資治通鑑唐紀九 太宗文武大聖大廣孝皇帝上 貞觀 四年 630年

正月 李靖の定襄奇襲

  • 正月、李靖は驍騎三千を率い、馬邑から悪陽嶺に進屯し、夜襲して定襄を破った。
  • 頡利可汗は唐が全国的な大軍を動かさずに李靖の孤軍が至るとは予想せず、部衆は日に何度も驚き、牙帳を磧石へ移した。
  • 李靖はさらに間者を放って頡利の側近の離間を図り、その結果、康蘇密が隋の蕭后と煬帝の孫楊政道を連れて降った。
  • 以前、蕭后へ密かに通じる中国人がいるとの訴えがあったが、中書舍人楊文瓘が取り調べを請うたのに対し、太宗は過去の混乱期のことを今さら追及する必要はないとして退けた。
  • 李世勣も雲中から出て白道で突厥を破った。

二月 陰山の大破と頡利の崩壊

  • 2月己亥、太宗は驪山温湯に行幸した。
  • 甲辰、李靖は陰山で頡利可汗を大破した。
  • 先に頡利は鉄山へ逃れ、なお数万の残兵を保っていた。執失思力を派遣して謝罪し、全国を挙げて内附し、自らも入朝すると申し出た。太宗は鴻臚卿唐儉らを送って慰撫し、李靖には兵を率いて迎えさせた。
  • しかし頡利は表向きは恭順でも内心は迷っており、草が青く馬が肥えるのを待って漠北へ逃げるつもりだった。
  • 李靖と李世勣は白道で合流し、今こそ降伏で油断している敵を精騎一万で急襲すれば、戦わずして擒にできると決断した。張公謹は、詔使が現地にいる以上攻撃はどうかと疑問を呈したが、李靖は韓信が酈食其の説降直後に斉を破った先例を引いて押し切った。
  • 李靖は夜発し、李世勣も続いた。蘇定方が前鋒二百騎で霧中を進み、牙帳近くで敵を急襲すると、頡利は千里馬で逃走し、突厥軍は総崩れとなった。
  • 唐儉は辛くも脱出し、李靖は万余の首級を挙げ、男女十余万を俘え、家畜数十万を得た。隋の義成公主を殺し、その子疊羅施を捕えた。
  • 頡利はなお万余人を率いて磧を越えようとしたが、磧口に陣した李世勣に阻まれ、諸酋長も続々と降った。李世勣は五万余口を虜にして還り、唐の勢力圏は陰山の北から大漠にまで及んだ。

二月末から三月 凱旋と天可汗

  • 丙午、太宗は宮へ還り、甲寅、突厥平定を祝して大赦を行った。
  • 温彦博を中書令、王珪を侍中、戴胄を戸部尚書・参預朝政、蕭瑀を御史大夫・参議朝政とした。
  • 3月戊辰、突厥の阿史那思摩を右武候大将軍とした。
  • 四夷の君長たちはこぞって太宗に「天可汗」の号を奉ろうと請い、太宗は自分は大唐天子であるのにさらに可汗の事まで行うのかと言ったが、群臣と四夷がそろって万歳したため、以後、西北の諸君長へ与える璽書では「天可汗」を用いるようになった。

三月 頡利の捕縛

  • 庚午、思結俟斤が四万を率いて降った。
  • 丙子、突利可汗を右衛大将軍・北平郡王とした。
  • 頡利は敗走して蘇尼失を頼り、吐谷渾へ逃げようとしたが、任城王道宗が逼迫し、蘇尼失に頡利を差し出させた。
  • 頡利は夜のうちに数騎で荒谷に逃れたが、蘇尼失が追って捕えた。
  • 庚辰、張宝相が沙鉢羅営を急襲して頡利を京師に送った。蘇尼失もまた部衆を挙げて降り、漠南は空白となった。

杜如晦の死

  • 蔡成公杜如晦は病篤く、太宗は皇太子を遣わして問疾させ、自らも臨んだ。
  • 甲申、杜如晦が死去すると、太宗は良い物を得るたびに彼を思い、その家へ賜ろうとした。久しくのちも房玄齢に向かい、今は君だけが残り、杜如晦に会えないのが悲しいと涙した。

四月 頡利の献俘と高祖の歓喜

  • 4月戊戌、太宗は順天楼に御し、文物を盛んに陳列して頡利を引見した。
  • 太宗は、父祖の業を頼みながら淫虐を尽くしたこと、盟約を破ったこと、好戦によって屍を野にさらしたこと、唐の民を害したこと、赦されながら来朝を延引したことの五罪を数え上げた。
  • ただし便橋以来、大規模な寇掠を再開しなかったことを理由に死を免じ、太僕に館して手厚く扶持させた。
  • 上皇はこの報を聞き、「漢高祖も白登の辱を雪げなかったのに、我が子は突厥を滅ぼした」と歓び、太宗や諸王・妃主・貴臣を大安宮凌烟閣に集めて宴を開いた。酒が進むと上皇自ら琵琶を弾き、太宗は起って舞い、公卿が次々に寿を奉じ、夜に及んだ。

突厥処分をめぐる大論争

  • 突厥が滅ぶと、その部落の一部は北の薛延陁へ、また一部は西域へ走ったが、唐に降った者も十万口ほどいた。
  • その処置をめぐって朝議が開かれた。
  • 多くの朝士は、古来北狄は中国の患であるから、すべて河南・兗豫の間へ移して部落を分散し、耕織を教えれば、塞北を永く空にできると論じた。
  • 顔師古は、突厥・鉄勒は古来しばしば服属させにくかった勢力だが、いま臣属させた以上は黄河北へ置き、酋長を分立させて各部を領せしめれば永く患いがないとした。
  • 李百薬は、突厥は一国といっても実態は多部族の集合体なので、各部にそれぞれ君長を立て、互いに臣属させず、阿史那氏を存続させるにしても本族に限るべきであり、定襄に都護府を置いて節度するのが長策だと述べた。
  • 夏州都督竇静は、戎狄は禽獣のような性で仁義では教えられず、本土への執着も強いので、中国内へ置くのは害が多いとし、王侯の号と宗室女の婚姻で恩を示しつつ、土地と部落を分けて弱めるべきだと論じた。
  • 温彦博は、兗豫へ移すのは物性に背くとして、後漢の南匈奴の故事にならい、塞下に置いて部落を保全し、土俗に従わせ、中国の藩屏とするべきだと主張した。
  • 魏徴は反対し、突厥は百姓の仇であり、今は弱いから服しても、年を経て繁殖すれば必ず腹心の病となる、晋初の諸胡雑居の前例が明らかな鑑だと論じた。
  • 温彦博はなお、王者は万物を受け入れるべきであり、教化すれば数年後には我が民になる、酋長を宿衛に入れれば後患はないと反論した。
  • 太宗は最終的に温彦博の策を採用し、東は幽州、西は霊州に至る間に配置した。突利旧地には順・祐・化・長四州都督府、頡利旧地には六州を置き、左に定襄都督府、右に雲中都督府を設けて統轄させた。

五月 突利・思摩らの処遇

  • 5月辛未、突利を順州都督とし、部落の官を率いさせた。太宗は、祖の啓民は隋に奔って大可汗となったが、その子始畢はかえって隋の患いとなり、天道はそれを容れず今日の乱亡を招いたと説き、自分が突利を可汗に立てないのはその前例を戒めるためだと諭した。
  • 壬申、蘇尼失を懐徳郡王、阿史那思摩を懐化郡王とした。思摩は諸部が頡利を棄てても最後まで従い、ともに捕らえられたので、その忠を賞したもので、やがて北開州都督として頡利旧衆を統べさせた。
  • 丁丑、史大奈を豊州都督とした。
  • その他の酋長も来れば将軍・中郎将に任じられ、朝廷に列する五品以上の者が百余人に達し、長安に入居した者もほぼ一万家にのぼった。

五月から六月 訴訟制度と李靖への讒言

  • 辛巳、今後、尚書省の裁決に不服の者は東宮で太子に上啓し、なお不服なら奏聞する制度とした。
  • 丁亥、蕭瑀は、李靖が頡利の牙帳を破った際に軍紀が乱れ、珍宝が乱兵に掠め取られたと劾奏した。
  • 太宗はいったん李靖を厳しく責めたが、後に「隋の史万歳は可汗を破っても功を賞されず罪で殺されたが、自分はそうはしない」と述べ、李靖の功を録し罪を赦して左光禄大夫とし、絹千匹と食邑を加えた。
  • さらに日を置いて、「前に人が讒したが、今は真相がわかった」として、改めて絹二千匹を賜った。

林邑・北方諸州

  • 林邑が火珠を献じたが、表文の辞が不順だとして討伐を求める声に対し、太宗は、好戦は亡国の道であり、隋煬帝と頡利可汗を見ても明らかだ、小国を攻めて勝っても武ではないと退けた。
  • 6月丁酉、阿史那蘇尼失を北寧州都督、史善応を北撫州都督、壬寅には康蘇を北安州都督とした。

六月 洛陽宮修築の中止

  • 乙卯、洛陽宮修築のため卒を発した。
  • 給事中張玄素は上書して諫め、洛陽は関中ほど形勝ではなく、しかも今は突厥を中国内に処置したばかりで憂慮すべきときに、宮室を先に営むのは急務ではないと論じた。
  • また、隋が遠方から大木を運び、巨大な費用と人力を費やした様子を挙げ、陛下はかつて隋宮の宏侈を破却したのに、今またそれを效うのはおかしい、現下の国力でこれを行えば煬帝より悪くなる恐れもあると厳しく述べた。
  • 太宗は一時「自分は煬帝や桀紂に劣るのか」と問うたが、張玄素は役をやめなければ乱に帰する点で同じだと答えた。
  • 太宗は深く感じ入り、房玄齢にももっともな意見だと言って、工事をただちに停止し、張玄素に彩二百匹を賜った。

七月 隋文帝評

  • 7月甲子朔、日食があった。
  • 乙丑、太宗は房玄齢・蕭瑀に隋文帝をどう評するか尋ねた。二人は、文帝は勤政で、朝会は日昃に及ぶこともあり、励精の主であったと答えた。
  • 太宗は、それは一面しか見ていないとして、文帝は明察を好みながら実は不明で、何事も自分で決して群臣に任せなかったため、天下万機を一人で裁ききれるはずもなく、群臣は顔色をうかがって受け身になり、愆違があっても争えなかった、それが二世で亡んだ理由だと論じた。
  • 自分は天下の賢才を百官に置き、宰相に審議させたうえで奏聞させ、賞罰を明らかにすることで天下を治めるのだと述べ、百司に対し、今後は詔勅に不便があれば必ず執奏し、阿従してはならぬと命じた。

七月以後 東宮三少と蕭瑀の退場

  • 癸酉、李綱を太子少師、蕭瑀を太子少傅とした。李綱は足病があったので、歩輿を賜って閣下まで乗ることを許され、たびたび禁中に召されて政事を問われた。太子も毎回親しく拝した。
  • 先に蕭瑀は宰相とともに朝政を議したが、気性が強く弁舌も鋭いため、房玄齢らと折り合い難く、また彼らの些細な過ちを弾劾したので、太宗はついに重用しなくなった。
  • こうして蕭瑀は御史大夫を罷めて太子少傅となり、朝政から退いた。

西突厥招慰策の中止

  • 西突厥の種落が伊吾に散在したため、太宗は李大亮を西北道安撫大使として磧口に糧を蓄え、来者を賑給し、使者を往来させて招慰させた。
  • しかし李大亮は、中国を本根、四夷を枝葉にたとえ、秦漢や隋の失敗を引いて、河西諸州はようやく農作再開にこぎつけたばかりで、この役を負わせれば民が疲弊する、伊吾は砂漠であり、内附を願う者だけを羈縻して塞外の藩屏とすれば十分だと上言した。
  • 太宗はこれに従って招慰策をやめた。

八月から十二月 服色・北辺経営・西域と朝貢

  • 8月丙午、常服の色を品階によって区別し、三品以上は紫、四・五品は緋、六・七品は緑、八品は青とし、婦人は夫の色に従わせた。
  • 甲寅、李靖を右僕射とした。李靖は沈厚で、時宰との会議でもおだやかで雄弁を弄しなかった。
  • 突厥滅亡後、営州都督薛万淑が契丹の酋長貪没折を遣わして東北諸夷を説得したところ、奚・霫・室韋など十余部が内附した。
  • 戊午、欲谷設が降った。彼は突利の弟で、頡利敗北後に高昌へ走っていたが、突利が唐に厚遇されていると聞いて来降した。
  • 9月戊辰、伊吾城主が入朝し、頡利滅亡に伴って所属七城を挙げて降ったので、その地に西伊州を置いた。
  • 思結部落が飢えていたため、朔州刺史張儉が招集した。のち勝州都督に移ると、その部が叛くとの報があったが、張儉は単騎で深入りして説得し、代州へ移住させた。営田を勧めると豊作となり、さらに和糴で辺儲を充実させた。
  • 丙子、南蛮の地を開いて費州・夷州を置いた。
  • 己卯、太宗は隴州へ行幸した。
  • 11月壬辰、侯君集を兵部尚書・参議朝政とした。
  • 12月甲辰、鹿苑で狩猟し、乙巳に還宮した。
  • 甲寅、高昌王麴文泰が入朝し、西域諸国も彼に従って入貢したいと望んだ。太宗は高昌の臣厭怛紇干を迎使として出そうとした。
  • しかし魏徴は、光武帝が西域経営を慎んだ先例を挙げ、天下初定で辺民も疲弊している今、賓客として厚遇すれば害が多い、商人としての往来と互市を許す程度でよいと諫めた。
  • 使者はすでに出発していたが、太宗はすぐに呼び戻した。

王珪の人物月旦と貞観の治

  • 宴席で太宗が王珪に群臣の品評を求め、自分と房玄齢・李靖・温彦博・戴胄・魏徴らを比べさせた。
  • 王珪は、自分は多少の長所はあるが、国家への孜孜たる奉仕は房玄齢に、出将入相は李靖に、敷奏出納は温彦博に、繁劇処理は戴胄に、諫争の任は魏徴に及ばないと率直に述べた。太宗も群臣もその確かな議論を認めた。
  • 太宗は、即位初めに民は教化しにくいのではと語った際、魏徴が「乱後の民は苦しみを知るからこそ教えやすい」と答えたことを回想した。
  • 封徳彝は、三代以後は人心が澆薄となったから法や権道を用いねばならず、魏徴の理想論に従えば国を誤ると反論した。
  • 魏徴は、黄帝・顓頊・湯・武王もみな大乱の後に太平を致したのであり、人が今では化け物に変わったわけではない以上、教化は可能だと主張し、太宗は結局これに従った。
  • この年、天下は大いに豊作となり、流民も故郷へ戻った。米価は一斗三、四銭ほどとなり、死刑も終年わずか三十九人であった。
  • 東は海、南は五嶺に至るまで、外戸を閉めず、旅人は糧食を携えずとも道中で得られるほどであった。
  • 太宗は長孫無忌に、当初は威権独断や四夷征討を勧める上書が多かったが、魏徴だけは武をおさめ文を修めよと勧め、その言葉どおりにして頡利を擒にできたのだと語った。
  • 魏徴はこれを太宗の威徳によると謙辞したが、太宗は、自分が魏徴を任じ、魏徴がその任に称えたのだから、その功は君臣双方にあると答えた。
  • 房玄齢が府庫の甲兵は隋よりはるかに勝ると奏しても、太宗は、煬帝に兵備が欠けていたわけではない、百姓を安んずることこそ真の甲兵だと述べた。

その他の諸国・人物

  • 太宗は秘書監蕭璟に、隋の時代に皇后をしばしば見たかと尋ねた。璟は、煬帝のもとでは近親ですら容易に会えなかったと答えた。魏徴も、煬帝が斉王を絶えず疑って中使に探らせたことを挙げ、父子間すらその有様だったと語った。太宗は、今自分が楊政道を遇するのは、煬帝が斉王に対したよりはるかにましだと笑った。
  • 西突厥では、乙毗鉢羅肆葉護可汗が諸部に支持され、莫賀咄可汗は金山へ逃げて泥熟設に殺されたため、諸部は肆葉護を大可汗として推戴した。