資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 顕慶 二年 657年
春正月〜閏月 西突厥・洛陽行幸
- 正月癸巳、哥邏祿の部を分け、陰山・大漠の二都督府を置いた。
- 閏月壬寅、高宗は洛陽へ行幸した。
- 庚戌、蘇定方を伊麗道行軍総管とし、燕然都護の任雅相、副都護の蕭嗣業とともに、回紇など北道の兵を率いて西突厥の沙鉢羅可汗を討たせた。
阿史那彌射・歩真の起用
- もともと阿史那彌射とその族兄の阿史那歩真は、西突厥の有力酋長で、太宗の時代にそれぞれ部衆を率いて唐へ降っていた。
- この年、二人は流沙安撫大使に任じられ、彌射は南道から旧部衆を招集する役目を与えられた。
二月〜三月 洛陽到着と人事
- 二月辛酉、車駕は洛陽宮に着いた。
- 庚午、皇子李顕を周王に立てた。
- 壬申、雍王素節を郇王に移封した。
- 三月甲辰、潭州都督の褚遂良を桂州都督に移した。
- 癸丑、李義府は兼中書令となった。
夏五月〜七月 視朝の簡略化と神仙説の否定
- 五月丙申、高宗は明徳宮に避暑した。即位以来毎日政務を見ていたが、庚子に宰相が天下は安定しているから一日おきの視朝でよいと請い、許された。
- 七月丁亥朔、高宗は洛陽宮へ戻った。
- かつて王玄策が天竺遠征の際に連れ帰った婆羅門の方士・那羅邇娑婆寐は、長生の術があると称し、太宗はこれをかなり信じて厚遇していた。各地や婆羅門諸国にまで薬材探索を命じたが、結局何も成らず追放されていた。
- この者が再び長安に来たと聞き、王玄策はなお用いる価値があると進言したが、高宗は、秦始皇や漢武帝も仙人を求めて民を疲弊させたが何も得られなかった、もし不死の人間がいるなら今どこにいるのか、と述べてこれを退けた。
- 李勣も、再来したこの方士の容貌がすでに老いていることを指摘し、長生などできるはずがないと同調した。娑婆寐は長安で死んだ。
八月 韓瑗・来済・褚遂良らの失脚
- 許敬宗と李義府は皇后の意を受け、侍中韓瑗・中書令来済が褚遂良とひそかに謀反を企て、褚遂良を兵の要地たる桂州都督にしたのは外援にするためだと誣告した。
- 八月丁卯、韓瑗は振州刺史、来済は台州刺史に左遷され、ともに終身朝覲を禁じられた。さらに褚遂良は愛州刺史、柳奭は象州刺史に左遷された。
- 褚遂良は愛州へ赴くにあたり上表し、承乾と濮王李泰が争った際には命を顧みず高宗支持を明言したこと、太宗の臨終には長孫無忌とともに遺詔を受け、喪中の高宗を支えて内外を安定させたことを訴え、老残の身を憐れんでほしいと願った。
- だが上表は取り上げられなかった。
郊祀・明堂の礼制整理
- 己巳、礼官は、四郊の迎気では太微五帝の祭祀を残す一方、南郊・明堂では緯書に基づく「六天」説を廃し、また方丘の地祇祭とは別に立てていた神州の祭も一本化すべきだと奏上し、認められた。
- 辛未、許敬宗が侍中となり、杜正倫が兼中書令となった。
冬十月〜十二月 許州行幸と蘇定方の大勝
- 十月戊戌、高宗は許州へ行幸し、乙巳には滍水南で狩りをし、壬子には汜水曲に至った。十二月乙卯朔、洛陽宮に還った。
- 同じ頃、蘇定方は西突厥の沙鉢羅可汗を討ち、金山北でまず処木昆部を大破した。俟斤嬾独祿らが一万余帳を率いて降り、その千騎を選んで従軍させた。
- 薛仁貴は、泥孰部はもともと賀魯に従っておらず、その家族は賀魯に奪われているから、唐軍が奪回した者を返し、恩恵を示せば必死で戦うだろうと進言した。高宗はこれを採用し、泥孰部は大いに喜んで従軍を請うた。
- 蘇定方が曵咥河西に達すると、沙鉢羅は十姓の兵十万近くで迎え撃った。蘇定方は唐軍と回紇兵あわせて一万余でこれに当たり、歩兵を高地に拠らせ、騎兵を別の高地に布陣した。
- 沙鉢羅は兵数の少なさを見て軽んじ、まず歩兵を三度攻めたが崩せず、その隙に蘇定方が騎兵で反撃して大破した。三十里追撃し、数万人を斬獲した。
- 翌日さらに進むと、胡禄屋ら五弩失畢がそろって降伏した。沙鉢羅は処木昆・屈律啜ら数百騎で西へ逃走した。
- 一方、阿史那歩真が南道から五咄陸の諸部を受け入れ、北道と南道の挟撃が形となった。蘇定方は蕭嗣業・回紇婆閏らに胡兵を率いさせて邪羅斯川へ追撃させ、自らも任雅相とともに新附の兵を率いて続いた。
- 大雪で軍中は進軍延期を求めたが、蘇定方は、敵は雪深く唐軍は来られまいと油断している今こそ急追の好機だとして、昼夜兼行を断行した。
- 双河で彌射・歩真と合流し、沙鉢羅の牙帳まで二百里に迫ると、長い陣形で一気に進軍した。沙鉢羅はちょうど狩りに出ようとしており、不意を突かれて大敗した。唐軍はその旗鼓を奪い、斬獲は数万に及んだ。
- 沙鉢羅は子の咥運、娘婿の閻啜らとともに石国へ逃れた。蘇定方は追撃の一方で、諸部をもとの土地に帰し、道路と駅伝を整え、骸骨を葬り、被害者を慰問し、境界を画定し、生業を再建させ、賀魯に奪われた人々もことごとく返還した。十姓は従前どおり安堵した。
- その後、蕭嗣業が追撃を続けたところ、沙鉢羅は蘇咄城で城主伊沮達官に欺かれて捕えられ、石国から唐軍に引き渡された。
年末 西突厥再編と制度改革
- 乙丑、西突厥の旧領を分けて濛池・崑陵の二都護府を置いた。
- 阿史那彌射を左衛大将軍・崑陵都護・興昔亡可汗とし、五咄陸を統轄させた。阿史那歩真は右衛大将軍・濛池都護・継往絶可汗とし、五弩失畢を統轄させた。
- 盧承慶が派遣され、諸部の規模と地位に応じて刺史以下の官を授けた。
- 丁卯、洛陽宮を東都とし、洛州の官制を雍州にならわせた。
- またこの年、今後は僧尼が父母や尊長から礼拝を受けてはならず、役所は明確な法令でこれを禁ずるよう命じられた。
- 劉祥道が黄門侍郎となり、吏部選事を知った。彼は、毎年入流者が多すぎ、三十年で官職が埋まり切る計算になるとして、年間五百人程度に抑えるべきだと主張した。杜正倫も同様の意見を述べたが、大臣たちは改革を恐れ、この件は実行されなかった。