資治通鑑唐紀十一 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 十三年 639年
春正月 献陵参拝
- 乙巳、太宗は献陵に謁した。唐の陵墓参拝には厳密な儀礼と配置が定められていた。
- 丁未、還宮した。
正月 房玄齢の辞任願い
- 戊午、左僕射の房玄齢に太子少師を加えた。
- 房玄齢は、自分が宰相の首班に長く居り、子の遺愛が高陽公主を娶り、娘が韓王妃になっていることから、過分の栄達を恐れて機務を解きたいと願い出た。
- 太宗は許さず、房玄齢が重ねて願ったため、ついには上表を受け付けないよう命じて職務に就かせた。
- 太子が儀衛を整えて拝謁しようとしたが、房玄齢はあえて会わずに帰り、当時の人々はその譲退の心を称えた。
- なお、天下財政の要を握る度支について適任者が見つからず、房玄齢が自ら兼領した。宰相による度支掌握の先例となる。
正月 王珪の死と家廟
- 礼部尚書の王珪が死去した。
- 王珪は性格が寛大で、自らの生活はきわめて質素だった。
- 唐制では三品以上は家廟を立てられたが、王珪は長く顕官でありながら寝所で祭るだけで、法司に弾劾された。
- 太宗はこれを咎めず、官に命じて家廟を建てさせ、自らの倹素さを王珪に恥じたとされる。
二月 尉遅敬徳との対話
- 庚辰、光禄大夫の尉遅敬徳を鄜州都督に任じた。
- 太宗はかつて、「卿が反くという者がいるのはなぜか」と問うた。敬徳は、天下平定のため百戦して傷だらけで生き残ったのに、天下が定まってから逆心を疑われるのかと、衣を脱いで瘢痍を示した。
- 太宗は涙を流し、疑っていないからこそ率直に尋ねたのだと慰めた。
- また、太宗が娘を敬徳に嫁がせようとした際、敬徳は、貧賤を共にした妻を富貴になったからと替えないのが古人の道だとして辞退した。太宗はその志を認めて中止した。
二月 後宮人選の改正
- 戊戌、尚書省は、近年の掖庭・東宮女官の人選には、礼法を知らぬ微賤の家や、刑戮の家の者が多いと奏した。
- 今後は良家で才行ある者を礼をもって迎え、没官の女やもとより賤しい家の者は補用しないこととし、太宗はこれに従った。
二月 世襲刺史制の撤回
- 太宗が宗室・群臣に世襲刺史を命じていたことについて、左庶子の于志寧が、古今は事情が違い長久の策ではないと上疏した。
- 馬周も、名臣の子孫であっても必ずしも賢いとは限らず、幼少や驕愚の者が民に害を及ぼすおそれがあると論じた。
- 楚の子文の孫に旧封を返した例や、欒黶の悪行が家門の滅亡を招いた例を引き、恩顧は土地と戸邑の賜与にとどめ、能力に応じて官を授けるべきだとした。
- さらに長孫無忌らも外州赴任を望まず、三代の封建はやむをえない事情の産物で、漢代以降は郡県制が適切だと上表して固辞した。
- 長孫無忌は公主を通じても願い出て、今さら外州に出されるのは流罪同然だと訴えた。
- 太宗は、功臣を分封して子孫に皇室を助けさせるのは古今の通義だと反発したが、最終的に庚子、世封刺史の詔を停止した。
二月―三月 高昌問題の深刻化
- 高昌王の麴文泰は、西域諸国の朝貢路を遮り、伊吾や西突厥と結んで西域支配を強めていた。
- 唐が大臣の阿史那矩を呼んで事情を尋ねようとしても送らず、長史の麴雍だけを謝罪に来させた。
- さらに、頡利滅亡後に高昌へ逃れた中国人を返還させるよう求めても匿って返さず、西突厥とともに焉耆を破ったため、焉耆は唐に訴え出た。
- 太宗は虞部郎中の李道裕を派遣して事情を問い、高昌の朝貢の怠慢や、唐制を模して官号・城郭を整えていること、さらに唐使に対して独立自存を誇る言辞を弄したことを問題視した。
- また文泰は、薛延陀にも「可汗は天子と対等であるのになぜ唐の使者に拝礼するのか」と吹き込み、翌年には唐を討つようそそのかしていたと伝えられた。
- 三月、薛延陀可汗は、恩に報いるため高昌征討の先導をしたいと申し出、太宗は唐儉・執失思力に繒帛を持たせてこれに応じた。
夏四月 九成宮行幸
四月 結社率の変
- 突利可汗の弟・結社率は、突利に従って入朝して官位を得ていたが、素行不良で突利に疎まれ、逆に兄を謀反人として訴えたことで太宗の信用も失い、昇進できずにいた。
- そこで旧部四十余人と密謀し、晋王が夜明け前に宮門を出るのに紛れて門を開かせ、御帳へ突入して大功を立てようとした。
- 甲申夜、賀邏鶻を擁して宮外に伏したが、大風のため晋王が出ず、夜明けを恐れてそのまま行宮に突入した。
- 四重の幕を越えて射撃し、衛士数十人が死んだが、孫武開らが奮戦し、結社率らは退いて御廐から馬を奪い、渭水を越えて北走しようとしたところ追いつかれて捕えられ、斬られた。賀邏鶻は嶺南へ流された。
四月 巴・壁・洋・集州の獠平定
- 庚寅、武候将軍の上官懐仁が巴州・壁州・洋州・集州で反乱した獠を討ち、男女六千余りを捕虜とした。
五月 旱と魏徴の「十思」的諫言
- 五月、旱魃があった。
- 甲寅、太宗は五品以上に封事を上らせた。
- 魏徴は、太宗の志業が貞観初年ほど徹底しなくなった点を十条に分けて論じた。そのうち一つでは、近年は民力を軽く用い、「民は暇だと驕り、働かせれば使いやすい」とする意見があるが、民が安逸だから敗れ、苦役で安定した国など古来ないと鋭く批判した。
- 太宗はこれを深く賞して、屏風に書き写して朝夕に仰ぎ見、史官にも記録させ、さらに黄金十斤と馬二匹を魏徴に賜った。
六月 西南交通路の開通
- 渝州の侯弘仁が、牂柯から道を開き、西趙を経て邕州に出る道を通じた。これにより交州・桂州方面との交通が便利になった。
- 蛮・俚で降った者は二万八千余戸に及んだ。
六月 滕王の立封
七月 突厥の河北帰還策
- 結社率の反乱以後、群臣の間では、突厥諸部を黄河南の内地に置くのは不便だという意見が多くなった。
- 庚戌、太宗は李思摩を乙弥泥孰俟利苾可汗とし、鼓纛を賜って、諸州に分置していた突厥・胡人を河を渡らせ旧部へ帰還させ、辺塞の藩屏とすることを命じた。
- しかし突厥人は薛延陀を恐れて進みたがらなかったため、太宗は郭嗣本に薛延陀宛の璽書を持たせ、唐は頡利一人の害を除いただけで土地や民を貪ったのではなく、今こそ約束どおり突厥を再建するのだと告げた。
- そのうえで、薛延陀は漠北、突厥は漠南に居し、互いに境界を守るよう命じた。
- こうして思摩は河北に牙帳を建て、太宗は斉政殿で餞別した。思摩は涙ながらに恩を謝し、子孫まで唐に仕えると誓った。
- また阿史那忠・阿失那泥孰を左右賢王とし、忠には宗女を娶らせたが、彼らは出塞後も中国を慕い、使者に会うたび帰朝を願った。
八月 自傷訴訟の禁止
- 辛未朔、日食があった。
- 太宗は、近ごろ訴訟人の中に耳目を傷つけて悲惨さを訴える者がいることを憂え、身体髪膚を損なってはならないとする孝の教えに反するとして、今後そうした者はまず笞四十とし、そのうえで法に従って裁くよう命じた。
冬十月―十二月 高昌討伐決定と諸事
- 甲申、太宗は京師へ還った。
- 十一月辛亥、侍中の楊師道を中書令とし、戊辰には尚書左丞の劉洎を黄門侍郎・参知政事とした。
- 太宗はなお高昌王文泰の悔悟を期待し、さらに璽書を下して禍福を示し入朝を命じたが、文泰は病を理由に来なかった。
- 十二月壬申、侯君集を交河行軍大総管、薛万均らを副総管として高昌討伐軍を発した。
- 乙亥、皇子福を趙王に立てた。
- 己丑、吐谷渾王諾曷鉢が来朝し、宗女を弘化公主として娶らせた。
- 壬辰、太宗は咸陽で狩猟し、癸巳に還宮した。
年末 太子承乾と傅奕
- 太子承乾はしだいに遊猟にふけって学業を怠り、右庶子の張玄素が諫めても聞かなかった。
- この年、州府は三百五十八、県は千五百十一であった。
- 太史令の傅奕は術数書に通じながら仏教を信じず、病時にも医薬を用いなかった。西域僧の呪術を太宗が試させたところ効果があるように見えたが、傅奕は邪術であり自分には効かないと言った。実際、僧が呪を施すと傅奕には何もなく、僧の方が突然倒れて死んだ。
- さらに別の婆羅門僧が「仏歯」を示して硬物を砕けると称し、人々が群がったが、傅奕は羚羊角で試せと子に命じ、実際に叩くと砕けたので、人々の熱狂は収まった。
- 傅奕は臨終に、子に仏書を学ぶなと戒め、魏晋以来の反仏論者を集めた『高識伝』十巻を残した。
年末 西突厥の再分裂
- 西突厥では、咥利失可汗の臣・俟利発が乙毗咄陸可汗と通じて乱を起こし、咥利失は鏺汗へ逃れて死んだ。
- 弩失畢部はその弟の子・薄布特勒を立て、これを乙毗沙鉢羅葉護可汗とした。
- 沙鉢羅葉護は雖合水北に南庭を置き、龜茲・鄯善・且末・吐火羅・焉耆・石・史・何・穆康など諸国がこれに附いた。
- 一方の咄陸は鏃曷山西に北庭を置き、厥越失・拔悉弥・駁馬・結骨・火燖・触水昆などがこれに属した。
- 両者は伊列水を境とし、西突厥は南庭・北庭に分裂して対立した。