資治通鑑唐紀八 太宗文武大聖大広孝皇帝上之上 貞観 元年 627年

正月 改元と文武観

  • 春正月乙酉、元号を貞観と改めた。
  • 丁亥、群臣を宴し、「秦王破陣楽」が奏された。太宗は、これはかつて自分が征戦を委ねられた時、軍中から生まれた曲であり、文徳のゆるやかな雅楽ではないにせよ、この功業の由来を忘れたくないと語った。
  • 封徳彝が、陛下の神武は文徳など比べものにならぬと持ち上げると、太宗は、乱を平らげるには武、守成には文が必要であり、文を武に劣るというのは誤りだと戒めた。

正月 諫官随従・律令再検討

  • 己亥、中書・門下、および三品以上が入閤して政事を議する際には、必ず諫官を同席させ、誤りがあればただちに諫めさせる制度を定めた。
  • 吏部尚書長孫無忌らに学士・法官を加え、律令の再検討を命じた。
  • その過程で、絞刑五十条を足の切断刑に改めようとしたが、太宗は肉刑の復活をなお酷いと感じた。
  • 蜀王府法曹参軍の裴弘献が、これを加役流、すなわち三千里の流刑と三年の作役に改めるよう建議し、採用された。

正月 戴胄の執法

  • 戴胄が忠清で公正だとして大理少卿に抜擢された。
  • 太宗は、選人が資蔭を詐称することが多いので、自首すれば許し、自首しなければ死罪とする勅を出した。
  • まもなく詐称が発覚した者が出て、太宗は誅しようとしたが、戴胄は法令によれば流罪が相当だと主張した。
  • 太宗が、勅命を曲げれば君主の信用が損なわれるではないかと怒ると、戴胄は、一時の怒りで出た勅よりも、国家が天下に示す大法こそ大きな信であり、小さな憤りを忍んで大きな信用を守るべきだと答えた。
  • 太宗は納得し、戴胄の執法を高く評価した。

正月 人材登用の考え方

  • 太宗が封徳彝に賢者を推挙するよう求めていたが、長く推薦がなかったため、その理由を問いただした。
  • 封徳彝は、世に奇才がいないからだと答えた。
  • 太宗は、君子が人を使うのは器を用いるのと同じで、それぞれの長所を取るのであり、古の善政が異代から人材を借りたわけではない、ただ見抜けないだけだと述べ、天下の人材全体を否定するなと戒めた。封徳彝は恥じて退いた。

正月 御史の権限と宰相の態度

  • 御史大夫杜淹は、諸司の文案に遅滞や誤りがあるかもしれないから、御史を各司に派遣して検校すべきだと奏した。
  • 太宗が封徳彝に意見を求めると、徳彝は、各官司には本来それぞれ職掌があり、過失があれば御史は弾劾すればよいのであって、全官司を巡って瑕疵を探すのは繁雑すぎると述べた。
  • 杜淹は反論せず、自分より相手の意見が大体を得ているなら従うべきだと答えた。太宗はこれを喜んだ。

正月 長孫順徳・李芸の反乱

  • 右驍衛大将軍長孫順徳が絹の贈り物を受け取ったことが発覚した。
  • 太宗は、順徳が国家に益するなら府庫を共にしてもよいほどなのに、なぜこの程度の不正をするのかと嘆いたが、その功を惜しみ、罪には問わず、ただ殿庭でわざと絹数十匹を賜って恥をかかせた。
  • 大理少卿胡演が、枉法受財は赦すべきでないと諫めると、太宗は、もし羞恥心があればこの辱めは刑罰以上であり、羞恥を知らぬなら獣と同じで、殺しても益はないと答えた。
  • 辛丑、天節将軍・燕郡王李芸が涇州で反いた。
  • 李芸は功を頼んで驕慢で、かつて秦王の側近を理由なく殴打し、高祖の怒りを買って投獄された過去があった。太宗即位後も不安を抱え、曹州の妖巫李五戒にそそのかされて、密勅を奉じて入朝すると偽り挙兵した。
  • 兵部尚書長孫無忌らが討伐に向かうと、豳州治中の趙慈皓と統軍楊岌が内応を図ったが露見し、慈皓は捕らえられた。楊岌が城外から攻撃すると李芸の軍は潰走した。
  • 李芸は突厥へ逃れようとしたが、烏氏で側近に斬られ、首級が長安に送られた。弟の李寿も利州都督であったが連座して誅された。

二月 州県併省と十道

  • 隋末以来、群雄が地を分かって割拠し、唐も帰附者を厚遇するため州県を濫置していたため、官ばかり多く民が少ない弊が生じていた。
  • 二月、太宗は大規模な併省を行い、山川や交通の便に基づいて全国を十道に分けた。すなわち、関内・河南・河東・河北・山南・隴右・淮南・江南・剣南・嶺南である。

三月 皇后の親蚕

  • 三月癸巳、皇后が内外の命婦を率いて親蚕の礼を行った。

閏月 三月 日食と人材諮問

  • 閏月癸丑朔、日食があった。
  • 壬申、太宗は太子少師蕭瑀に、若いころから弓を好み、良弓だと思っていたものを弓工に見せたら、木心がまっすぐでないので良材ではないと言われ、自分の鑑識眼の不完全さを悟ったと語った。
  • 四方を武力で平定した自分でさえ弓について見抜けないのだから、まして天下万機をどうしてすべて知り尽くせようかとして、在京五品以上の官人に中書内省で交代宿直させ、しばしば召し出して民間の苦しみや政事の得失を問うことにした。

四月 長楽王幼良の処断

  • 涼州都督の長楽王李幼良は粗暴で、取り巻きの百余人も無頼であったため、民を害し、羌胡との交易でも問題が多かった。異志ありとの告発もあった。
  • 太宗は中書令宇文士及を急派して交代・調査を命じたが、李幼良の側近は彼を北虜へ連れ去ることや、宇文士及を殺して河西を占拠する計画まで立てていた。
  • 別の告発で事前に発覚し、夏四月癸巳、李幼良は死を賜った。

五月 苑君璋の降伏

  • 五月、苑君璋が衆を率いて降った。
  • もとは突厥を引き入れて馬邑を奪い、高満政を殺した後、恒安に拠っていたが、部下の多くが中国人で、次々に離反した。いったん高祖に降って北辺防衛で罪を償いたいと願い、誓書と金券も与えられた。
  • しかし頡利可汗の誘いと郭子威の説得を受け、なお突厥を頼るべきだと考えて、高祖の使者元普を捕らえて頡利に送ってしまい、以後たびたび突厥とともに侵入した。
  • このころ頡利の政情が乱れ、頼みにならぬと見た苑君璋は、ついに帰降した。太宗は彼を隰州都督・芮国公に任じた。

五月 佞臣判別法の却下

  • ある上書者が、佞臣を見分けるには、陛下が群臣との対話の中でわざと怒ってみせ、道理を曲げずに言い張る者を直臣、顔色をうかがって従う者を佞臣と見ればよいと提案した。
  • 太宗は、君は水源で臣は流れであり、源が濁っていて流れの清らかさを求めることはできない、君自身が偽りを用いてどうして臣下の率直さを求められようかと退けた。
  • また、前代の帝王が権謀や小細工で臣下に接するのを自分は常に恥じていると述べ、この策を採用しなかった。

六月 封徳彝の死と蕭瑀の復帰

  • 辛巳、右僕射・密明公封徳彝が薨じた。
  • 壬辰、太子少師蕭瑀を再び左僕射とした。

六月 周秦論・旱害救済

  • 戊申、周と秦の国運の長短を論じた。蕭瑀は、紂は無道で武王が討ち、六国は無罪なのに始皇が滅ぼしたのだから、天下を得た事情が異なると答えた。
  • 太宗は、周は天下を得てから仁義を増し、秦は得てから詐力を増した、その違いが国運を分けたのだと説いた。奪取は逆でもできるが、保持は順でなければならないというのである。
  • 山東地方で大旱があり、各地に賑恤を命じ、その年の租賦を免除した。

七月 長孫無忌を宰相へ・皇后の牽制

  • 七月壬子、長孫無忌を吏部尚書から右僕射に任じた。
  • 無忌は太宗と布衣のころからの交誼があり、皇后の兄でもあり、玄武門の変での佐命の功もあって、群臣中もっとも厚遇された。
  • ただし文徳皇后は、自分は後宮にあってすでに十分な栄寵を受けており、兄弟まで国政を執れば呂氏・霍氏・上官氏のような禍を招きうるとして、しきりに無忌の登用を抑えようとした。
  • 太宗は聞き入れず、ついに無忌を用いた。

七月 突厥衰退と対外方針

  • 頡利可汗は中国人の趙徳言を重用し、旧俗を改めて政令を煩雑・苛酷にしたうえ、突厥本族よりも諸胡を信用した。胡人は貪欲で反覆が多く、兵争が年中やまず、加えて大雪・飢饉・重税が重なったため、内外の怨みを集め、諸部の離反が相次いだ。
  • 太宗は蕭瑀・長孫無忌に、いま突厥を討つべきかと問うた。蕭瑀は新たな盟約を破ってでも好機を取るべきだとし、長孫無忌は、相手が境を犯していない以上、信を棄てて民を労するべきではないと答えた。
  • 太宗は無忌の意見に従って、討伐を見合わせた。

七月 封建論

  • 太宗が国を長く保つ策を公卿に問うと、蕭瑀は三代の封建は長く続き、秦の孤立は短命だったとして、封建を主張した。
  • 太宗もこれに一理あると考え、このころから封建制を復活させる議論が起こった。

八月 高士廉の左遷

  • 黄門侍郎の王珪が密奏をしたが、侍中高士廉がそれを握りつぶして報告しなかったことを、太宗は知った。
  • 八月戊戌、高士廉を安州大都督に出した。

九月 日食と宇文士及の罷免

  • 九月庚戌朔、日食があった。
  • 辛酉、中書令宇文士及を罷めて殿中監とし、御史大夫杜淹を参預朝政とした。こうした、宰相本官でない者の政務参加はここから始まる。

九月 杜淹と邸懐道

  • 杜淹は刑部員外郎の邸懐道を推挙した。
  • 太宗がその行いと才能を尋ねると、杜淹は、煬帝が江都行幸の前に諸官へ去就を問うた際、吏部主事だった懐道だけが反対を明言したと答えた。
  • 太宗が、それほど是とするならなぜ自分は諫めなかったのかと問い詰めると、杜淹は、隋でも王世充のもとでも地位や情勢を言い訳にしたが、太宗は、立場が軽くても朝に立った以上諫めるべきであり、賢君でも暴君でも、諫めずに身だけ安全ということはありえないと厳しく詰めた。
  • そして「今日なら諫めることができるか」と問われた杜淹は、命を尽くすつもりだと答え、太宗は笑った。

九月 王君廓の反叛未遂

  • 辛未、幽州都督王君廓が反乱を企てたが、逃走中に殺された。
  • 王君廓は幽州で驕慢・不法が多く、入朝を命じられた際、長史李玄道から房玄齢宛ての私信を勝手に開封し、草書が読めず、自分の罪を告発する書だと思い込んだ。
  • 渭南まで来て驛吏を殺して逃げ、突厥へ向かおうとしたが、野人に殺された。

九月から十月 嶺南の馮盎問題

  • 嶺南の酋長馮盎・談殿らは互いに攻め合って久しく入朝せず、諸州から馮盎反乱の報告が十数度に及んだ。
  • 太宗は藺謩らに江・嶺の数十州兵を発して討たせようとした。
  • 魏徴は、中国がようやく安定したばかりで、嶺南は瘴癘・険遠の地だから、大軍を長く留めるべきでないうえ、馮盎はまだ反乱の形を明確に示していないと諫めた。
  • さらに、もし本当に反乱なら数年も州境を越えずに済むはずがなく、朝廷が使者を送って誠意を示さないため、彼が疑われていることを恐れて入朝できないだけだと論じた。
  • 太宗は出兵をやめ、十月乙酉、員外散騎侍郎李公掩を持節使として派遣し、慰諭させた。
  • 馮盎は子の智戴を使者に随わせて入朝させた。太宗は、魏徴が一介の使者で嶺表を安んじた功は十万の軍に勝るとして、絹五百匹を賜った。

十二月 蕭瑀再罷免・李孝常らの謀反

  • 十二月壬午、左僕射蕭瑀が罪を得て罷免された。
  • 戊申、利州都督李孝常らが謀反し、誅された。
  • 孝常は入朝後に京師に留まり、右武衛将軍劉徳裕、その甥の統軍元弘善、監門将軍長孫安業らと、符命を口実に宿衛兵で乱を起こそうとした。
  • 長孫安業は皇后の異母兄で、酒好きの無頼漢だった。父長孫晟の死後、無忌や皇后が幼かったため、彼は早くに母方へ退けられていた。
  • 太宗即位後、皇后は旧怨を忘れて厚遇していたが、事件発覚後、涙ながらに、安業が自分に慈愛がなかったことは天下周知であり、これを極刑にすれば自分の意趣返しと見られて朝廷の傷になると訴えた。
  • そのため安業は死一等を減じられ、巂州へ流された。

年末 魏徴と「形迹を存す」の議論

  • ある者が、右丞魏徴は親戚を私していると告発した。太宗は温彦博に調査させたが、事実はなかった。
  • それでも温彦博は、魏徴は外形上の嫌疑を避ける配慮に欠けるので責める余地はあると述べた。
  • 太宗はそれを受けて魏徴を戒め、「今後は形迹を存せよ」と命じた。
  • 後日、魏徴は、君臣は同体であり、上下ともに形跡ばかりを気にしていては国の興亡すら危うくなる、自分にはこの詔を奉じられないと述べた。太宗は即座に非を認めた。
  • 魏徴はさらに、「良臣」と「忠臣」は違うと説いた。稷・契・皋陶のように君臣が心を一つにしてともに栄えるのが良臣であり、龍逢・比干のように面折して身を滅ぼし国も亡ぶのが忠臣だと言い、太宗は喜んで絹五百匹を賜った。

年末 太宗の君臣論と諫争の奨励

  • 太宗は、神采が厳しく、群臣が奏事で委縮しがちなのを知っており、いつも言葉や顔色を和らげて諫言を引き出そうとした。
  • 公卿に対しては、人が自分の姿を見るには鏡が必要であり、君主が自らの過失を知るには忠臣が必要だと説き、隋の虞世基のように阿諛で身を保とうとしても、君が滅びれば臣も保てないと戒めた。
  • 秦王府旧兵だけを宿衛に充て、他を武職から外すべきだという意見には、天下を家とする以上、旧部以外に信用できぬ者ばかりだという発想は徳を狭めるとして退けた。

年末 節倹の表明

  • 太宗はまた、禹が民と利をともにしたから山を穿ち水を治めても怨まれず、始皇帝が人を苦しめて宮室を営んだから怨乱を招いたのだと述べた。
  • 自分も一殿を造るための材木がそろっていたが、秦を鑑みて中止したといい、王公以下にもその節倹を体すべきだと命じた。
  • その結果、以後二十年間、風俗は質素で、公私ともに豊かになったという。

年末 中書門下の相互牽制

  • 太宗は黄門侍郎王珪に、中書と門下を置くのは互いに検察するためだと語った。
  • 詔勅に過誤があれば門下は駮正すべきであり、論難を重ねてでも妥当な所を求めるべきなのに、近ごろは自分の誤りを指摘されて怨みを結んだり、私怨を避けて誤りと知りつつ正さなかったりする者がいると批判した。
  • それは一人の顔色に従って兆民に深い害を与える亡国の政だとし、煬帝の時代に官僚が皆「賢い身の処し方」と称して迎合した結果、国も家も滅んだことを引き、徇公忘私を命じた。

年末 賄賂と奢侈への戒め

  • 太宗は、西域の商胡が美珠を腹を裂いてまで隠す話を引き、人はそれを愚かだと笑うが、賄賂で法を犯す官吏や、奢侈で国を亡ぼす帝王は、それと何が違うのかと語った。
  • 魏徴は、魯の哀公と孔子の会話を引き、桀・紂こそ自らの身を忘れた者だったと応じた。
  • 太宗は、自分も公卿も力を合わせてそのような笑いものにならぬよう努めるべきだと述べた。

年末 青州の反乱事件の再審

  • 青州で謀反事件があり、州県が支党を大量に逮捕して獄が満ちたため、殿中侍御史の崔仁師が再審に派遣された。
  • 崔仁師は、囚人たちの杻械を外し、飲食や湯沐を与えて慰撫し、首魁十余人のみを罪に問って、他はすべて釈放した。
  • その報告を受けて、朝廷から別の勅使が処刑のため赴こうとした。大理少卿孫伏伽は、助かった者たちが生を欲して崔仁師を恨み、災いが及ぶのではと心配した。
  • しかし崔仁師は、獄を治める者は平恕を本とすべきで、自分の罪責を避けるために冤を見逃すわけにはいかず、万一過って縦免があっても、自分一身で十人の死をあがなえるなら本望だと言った。
  • 後に勅使が再訊問しても、囚人たちは皆、崔仁師の裁きは公平であり、早く死なせてくれと口をそろえ、異論を唱える者は一人もいなかった。

年末 孫伏伽の諫言

  • 太宗は騎射を好んだが、孫伏伽は、天子には九重の門と警蹕があるのは社稷生民のためであり、自ら馬を走らせて射的をするのは、諸王時代の遊びであって天子の事業ではないと諫めた。
  • 太宗は喜び、まもなく伏伽を諫議大夫に任じた。

年末 選人制度の改革

  • 隋代は選人が十一月に集まって春までに帰されるので、日程が窮屈だった。吏部侍郎の劉林甫は、四季を通じて選を受け付け、欠員に応じて注擬する制度を提案し、採用された。
  • 唐初は士大夫が乱離の後で仕進を好まず、官員も不足していたため、州府や詔使が赤牒で補任する例が多かった。
  • この時、それらを廃してすべて尚書省での正式選考に統一し、七千余人が集まったが、劉林甫は各人を適材適所に配し、時人に称賛された。
  • 関中の米価が高かったため、洛州でも分けて選を行わせた。

年末 官員整理

  • 太宗は房玄齢に、官は人数の多さでなく適任者の有無が肝要だと語り、官員の整理を命じた。
  • 房玄齢は文武の官を併省し、六百四十三員を削減した。

年末 隠逸の徴聘と法の公正

  • 隋の旧秘書監・劉子翼は、学問と行いに優れ、友人の過失を面前で責める剛直な人物で、李百薬は「人を叱っても恨まれない」と評していた。
  • この年、朝廷は彼を徴したが、母老を理由に応じなかった。
  • 鄃県令の裴仁軌が門夫を私役したことで、太宗は怒って斬ろうとした。
  • しかし殿中侍御史の李乾祐が、法は陛下と天下が共有するもので、軽罪に極刑では人々が手足の置きどころを失うと諫めたため、死罪は免じられ、李乾祐は侍御史に昇進した。

年末 東西差別の戒め

  • 太宗が、関中人と山東人とで気風に同異があるかを話題にしたところ、殿中侍御史張行成が進み出て、天子は四海を家とする以上、東西の別を口にすべきでない、人に狭量さを示すことになると諫めた。
  • 太宗はその言を善しとし、厚く賞して、以後大政のたびに参与させた。

年末 鉄勒諸部の動揺と突厥の衰亡兆候

  • 突厥が強大になって以来、磧北の鉄勒諸部は分散していたが、薛延陁・回紇・都播・骨利幹・多濫葛・同羅・僕固・拔野古・思結・渾・斛薛・薛結・阿跌・契苾・白霫など十五部が存在し、風俗はおおむね突厥と同じであった。
  • もとは西突厥の曷薩那可汗がこれらを支配していたが、課税が過酷で渠帥百余人を誅したため、諸部は共同で叛き、契苾哥楞や薛延陁の乙失鉢を立てて可汗号を称したこともあった。
  • のちに西突厥勢力が持ち直すと、彼らはいったん可汗号をやめて臣属したが、頡利可汗の政治が乱れると、薛延陁・回紇・拔野古らは再び頡利に叛いた。
  • 頡利は兄の子の欲谷設に十万騎を授けて討たせたが、回紇の酋長菩薩が五千騎で馬鬣山に迎え撃ち、大破した。さらに薛延陁も頡利配下の四設を破り、頡利は諸部を制御できなくなった。
  • 大雪と飢饉で民も家畜も疲弊し、頡利は唐がこの隙につけこむのを恐れて朔州境に兵を進め、「猟だ」と称しつつ備えを固めた。
  • 鴻臚卿鄭元璹が突厥から帰り、羊馬の痩せと民の飢えから見て、三年とたたず滅亡の兆しだと報告した。
  • 群臣はこの機に乗じて攻撃すべきだと勧めたが、太宗は、新しく盟を結んだばかりなのに背くのは不信、災いに付け込むのは不仁、危機に乗じて勝つのは不武だとして、相手に罪が現れてから討つべきだとした。

年末 西突厥と和親未成

  • 西突厥の統葉護可汗は、高平王李道立を伴う真珠統俟斤を遣わし、釘飾りの宝帯と馬五千匹を献じて唐の公主を迎えたいと求めた。
  • しかし頡利は、中国と西突厥が和親するのを望まず、しばしば侵攻したうえ、「唐の公主を迎えるにはわが国を通らねばならぬ」と統葉護に圧力を加えたため、婚姻は成立しなかった。