資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 龍朔 元年 661年
正月〜三月 高麗征討準備と一戎大定楽
- 正月乙卯、河南・河北・淮南の六十七州から兵を募り、四万四千余人を平壌・鏤方の行営へ送った。
- 戊午、蕭嗣業が扶余道行軍総管となり、回紇など諸部兵を率いて平壌方面へ向かった。
- 二月乙未晦、改元して龍朔となった。
- 三月丙申朔、高宗は群臣および外国使節と洛城門で宴し、新たに訓練した「一戎大定楽」を観覧した。これは天下平定の武威を象徴する楽舞で、百四十人が五色の甲と槊を持って舞った。高宗が高麗親征を望んでいた気分も、こうした演出に表れていた。
百済残党の蜂起
- かつて蘇定方が百済を平定した後、郎将劉仁願を百済府城に残して守らせ、さらに左衛中郎将王文度を熊津都督として残余の民を慰撫させようとしたが、王文度は海を渡った先で病死していた。
- この隙に、百済の僧道琛と旧将福信が周留城に拠って兵を集め、倭国にいた故王子豊を迎えて王に立て、府城の劉仁願を包囲した。
劉仁軌の復起と百済救援
- 朝廷は劉仁軌を起用し、帯方州刺史の職を仮に授けて王文度の兵を率いさせ、新羅兵を発して劉仁願救援に向かわせた。
- 劉仁軌は、自分は東夷を掃平して大唐の正朔を海の彼方に行き渡らせたいのだと言い、『唐暦』と廟諱を携えて出発した。
- その用兵は厳整で、転戦する先々で勝利した。まず百済側が熊津江口に築いた二つの柵を新羅兵と協力して破り、殺傷・溺死は一万余に及んだ。
- 道琛は府城の包囲を解き、任存城へ退いた。新羅兵は糧尽きて帰国した。
- その後、福信は道琛を殺して兵権を独占し、勢いを強めた。
- 高宗は新羅に再び出兵を命じ、新羅王春秋は将の金欽を派遣したが、古泗で福信に敗れ、葛嶺道から逃げ帰り、以後しばらく兵を出せなくなった。
夏四月〜六月 高麗親征断念と西域設置
- 四月丁卯、高宗は合璧宮へ行幸した。
- 庚辰、任雅相・契苾何力・蘇定方らにそれぞれ浿江道・遼東道・平壌道の軍を率いさせ、蕭嗣業や諸胡兵をあわせて三十五軍が水陸分進することになった。高宗自身も大軍を率いて後続しようとした。
- しかし癸巳、皇后が上表して高麗親征を諫めたため、詔により中止となった。
- 六月癸未、吐火羅・嚈噠・罽賓・波斯など十六国に都督府八、州七十六、県百十、軍府百二十六を設置し、すべて安西都護府に属させた。
七月〜九月 平壌包囲・新羅王交代・王勃追放
- 七月甲戌、蘇定方は浿江で高麗軍を破り、連戦連勝のまま平壌城を包囲した。
- 九月癸巳朔、新羅王春秋が死去し、子の法敏が楽浪郡王・新羅王となった。
- 壬子、潞王賢を沛王へ移した。沛王は王勃の文章を好み、修撰として招いていた。
- ところが王勃が遊戯半分で「周王の鶏を討つ檄文」を作ると、高宗はこれを諸王の対立を煽る兆しとみなし、王勃を沛王府から追放した。
高麗戦線の推移
- 高麗の蓋蘇文は、子の男生に精兵数万を与えて鴨緑水を守らせ、唐軍は渡河できなかった。
- そこへ契苾何力が到着すると、ちょうど水面が全面結氷していたため、兵を率いて氷上を渡り、鼓噪して進んだ。高麗軍は大潰し、数十里追撃され、三万級を斬られ、残兵もほぼ降った。男生だけがかろうじて逃れた。
- しかしちょうど班師の詔が届いたため、諸軍は帰還した。
冬十月 行幸・回紇交代・鉄勒征討命令
- 十月丁卯、高宗は陸渾で狩りをし、戊申には非山でも狩猟し、癸酉に宮へ戻った。
- 回紇の酋長婆閏が死に、甥の比粟毒が部衆を継いだ。
- その後、回紇が同羅・僕固とともに辺境を侵したため、鄭仁泰を鉄勒道行軍大総管、劉審礼・薛仁貴を副将とし、また蕭嗣業・孫仁師にも別道を率いさせて討伐を命じた。