資治通鑑唐紀十四 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上 貞觀 二十二年 648年

正月・帝範の下賜

  • 春正月己丑、太宗は『帝範』十二篇を作って太子に与えた。内容は、君主の本体、親族の立て方、賢者の求め方、官の審査、諫言の受け方、讒言の排除、驕りの戒め、倹約、賞罰、農業、武備、文教などに及んだ。
  • さらに、修身と治国の道はこれに尽きており、自分にもしものことがあればもう言い残すことはないと述べた。
  • また、自分をそのまま模範とするのではなく、古代の哲王をさらに師とせよと言い、自身の過失として、錦繡珠玉を絶やさず、宮室台榭をたびたび造営し、犬馬鷹隼を遠方から集め、四方への遊覧で供給を煩わせたことなどを率直に挙げ、これを是として学んではならぬと戒めた。
  • そのうえで、自分には蒼生を救い区夏を開いた大功があったため、多少の過失は怨まれずに済んだが、太子にはそのような功はないのだから、善を尽くしてようやく国家は安んじられ、驕りと放縦に陥れば身すら保てない、国家は成るのに遅く敗れるのは早く、地位は失いやすく得がたいのだと強く諭した。

馬周の死と崔仁師の参政

  • 中書令兼右庶子の馬周が病むと、太宗は自ら薬を調え、太子に見舞わせた。庚寅、馬周が薨じた。
  • 戊戌、太宗は驪山温湯へ行幸した。
  • 己亥、中書舎人崔仁師を中書侍郎とし、機務に参与させた。

新羅王の交代

  • 新羅王金善徳が死んだため、その妹の真徳を柱国・楽浪郡王に封じ、使者を送って冊命した。

高麗再征の発令

  • 丙午、右武衛大将軍薛万徹を青丘道行軍大総管、右衛将軍裴行方を副将とし、兵三万余と楼船・戦艦を率いて萊州から海を渡らせ、高麗を攻めさせた。
  • 長孫無忌は検校中書令として、なお尚書省・門下省の事も知り、三省の枢機を総覧した。

結骨の入朝

  • 戊申、太宗は宮へ還った。
  • 結骨は古くから中国と往来がなかったが、鉄勒諸部がみな唐に服したと聞いて、二月に俟利発失鉢屈阿棧を朝貢に送ってきた。
  • その国の人々は体格が大きく、赤髪に緑の眼をもち、黒髪の者は不吉とされた。太宗は天成殿で宴を開き、渭橋で三人の突厥首級を斬った昔には自分の武功を大きく感じたが、今ではこのような遠方の異人が列席していても怪しむことすらないと語った。
  • 失鉢屈阿棧は、何らかの官を授けられ笏を執って帰国できれば百世の栄えになると願った。戊午、太宗は結骨を堅昆都督府とし、失鉢屈阿棧を右屯衛大将軍・堅昆都督に任じ、燕然都護府に隷属させた。
  • また阿史徳時健の部落を祈連州として営州都督に属させた。こうして四夷の大小君長が競って遣使・朝見し、元日の朝賀には数百千人に及ぶほどになった。

胡使への誇示

  • 辛酉、太宗は胡の使者たちを引見し、漢武帝は三十余年も兵を用いて中国を疲弊させたのに得るところは少なかったが、自分は徳によって辺外の果てまで編戸に組み入れた、と述べた。

玉華宮への行幸と崔仁師の失脚

  • 太宗は玉華宮の造営に際し、つとめて倹約を守り、自ら住む殿だけを瓦葺きにし、ほかは茅葺きとした。ただし太子宮や百司の施設まで山野に広く設けたため、費用はやはり莫大であった。
  • 乙亥、太宗は玉華宮に行幸した。己卯には華原で狩猟を行った。
  • そのころ中書侍郎崔仁師は、伏閤して直接訴える者がいたのに奏聞しなかった罪で除名され、連州へ流された。

三月・西域遠征の予見

  • 三月己丑、瀚海都督俱羅勃の部から分けて燭龍州を置いた。
  • 甲午、太宗は侍臣に、若いころから兵間に育って敵情判断には自信があるとし、今回の崑丘道遠征では、処月・処密の二部と、龜茲で実権を持つ羯獵顛那利がまず必ず首を差し出し、布失畢がそれに次ぐだろうと予言した。

隋蕭后の死と徐惠の諫疏

  • 庚子、隋の蕭后が死去した。太宗はその位号を復し、「愍」と諡し、三品官に護送させ、鹵簿・儀衛を備えて江都に送らせ、煬帝と合葬させた。
  • 充容の徐惠は、東に高麗を征し西に龜茲を討ち、翠微宮・玉華宮の造営が続き、服飾や玩具もやや華美になっていることを憂え、上疏して諫めた。
  • その趣旨は、有限の農力を尽きぬ浪費に注ぎ、まだ手に入らぬ他国の民を求めて、すでに損耗した自軍をさらに危険にさらすべきではない、秦始皇は六国を呑んでかえって危亡を早め、晋武帝も天下を一にして後には覆敗した、これは皆、功を誇って徳を軽んじ、利をむさぼって危険を忘れ、欲に任せたからだ、というものであった。
  • また、たとえ茅葺きで倹約を示しても、木石の労役そのものが人民を疲れさせ、珍玩や技巧の品は国家を斧で刻むようなもので、珠玉錦繡は心を惑わす毒だと論じた。最後に、倹約を法としてもなお奢りに流れやすいのに、奢りを法としてどうして後世を制せようかと結んだ。太宗はその言を善しとして、徐惠をことのほか礼遇した。