資治通鑑唐紀十五 高宗天皇大聖大𢎞孝皇帝上之上 永徽 三年 前652年

春正月 処月征討

  • 己未朔、吐谷渾・新羅・高麗・百済がそろって入貢した。
  • 癸亥、梁建方・契苾何力らが牢山で処月朱邪孤注を大破した。孤注は夜逃げしたが、梁建方は副総管高徳逸に軽騎で追わせ、五百余里先で生け捕りにした。斬首九千級。
  • 帰軍後、御史は梁建方がなお追撃できたのに逗留したと弾劾し、高徳逸についても勅命で買う馬から良馬を私取したと奏した。しかし高宗は討伐の功を重んじて不問とし、馬の件を持ち出した大理卿李道裕には、法官が本職外で君意を忖度しているとたしなめ、自らの施政が信頼されていないのかと嘆いた。

正月から三月 宰相復帰と農桑儀礼

  • 己巳、褚遂良を吏部尚書・同中書門下三品として復帰させた。
  • 丙子、太廟を享し、丁亥には先農を享して自ら籍田を耕した。
  • 二月甲寅、高宗は安福門楼に出て百戯を観た。翌日、これは民情や風俗の奢倹を見るためで、声色を楽しむためではないと説明した。
  • とくに胡人の撃鞠を見て、帝王がこれを好むと思わせるのは軽率だとして、用いられた鞠を焼かせ、自らの戒めとした。

三月から六月 西南蛮平定と薛延陀残党処置

  • 辛巳、宇文節を侍中、柳奭を中書令とし、兵部侍郎韓瑗を黄門侍郎守・同中書門下三品とした。
  • 夏四月、趙孝祖は西南蛮を大破し、小勃弄酋長歿盛を斬り、大勃弄酋長楊承顛を捕えた。そのほか険阻に拠る諸部も次々に降し、西南蛮は平定された。
  • 甲午、澧州刺史の彭思王元則が死去した。
  • 六月戊申、兵部尚書崔敦礼らに并・汾の歩騎一万人を率いさせて北方の茂州へ赴かせ、薛延陀残党を河の向こうへ移し、祁連州を置いてそこに住まわせた。

七月以後 皇太子冊立と人口増

  • 秋七月丁巳、陳王忠を皇太子に立て、天下に大赦した。
  • 王皇后には子がなく、柳奭は皇后のために、母が卑賤な劉氏である忠を立てれば将来皇后に親しむであろうと考え、長孫無忌らを通じて請わせ、高宗もこれに従った。
  • 乙丑、于志寧を兼太子少師、張行成を兼少傅、高季輔を兼少保とした。
  • 丁丑、高宗が戸部尚書高履行に戸数増加を問うと、前年の新増戸は十五万戸にのぼったという。隋開皇年間の戸数は八百七十万、現在は三百八十万であると奏した。
  • 九月、守中書侍郎来済を同中書門下三品とした。

冬十一月 濮王泰の死と房遺愛事件の露見

  • 庚寅、弘化長公主が吐谷渾から来朝した。
  • 癸巳、濮王泰が均州で死去した。
  • そのころ、房遺愛と高陽公主の夫婦は兄房遺直との財産争いから不和となっていた。高陽公主はかつて僧弁機と私通し、太宗に強く叱責されて以来不満を抱いていた。遺愛も遺直と互いに訴え合い、房遺愛は房州刺史、遺直は隰州刺史とされた。
  • 公主はさらに僧智朂らを私に侍らせ、掖庭令陳玄運に宮中の吉凶をうかがわせていた。
  • また薛万徹は入朝中に房遺愛と親しくなり、もし国家に変があれば司徒荆王元景を主に立てようと謀った。元景の女は房遺愛の弟遺則に嫁しており、その縁で往来していた。元景自身も夢で日月を手にしたと語っていた。
  • 柴令武も巴陵公主との関係から遺愛と結んだ。
  • 高陽公主は遺直を失脚させて遺愛に家督を集中させようとし、遺直を誣告した。遺直も逆に遺愛夫妻の罪を告げたため、高宗は長孫無忌に取り調べを命じた。
  • すると房遺愛と高陽公主の反逆計画があらわとなり、さらに房遺愛は、長孫無忌が呉王恪を忌んでいることを知ると、助命される望みをかけて恪も共謀者だと自白した。