資治通鑑唐紀十一 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 十二年 638年

春正月 親王への礼遇をめぐる議論

  • 乙未、礼部尚書の王珪は、三品以上の官が道で親王に会うたびに車から降りるのは礼に合わないと奏上した。
  • 太宗は、群臣が自らを貴くして皇子たちを軽んじているのではないかと不満を示した。
  • 魏徴は、親王の位は本来三公に次ぐものであり、九卿・八座級の三品官が毎回下車するのは妥当でないとした。
  • 太宗は、もし太子に不幸があれば諸王が将来の君主になるかもしれないのだから軽んじてはならないと述べた。これは承乾に足の病があり、魏王泰が寵愛されていた当時の空気を反映していた。
  • 魏徴は、周以来、兄弟相続ではなく父子相続を原則としたのは、庶流の野心を断って乱の根を塞ぐためだと説き、太宗は最終的に王珪の奏議に従った。

正月 『氏族志』の編纂

  • 高士廉・韋挺・令狐徳棻・岑文本らが『氏族志』を編纂して上奏した。
  • それ以前、山東の崔・盧・李・鄭などの旧族は、家勢が衰えていても門地を誇り、婚姻に財物を求めたり、偽って名族を称したり、兄弟が同列でも嫁ぎ先の家格で互いを見下したりしていた。太宗はこれを憎んでいた。
  • 編纂者たちは天下の系譜を集め、史書と照合して真偽と世系を正し、九等に分類したが、崔民幹を第一とした。
  • 太宗はこれに不満を示し、いま高位にあるのは勲功・徳行・学問によるのであって、衰えた旧門をむやみに崇めるのは実質を捨てた俗習だと批判した。
  • 改めて現朝の品秩を基準に編纂し直させ、皇族を第一、外戚を第二、崔民幹を第三とした。最終的に二百九十三姓、千六百五十一家を定め、天下に頒布した。

二月 西還と河東巡幸

  • 乙卯、太宗は洛陽から西へ帰った。
  • 癸亥、河北県のあたりで黄河中の砥柱を見物した。
  • 乙丑、禹廟を祀り、丁卯には柳谷で塩池を視察した。禹都の旧地にあたる地域である。

二月 巫州の獠反乱

  • 甲子、巫州で獠が反乱を起こした。夔州都督の斉善行がこれを破り、男女三千余りを捕虜とした。

二月 蒲州刺史趙元楷への叱責

  • 庚午、蒲州刺史の趙元楷は、父老に黄色の紗の単衣を着せて車駕を迎えさせ、役所や楼観を華美に飾り、さらに羊や魚を用意して貴戚に贈ろうとした。
  • 太宗は、巡幸に必要なものはすべて官庫から支給しているのに、そのようなことをするのは隋の悪弊と同じだとして厳しく叱責した。

閏月 堯君素の忠節を顕彰

  • 戊寅、かつて隋に仕えた堯君素を蒲州刺史に追贈し、その子孫を尋ねて報告させた。
  • 太宗は、堯君素は敵方であったとはいえ、乱世に際して節義を失わなかった人物であり、強風に耐える草木のようにその忠心が際立つと評価した。

閏月 日食

  • 閏月庚辰朔、日食があった。

三月 帝王の文章集は不要とする

  • 辛亥、著作佐郎の鄧世隆が太宗の文章を集めたいと願い出た。
  • 太宗は、民に益する詔令なら史書が記すだけで不朽であり、無益な文章を集めても意味はないと述べた。
  • 梁の武帝父子、陳後主、隋煬帝はいずれも文集を残したが、滅亡は防げなかったとして、君主にとって重要なのは文才ではなく徳政だとした。

三月 皇孫誕生の宴と魏徴の再諫

  • 丙子、皇孫誕生を祝い、五品以上を東宮で宴した。
  • 太宗は、天下草創には房玄齢、貞観以来の過失是正には魏徴の功が大きいとして、二人に佩刀を賜った。
  • その席で太宗が、今の自分の政治は往年と比べてどうかと尋ねると、魏徴は、威徳の及ぶ広さは初年より増したが、人々の悦服は及ばないと答えた。
  • 太宗が理由を問うと、魏徴は、治まっていないことを憂えていた頃は徳義が日々新しく、今は既に治まったと安心しているからだと述べた。
  • さらに、昔は諫言を積極的に導き、途中までは喜んで受け入れていたが、最近は勉強して従うだけで不機嫌さが見えると指摘した。
  • 元律師・孫伏伽、柳雄、皇甫徳参の事例を挙げ、諫言への応じ方の変化を具体的に説明した。
  • 太宗は、自分では気づきにくいことだと言い、魏徴にしか及ばない指摘だと認めた。

五月 虞世南の死

  • 壬申、弘文館学士の虞世南が死去した。太宗は深く悲しんだ。
  • 太宗は虞世南について、外見は温和だが内実は忠直であり、徳行・忠直・博学・文辞・書法の五つに卓越していたと賞賛した。

秋七月 高士廉を右僕射に

  • 癸酉、吏部尚書の高士廉を右僕射に任じた。

七月―九月 吐蕃の松州侵攻

  • 乙亥、吐蕃が弘州に侵入した。
  • 八月、霸州の山獠が反乱を起こし、刺史の向邵陵らを殺害した。
  • もとは太宗が使者の馮徳遐を吐蕃に派遣していた際、吐蕃は突厥や吐谷渾が公主を娶っていることを聞き、使者を長安に随行させて求婚したが、すぐには許されなかった。
  • 使者は帰国後、賛普の棄宗弄讃に、唐は最初は厚遇し婚姻も約したが、吐谷渾王の中傷で話が崩れたと伝えた。
  • 弄讃はこれを怒って吐谷渾を攻め、さらに党項・白蘭の諸羌を破り、二十余万を率いて松州西境に進出した。羌族の刺史数名も寝返った。
  • 太宗は侯君集・執失思力・牛進達・劉簡らに歩騎五万を率いさせて討たせた。
  • 九月辛亥、牛進達が先鋒として松州城下で吐蕃を急襲して破り、千余を斬った。弄讃は恐れて退き、謝罪とともに再度の婚姻を求めたため、太宗はこれを許した。

九月 創業と守成の難易

  • 甲寅、太宗は侍臣に、天下を創業するのと守成するのとではどちらが難しいかと問うた。
  • 房玄齢は、群雄と角逐して勝ち抜く創業が難しいと述べた。
  • 魏徴は、帝王は多く艱難の末に国を得ても安逸の中で失うので、守成が難しいと主張した。
  • 太宗は、房玄齢は共に命がけで天下を取ったので創業の難を知り、魏徴は共に天下を安んじながら驕奢や油断を恐れているので守成の難を知るのだと総括したうえで、創業は過去のことであり、今後は守成に慎重であるべきだと述べた。
  • 房玄齢らは、これこそ天下の福だと拝謝した。

九月 薛延陀の勢力分割

  • 頡利可汗滅亡後、北方が空白となると、薛延陀の真珠可汗は都尉揵山北・独邏水南に牙帳を置き、勝兵二十万を有するまでになった。
  • 太宗はその強大化を恐れ、二人の子に南北二部を分けて小可汗とし、それぞれに鼓と纛を賜って、表向きは優遇しつつ内実は勢力を分けた。

冬十月―十二月 各地の獠反乱と飛騎整備

  • 乙亥、巴州の獠が反乱した。
  • 己卯、太宗は始平で狩猟し、乙未に帰京した。
  • 鈞州でも獠が反乱し、桂州都督の張宝徳が平定した。
  • 十一月丁未、玄武門に左右屯営飛騎を置き、諸将軍に統率させた。さらに、とくに勇健で騎射に秀でた者を選んで「百騎」と号し、五色の袍を着せ、駿馬に虎皮の鞍覆いを用い、行幸に従わせた。
  • 己巳、明州の獠も反乱し、交州都督の李道彦がこれを平定した。
  • 十二月辛巳、上官懐仁が壁州で反乱した獠を大破し、男女一万余を捕虜とした。

この年の人物と西突厥の分裂

  • この年、給事中の馬周を中書舎人に任じた。岑文本は、馬周は古今の事例を自在に引き、要点を簡潔にまとめる才能があり、一字も増減できないほどだと賞賛した。
  • 霍王元軌は読書を好み、慎み深く振る舞った。徐州刺史時代、処士の劉玄平と平民として交わり、玄平は「欠点がないので長所だけを挙げられない」と評した。
  • 一方、西突厥では咥利失可汗が国を十部に分け、各部に酋長を置いて「十箭」「十姓」と称した制度があった。
  • しかし咥利失は人心を失い、臣下の統吐屯に襲われて敗れ、焉耆へ逃れた。のち統吐屯が殺され、欲谷設も敗れたが、西部ではついに欲谷設を乙毗咄陸可汗として立てた。
  • 咄陸と咥利失は大戦して国を二分し、伊列水を境界とした。さらに処月・処密が高昌と結んで焉耆を攻め、五城を奪って人々を略奪し去った。