南から倭兵を引き入れて唐軍に対抗したが、孫仁師は劉仁願・劉仁軌と合流して兵勢を強めた。
- 諸将は交通の要地である加林城を先に攻めようとしたが、劉仁軌は、そこは険しく持久戦になるので、まず反乱の根拠地である周留城を討つべきだと主張した。
- その策に従い、孫仁師・劉仁願・新羅王金法敏は陸軍で進み、劉仁軌は杜爽・扶余隆とともに水軍と糧船を率いて白江から進んだ。
- 白江口で倭兵と遭遇すると四度の戦いですべて勝利し、敵船四百艘を焼き払った。炎は天を焦がし、海水は赤く染まった。
- 百済王豊は逃れて高句麗へ奔り、王子の忠勝・忠志らは降伏した。百済はほぼ平定され、ただ別帥の遅受信だけが任存城に拠って降らなかった。
黒歯常之・沙吒相如の帰順
- 百済西部の有力者・黒歯常之は、長身で勇猛かつ計略に富み、百済では達率・郡将の地位にあった。
- 以前、蘇定方が百済を滅ぼした際、常之も一度は降ったが、定方が王族を捕えて兵に掠奪を許したため、人々の多くが死に、常之は危機を感じて本拠へ逃れた。
- 任存山に柵を築いて立て籠もると、一か月余りで三万人以上が集まり、唐軍は攻めても勝てなかった。常之はさらに二百余城を奪い返した。
- やがて百済再興勢力が敗れると、黒歯常之と別部将の沙吒相如はともに唐へ帰順した。
- 劉仁軌は両者にそれぞれの兵を率いさせて任存城を攻めさせ、糧食と武器も与えた。
- 孫仁師は「獣のような心で信用できない」と疑ったが、劉仁軌は二人が忠義と信義を重んじる人物だと見抜き、任せた。
- その結果、任存城は陥落し、遅受信は妻子を棄てて高句麗へ逃亡した。
劉仁軌の百済経営
- 劉仁軌は百済鎮撫のため留任し、孫仁師と劉仁願は召還された。
- 百済は戦火で荒れ果て、死体が野に満ち、村里も壊滅していた。
- 劉仁軌はまず骸骨を埋葬させ、戸口を登録し、村を整理し、官吏を置き、道路・橋梁・堤防・池沼を修復し、耕作と養蚕を奨励し、貧者・孤老を救済した。
- さらに唐の社稷を立て、正朔と廟諱を頒布したことで、百済の民は大いに喜び、それぞれ生業に安んじた。
- そののち屯田を整え、糒粮を蓄え、兵士を訓練して高句麗攻略の基盤を作った。
劉仁願の帰朝と劉仁軌の賞賛
- 劉仁願が帰京すると、高宗は、彼の海東からの奏事が情勢に合い文章も整っていることを褒めた。
- 劉仁願は、それはすべて劉仁軌の働きで自分の及ぶところではないと答えた。
- 高宗はこれを喜び、劉仁軌の官階を六階進め、帯方州刺史に正式任命し、長安に邸宅を築いて家族にも厚く褒賞し、勅書を送って慰労した。
- 上官儀は、左遷された身から忠節を尽くした劉仁軌と、節度権を持ちながら賢者を推した劉仁願は、いずれも君子だと評した。
冬十月 太子の裁決権
- 十月辛巳朔、太子は五日ごとに光順門内で諸司の奏事を閲し、小事は自ら裁決するよう命じられた。
十二月 改元予告と西域・大食
- 十二月庚子、来年を改元する詔が出された。
- 壬寅、安西都護の高賢が行軍総管となり、兵を率いて弓月を討ち、于闐を救うこととなった。
- この年、大食が波斯と拂菻を攻撃して破り、さらに南へ婆羅門の地へ侵入し、諸胡を併呑して、四十万を超える兵力を持つようになった。