資治通鑑唐紀四 高祖神堯大聖孝皇帝 武徳 三年 620年

正月 蒲反の平定

  • 将軍秦武通が蒲反の王行本を攻めた。行本は出撃して敗れ、糧も尽き援軍も絶えたため、包囲突破を図ろうとしたが従う者がおらず、城門を開いて降伏した。
  • 皇帝は蒲州へ行幸し、王行本を斬った。
  • 秦王世民も軽騎で蒲州へ赴き、皇帝に謁した。
  • そのころ宋金剛は絳州を包囲しており、皇帝は長安へ帰還した。

李世勣・李商胡、竇建徳陣営で挙兵を図る

  • 李世勣は、竇建徳が河南へ来るのを待ってその陣営を襲い、建徳を殺して父とその地を携えて唐に帰そうと考えた。
  • しかし建徳の妻の出産で出発が遅れ、また曹旦が河南で横暴を働いたため、配下の諸賊は不満を募らせた。
  • 魏郡の賊帥李文相は李商胡と号し、孟津の中洲の城に拠っていた。母の霍氏も騎射に優れ、自ら霍総管と称した。
  • 世勣は李商胡と義兄弟の契りを結び、その母に拝謁した。霍氏は竇氏の無道を嘆き、世勣も一月も経たぬうちにこれを討って唐へ帰るつもりだと答えた。
  • 世勣が去ると、霍氏は李商胡に対し、長引けば変が生じるから待たずに決行せよと促した。
  • その夜、李商胡は曹旦の部将二十三人を酒宴に招いて皆殺しにした。河北側でまだ渡河していなかった高雅賢・阮君明の兵三百も大船に乗せて中流で殺したが、獣医一人だけが泳いで逃げて曹旦に知らせた。
  • こうして曹旦は厳戒態勢を敷き、商胡が挙兵してから世勣に知らせた時には、もはや急襲は難しくなっていた。
  • 郭孝恪は曹旦を襲うべきだと勧めたが、世勣がためらううちに曹旦は備えを整えたため、世勣と孝恪は数十騎で唐へ奔った。
  • 李商胡はさらに二千の精兵で北へ向かい阮君明を破ったが、高雅賢は兵をまとめて退き、これ以上の戦果は得られなかった。
  • 建徳の臣下は李世勣の父李蓋の誅殺を請うたが、建徳は「世勣は唐の臣であり、虜になってなお本朝を忘れぬ忠臣である。父に罪はない」として赦した。
  • 世勣と郭孝恪は長安へ至り、その後曹旦は済州を取り、さらに洺州へ帰った。

二月 潞州・巴蜀方面の騒乱

  • 皇帝は華陰へ行幸した。
  • 劉武周が潞州へ兵を送り、長子・壺関を陥れた。潞州刺史郭子武は防ぎきれず、皇帝は河東王行敏を派遣して援けさせた。
  • しかし行敏と子武は不和で、子武が反くという風聞もあったため、行敏は子武を斬って軍中に示した。
  • 劉武周が再び潞州へ来ると、行敏はこれを撃破した。
  • また開州の蛮族首長冉肇則が通州を陥した。
  • 皇帝は桑顕和らを夏県の呂崇茂討伐に向かわせた。

独孤懷恩の謀反

  • 工部尚書独孤懷恩は、かつて蒲反攻略を長く果たせず損耗も多かったため、皇帝からしばしば詔書で叱責され、怨みを抱いていた。
  • 皇帝が冗談めかして「天子になったのは姑の子に続いて、次は舅の子か」と言ったこともあり、懷恩は独孤氏の一族として密かに自負を強めていた。
  • 彼は配下の元君宝と反乱を謀った。
  • その後、懷恩と君宝は尉遲敬徳の捕虜となり、君宝は唐儉に対し、懷恩が近く大事を起こすはずだったのに早く決断しなかったのでこの辱めを受けたのだと語った。
  • 世民が美良川で敬徳を破ったあと、懷恩は逃げ帰り、再び蒲反攻撃を命じられたが、君宝はまた唐儉に懷恩は王者として死なぬ運を持つなどと語った。
  • 唐儉は懷恩の計画が成就するのを恐れ、尉遲敬徳を説いて劉世讓を唐へ返し、和議を申し込む名目で懷恩の反状を知らせた。
  • そのころ王行本はすでに降っており、懷恩はその城に入っていた。皇帝は河を渡って懷恩の陣に赴こうとし、船に乗りかけていたところ、ちょうど劉世讓が着いた。
  • 皇帝は大いに驚き、天の助けで災いを免れたと述べた。
  • そこで懷恩を呼び寄せたところ、懷恩は露見を知らず小舟で来たので、その場で捕らえて役人に引き渡した。
  • 党与も分かれて捕えられ、懷恩とその一党は誅された。

竇建徳の統治と北方の隋後継政権

  • 竇建徳は李商胡を攻めて殺し、洺州へ帰ると農桑を勧め、国内に盗賊なく、商人が野宿できるほど治安を回復した。
  • 突厥の処羅可汗は楊政道を迎えて隋王に立て、中国から北へ連れ去られていた士民をその配下に組み入れ、百官も隋制に倣って定襄に居させた。衆は万余にのぼった。

三月 官制改正と王世充支配の動揺

  • 劉武周配下の張万歳が浩州へ侵攻したが、李仲文がこれを撃退し、数千を斬捕した。
  • 唐では納言を侍中、内史令を中書令、給事郎を給事中へ改めた。
  • 封徳彝が中書令に任じられた。
  • このころ王世充配下の将帥や州県で唐へ降る者が月を追って相次いだ。
  • 世充は法を苛酷にし、一人が逃亡・反叛すれば家族を皆殺しにし、親族が告発すれば免罪とした。また五家を一保とし、一家が逃げても四隣が気づかなければ連坐で処刑した。
  • そのため殺戮はますます増え、逃亡者も止まず、薪採りでさえ出入りを厳しく制限された。公私ともに窮し、人々は生活できなくなった。
  • 宮城は大獄と化し、疑われた者は家族ともども収監・拷問された。出征する諸将も家族を人質として宮城に置かれ、常時一万人以上が拘禁され、餓死者が日に数十人も出た。
  • さらに台省の官人を十二州の営田使に出すようになり、その任を得た者は天にも昇る思いだった。胡注は、これを王世充滅亡の兆しとして見る。

浩州・石州・信州の動き

  • 行軍副総管張綸が浩州で劉武周軍を破り、千余を斬捕した。
  • 李仲文が石州へ兵を進めると、劉季真は恐れて偽降した。朝廷はこれを受け入れ、季真に李姓を与えて石州総管・彭山郡王とした。
  • 冉肇則がさらに信州へ侵入したが、趙郡公李孝恭は戦いに利なく、李靖が八百を率いて奇襲し、冉肇則を斬って五千余を捕えた。
  • こうして開州・通州を回復し、孝恭はさらに蕭銑の東平王闍提を討って斬った。

四月 益州道行台の設置と宋金剛の崩壊

  • 皇帝は華山を祀り、長安へ帰還した。
  • 益州・利州・会州・鄜州・涇州・遂州の六総管府を隷属させる益州道行台を置いた。
  • 劉武周はしばしば浩州を攻めたが、李仲文に敗れ続けた。
  • 宋金剛軍はついに食糧が尽き、北へ退いた。

羅士信・秦王世民の攻勢

  • 羅士信は慈澗を包囲した。王世充は太子王玄応を派遣して救わせたが、士信は玄応を突いて落馬させ、辛うじて救出させた。
  • 楊士林が顕州道行台尚書令となり、秦王世民には益州道行台尚書令が加えられた。
  • 世民は尋相を呂州で捕捉して大破し、そのまま昼夜兼行で追撃した。
  • 総管劉弘基が、深入りし過ぎるな、兵は疲れ飢えているのでここで壁塁を築き、兵糧が集まってから進むべきだと諫めた。
  • しかし世民は、敵は計窮して走っており、この機を逃せば再起を許すとして、身命を顧みず追撃を続けた。
  • 雀鼠谷では一日に八戦してことごとく勝ち、数万人を斬捕した。世民は二日食をとらず、三日鎧を脱がず、軍中に羊一頭しかなかったが、これを将士と分けて食べた。

介休の決戦と尉遲敬徳の帰順

  • 于筠が宋金剛のもとから逃れてきた。
  • 世民が介休へ進むと、金剛はなお二万を率いて城西門から出て背城の陣を敷いた。
  • 李世勣がまず戦って少し退くと、賊はこれに乗じたが、世民が精騎を率いてその陣後を突いたため、金剛は大敗して三千級を失い、軽騎で逃走した。
  • 世民は数十里追撃して張難堡に至った。堡中では樊伯通・張徳政が立て籠もっていたが、世民が兜を脱いで顔を見せると、守兵は歓声と涙で迎えた。
  • 側近が王は食を断っていると告げたため、濁酒と粗末な飯が献じられた。
  • 尉遲敬徳は残兵を集めて介休を守ったが、世民が任城王道宗と宇文士及を遣わして説得すると、敬徳と尋相は介休・永安を挙げて降った。
  • 世民は敬徳を大いに喜び、右一府統軍に任じ、その旧兵八千を率いさせて諸営に交ぜ置いた。
  • 屈突通は反変を恐れて諫めたが、世民は受け入れなかった。

劉武周・宋金剛の滅亡

  • 劉武周は金剛敗北を聞くと大いに恐れ、并州を棄てて突厥へ逃れた。
  • 宋金剛も残兵を集めて再戦しようとしたが誰も従わず、百余騎で突厥へ逃げた。胡注は、これを薛仁杲・宗羅睺討伐の時と同じく世民の戦略の成果だと評する。
  • 世民が晋陽に到着すると、武周が任じた僕射楊伏念が城を挙げて降った。唐儉は府庫を封じて世民の到着を待った。
  • 武周が得ていた州県はことごとく唐に帰した。
  • まもなく宋金剛は上谷へ逃げようとして突厥に捕えられ、腰斬にされた。
  • 嵐州総管劉六児も介休で斬られ、兄の劉季真は石州を棄てて劉武周のもとへ走ったが、馬邑の高満政に殺された。

苑君璋の諫言と武周の最期

  • 劉武周が南侵した当初、その内史令苑君璋は、唐の主は一州の兵で長安を取り、向かうところ敵がなかったのは天命であり、晋陽以南は道路険阻で、深入りして敗れれば帰還も難しいから、北は突厥と結び南は唐と講和して独立を保つのが上策だと諫めていた。
  • 武周は従わず、のち敗れてから君璋に悔恨を洩らした。
  • 久しくして武周が馬邑へ亡命しようとしたことが露見すると、突厥はこれを殺した。
  • 突厥は苑君璋を大行台として残党を統べさせ、郁射設に兵を督させてこれを助けた。

河南戦線と并州平定の祝賀

  • 黄君漢が西済州で王世充の太子王玄応を破り、史万宝も九曲でこれを破った。
  • 王世充は鄧州を陥した。
  • 皇帝は并州平定を聞いて大いに喜び、群臣に宴を賜り、御府の絹帛を自らの力の及ぶだけ取らせた。
  • 唐儉の官爵を復し、并州道安撫大使とし、独孤懷恩から没収した田宅・資財を褒賞として与えた。
  • 世民は李仲文を并州に留め、武周がしばしば兵を入れて掠めたが、そのたび仲文は破り、城堡百余を下したので、詔して并州総管を検校させた。

五月 河北・河東・突厥との応接

  • 竇建徳が高士興を幽州の李藝攻撃に遣わしたが勝てず、籠火城に退いた。李藝はこれを襲って大破し、五千級を斬った。
  • 建徳の大将軍王伏宝は勇略で軍中第一だったが、諸将の嫉視を受け、謀反の讒言で建徳に殺された。伏宝は「左右の手を自ら斬るようなものだ」と嘆いた。
  • かつて尉遲敬徳が夏県で呂崇茂を助けていた時、皇帝はひそかに崇茂へ赦免と夏州刺史の官を与えて敬徳を図るよう命じたが、事が漏れて崇茂は敬徳に殺された。
  • 敬徳が去った後、崇茂の残党が再び夏県に拠って守ったので、秦王世民は晋州から帰る途次にこれを攻め、壬午、城を屠った。
  • この月、突厥は阿史那掲多を遣わして王世充に馬千匹を贈り、婚姻を求めた。世充は宗女を嫁がせ、互市も許した。

六月 杜伏威の優遇と楊士林の変

  • 朝廷は和州総管・東南道行台尚書令の杜伏威を使持節・総管江淮以南諸軍事・揚州刺史・東南道行台尚書令・淮南道安撫使とし、呉王に進封して李姓を賜った。輔公祏は行台左僕射・舒国公とした。
  • 皇子の元景を趙王、元昌を魯王、元亨を酆王に立てた。
  • 顕州行台尚書令楊士林は唐の官爵を受けながら、北は王世充、南は蕭銑と通じていた。
  • 皇帝は廬江王李瑗と安撫使李弘敏に討伐を命じたが、出兵前に長史田瓚が士林に疑われ、先んじて士林を殺し、王世充へ降った。世充は田瓚を顕州総管とした。

突厥援兵の残留と洛陽遠征の開始

  • 秦王世民が劉武周を討った時、突厥の処羅可汗は弟の步利設に二千騎を与えて唐を助けさせた。
  • 武周が敗れた後、六月に処羅自ら晋陽へ来たが、并州総管李仲文はこれを制御できず、処羅はさらに倫特勒を数百の兵とともに残して仲文を助ける名目で石嶺以北に兵を駐めて帰った。
  • 皇帝は王世充討伐を議し、世充はこれを聞くと諸州・鎮の勇士を洛陽に集め、四鎮将軍を置いて四城の守備を固めた。

七月 秦王世民、洛陽を攻める

  • 皇帝は秦王世民に諸軍を督して王世充を討たせた。
  • 陜東道行台僕射の屈突通には二子が洛陽にいたが、皇帝が東征に出る場合どうするかと問うと、通は、かつて虜囚となった自分を陛下が赦し恩礼を加えてくれた時、余生を尽くして節義を立てると誓ったのであり、二子は顧みるに足りないと答えた。皇帝はその義を嘆賞した。
  • 突厥が密かに王世充へ使者を送ろうとしたところ、潞州総管李襲誉が邀撃して破り、牛羊万計を奪った。
  • 驃騎大将軍可朱渾定遠が、并州総管李仲文は突厥と通じ、洛陽戦の最中に胡騎を率いて長安へ突入しようとしていると密告した。
  • 皇帝は皇太子李建成を蒲反に鎮させて備えとし、唐儉を并州へ派遣して安撫させ、いったん并州総管府を廃して李仲文を召還した。

新安到着と王世充の防備

  • 世民は新安に着いた。
  • 王世充は、魏王王弘烈を襄陽、荆王王行本を虎牢、宋王王泰を懐州、斉王王世惲を南城、楚王王世偉を宝城、太子王玄応を東城、漢王王玄恕を含嘉城、魯王王道洵を曜儀城に置いた。
  • 世充自身は楊公卿に左龍驤二十八府の騎兵、郭善才に内軍二十八府の歩兵、跋野綱に外軍二十八府の歩兵を率いさせ、総勢三万で唐軍を防いだ。

慈澗・北邙方面の攻防

  • 梁師都も突厥・稽胡の兵を引いて侵攻したが、段徳操がこれを破り、千余の首級を挙げた。
  • 羅士信が前軍を率いて慈澗を囲み、世充は自ら三万を率いて救援に向かった。
  • 世民が軽騎で前進して敵情を見ていたところ、突然世充軍に遭遇し、兵数で劣り、道も険しかったため包囲された。
  • 側近たちは馬上から応戦し、左建威将軍燕琪を捕えると、世充軍は退いた。世民が営へ帰ると土埃で顔が見えず、味方は本人と気づかず入営を拒もうとしたが、兜を脱いで名乗り、ようやく入ることができた。

包囲網の形成

  • 翌日、世民は歩騎五万を率いて慈澗へ進軍し、世充はその守兵を引き揚げて洛陽へ退いた。
  • 世民は史万宝を宜陽から龍門へ、劉徳威を太行の東から河内へ、王君廓を洛口から補給線遮断へ、黄君漢を河陰から回洛城攻撃へ向かわせた。自軍は北邙に連営して洛陽を圧迫した。
  • 洧州長史張公謹と刺史崔枢が州城を挙げて降った。

八月 西南諸蛮の帰服

  • 南寧・西爨の蛮が使者を遣わして朝貢した。
  • もと隋末に爨翫が反乱して誅され、その子らも官奴とされて地は放棄されていたが、皇帝は翫の子爨弘達を昆州刺史に任じ、父の遺骸を持ち帰って葬らせた。
  • 益州刺史段綸があわせてその部落を招撫すると、みな唐に帰服した。

共州・鄧州・石堡の帰降

  • 共州では県令唐綱が刺史を殺して州を挙げて降り、鄧州でも土豪が王世充の刺史を捕えて降った。
  • 梁師都配下の石堡留守張挙も千余人を率いて来降した。

回洛城の攻略

  • 黄君漢は校尉張夜叉に舟師を率いさせ、回洛城を奇襲して陥落させた。達奚善定を捕え、河陽南橋を断って帰還し、その周辺の堡塁二十余を降した。
  • 世充は太子王玄応に楊公卿らを率いさせて回洛城を攻めさせたが勝てず、西側に月城を築いて守兵を置いた。

青城宮での対陣

  • 世充は青城宮に陣し、世民もまたこれに対して陣を布いた。
  • 世充は川越しに、隋はすでに滅び、唐は関中・鄭は河南にあり、自分は西へ侵さないのに唐が東へ来るのはなぜかと問うた。
  • 世民は宇文士及を通じて、四海は皇風を仰ぐのに、世充だけが教化に背くので討ちに来たのだと答えた。
  • 世充が休戦・講和を提案しても、士及は詔命は東都攻略にあり講和ではないと退けた。日暮れには双方が兵を引いた。

同安長公主の帰還と懐州方面

  • 皇帝は竇建徳に和を結ぶ使者を送り、建徳は同安長公主をその使者に伴わせて返還した。
  • 劉徳威は懐州を襲って外郭に入り、堡塁を落とした。

九月 顕州・轘轅・各州の帰順

  • 梁師都の将劉旻が華池を挙げて降り、林州総管とされた。
  • 王世充配下の顕州総管田瓚は所部二十五州を率いて降った。これにより襄陽は洛陽との連絡を絶たれた。
  • 史万宝は甘棠宮方面へ進軍した。胡注は本文の「甘泉宮」を誤記とみる。
  • 秦王世民は王君廓に轘轅を攻めさせ、これを抜いた。世充の将魏隠らが撃ちに来たが、君廓は偽退して伏兵で大破し、さらに東方を平定して管城まで進んで帰った。
  • 以前から王世充の郭士衡・許羅漢が唐境を荒らしていたが、王君廓は十三人で一万に当たるほどの働きを見せ、詔してこれを賞した。
  • 世充の尉州刺史時徳叡は杞・夏・陳・随・許・潁・尉の七州を率いて降った。
  • 世民は便宜により州県官はひとまず世充の任命のままとし、急な変更を避け、尉州だけを南汴州と改めた。
  • こうして河南の郡県は相次いで降った。

尉遲敬徳への信任

  • 劉武周から降ってきた尋相らの多くがまた離反したため、諸将は尉遲敬徳を疑って軍中に拘禁した。
  • 屈突通・殷開山は、敬徳は勇猛無比であり、いま囚われて怨みを抱けば後患になるから、いっそ殺してしまうべきだと世民に進言した。
  • 世民は、敬徳が叛くならば今に始まるはずがないと断じ、すぐに釈放して寝所へ招き入れ、黄金を賜って、小さな疑いを気にするな、忠臣を讒言で害することは決してしない、もし去る気ならこの金を旅費にせよと語った。
  • 以後、敬徳は深く感服した。

宣武陵の戦い

  • 世民が五百騎で戦場を見回り、魏の宣武陵に登って布陣地形を見ていたところ、王世充が歩騎万余で急襲し、これを包囲した。
  • 単雄信が長槊をもって世民へ直進したが、尉遲敬徳が躍り出て雄信を突き落とした。
  • 世充軍がやや退いたところで、敬徳が世民を守って包囲から出し、さらに二人は騎兵を率いて敵陣へ出入りし、往復しても妨げられなかった。
  • そこへ屈突通の大軍が着き、世充は大敗して辛うじて逃れた。唐軍は陳智略を捕え、千余を斬り、排矟兵六千を得た。
  • 世民は敬徳に、恩返しが早いではないかと言って金銀一箱を賜った。
  • 以後、敬徳はますます寵遇され、敵の槊を避ける術に巧みで、単騎で敵陣に入っても傷を負わず、奪った槊で逆に敵を突くことさえできた。
  • 斉王李元吉は自ら馬槊の技を誇っていたため、互いに刃を外して試合しようと求めたが、敬徳は王は刃を外さずともよいと言い、元吉の攻撃はついに当たらなかった。
  • 世民が、槊を避けるのと奪うのとどちらが難しいかと問うと、敬徳は奪うほうだと答えたので、元吉の槊を奪ってみせ、三度取り上げた。元吉は表向き感嘆したが、内心では深く恥じた。

邴元真の最期

  • 叛胡が嵐州を陥した。
  • かつて王世充は邴元真を滑州行台僕射としたが、濮州刺史杜才幹は旧李密の将で、元真が密を裏切ったことを恨んでいた。
  • 才幹は降伏を装って元真を誘い出し、迎え入れて座らせると、密に大恩を受けながら滔天の禍をなしたと責め、斬り殺した。
  • その首は黎陽に送り、李密の墓前に供えられた。
  • 才幹は濮州を挙げて唐に降った。

十月 張鎮周・高開道・楊慶の帰降

  • 王世充の大将軍張鎮周が降った。
  • 羅士信は硤石堡を奇襲して奪い、続いて千金堡も計略で陥とした。幼児を抱えた兵にわざと泣かせ、東都から逃れてきた者に見せかけて守兵を油断させ、追撃に出たところを伏兵で突入して皆殺しにした。
  • 竇建徳が幽州を囲んだ時、李藝は高開道に救援を求め、開道は二千騎で来援した。建徳は兵を引き、開道も李藝の勧めで唐に降った。
  • 朝廷は高開道を蔚州総管とし、李姓を賜って北平郡王に封じた。
  • 胡注は、高開道が頬の深い鏃を医師に抜かせる際、痛みを恐れぬ豪胆さを示した逸話を載せる。

竇建徳の再度の幽州攻撃

  • 竇建徳は二十万を率いて再び幽州を攻めた。兵が城壁に取り付くと、薛万均・薛万徹が敢死士百人を率いて地道から敵背後に出、奇襲して撃退した。
  • 李藝軍が勝ちに乗じて建徳の営に迫ると、建徳は営中に陣を布き、壕を埋めて出撃し、大いに唐軍を破った。
  • そのまま城下まで追ったが、陥落させることはできず撤退した。

楊慶の帰順と虎牢方面の動揺

  • 李密の敗後に洛陽へ戻って楊姓に復し、さらに王世充が帝位につくと郭姓に改めていた楊慶は、世民が洛陽を圧迫する中、密かに降伏を申し出た。
  • 世民は李世勣に命じてその城を押さえさせた。
  • 慶は妻を連れて来ようとしたが、妻は、世充が自分を嫁がせたのは夫の心をつなぐためであり、夫が節を曲げて利に走るなら自分は従えない、洛陽まで送ってくれれば恩だと述べた。慶が拒むと、妻は唐が勝てば自分の家は滅び、鄭が勝てば夫は死ぬ、ならば生きる意味はないと言って自殺した。
  • 慶は唐へ降り、再び楊姓に戻され、上柱国・郇国公となった。
  • 王玄応は滎・汴の間に軍を置いていたが、これを聞くと管城へ急いだ。李世勣はこれを撃退した。
  • 郭孝恪が書をもって滎州刺史魏陸を説くと、魏陸も内応し、玄応が大将軍張志ら四将を徴兵に遣わしたところ、魏陸は彼らを捕えて州ごと唐に降った。
  • 陽城令王雄も諸堡を率いて降り、世民は李世勣に援けさせ、王雄を嵩州刺史とした。これで嵩山南麓への道が通じた。
  • 魏陸は張志に玄応の偽書を書かせて東路の兵を止め、別将張慈宝を汴州へ帰らせるよう偽命させたうえ、ひそかに汴州刺史王要漢に慈宝誅殺を命じさせた。要漢はこれに応じて慈宝を斬り、州を挙げて降った。
  • 王玄応は諸州の離反を知って恐れ、洛陽へ逃げ帰った。朝廷は王要漢を汴州総管・郳国公とした。

襄陽・長沙・雲州

  • 王弘烈が襄陽を守る中、皇帝は金州総管府司馬李大亮に樊・鄧の安撫と襄陽攻略を命じた。
  • 十一月、大亮は樊城鎮を抜いて国大安を斬り、城柵十四を落とした。
  • 蕭銑は気質が狭く疑い深く、将たちが戦功により横暴となるのを恐れて、兵を解いて農に帰すと称して実際には将権を奪おうとした。
  • 大司馬董景珍の弟が不満から乱を図って誅されると、景珍は長沙にあり、自身も召還命令を恐れて長沙を挙げて唐に降った。皇帝は峡州刺史許紹に出兵してこれに呼応させた。
  • 雲州総管郭子和はもとは突厥・梁師都と結んでいたが、のちに梁師都の寧朔城を襲って奪った。さらに突厥の隙を探って密奏したが、その使者が突厥に捕えられ、処羅可汗は怒って子和の弟郭子升を囚えた。
  • 子和は孤立を恐れ、部民を率いて南へ移りたいと請い、朝廷は延州故城への移住を許した。

梁師都の策と頡利可汗の即位

  • 張挙・劉旻が唐へ降ると、梁師都は大いに恐れ、尚書陸季覧を突厥の処羅可汗へ遣わし、劉武周滅亡後は天下がやがて唐に帰すだろうから、今のうちに南下して中原を奪うべきだと説いた。
  • 計画では、莫賀咄設が原州から、泥歩設と梁師都が延州から、突利可汗が奚・霫・契丹・靺鞨を率いて幽州から侵入し、さらに竇建徳が滏口から西へ進んで晋・絳で合流するはずだった。
  • ところが処羅は、自分の父が隋の援助で立った恩を忘れられないとして出兵を思いとどまり、まもなく死去した。
  • 義成公主は、処羅の子奥射設は醜く弱いとして廃し、莫賀咄設を立て、頡利可汗と号させた。
  • 頡利は使者を遣わして処羅の死を告げ、唐朝は始畢可汗のときと同様の礼で弔った。

年末 李大亮の進撃と竇建徳の救鄭方針

  • 李大亮は沮州・華州を取った。
  • 竇建徳は孟海公を攻めた。これはもともと王世充が黎陽へ侵攻し、建徳が殷州を奪い返したことから両者の関係が悪化していたためである。
  • しかし唐軍が洛陽に迫ると、王世充は建徳へ救援を求めた。胡注は、世充が自ら広大な割譲を約したという説は信用し難いとして退ける。
  • 建徳の中書侍郎劉彬は、唐・鄭・夏の三者は鼎立しているが、唐が強く鄭が弱い以上、鄭が滅べば夏も独立できない、まず鄭を救って唐軍を外から攻め、勝てばのちに鄭を併呑すればよいと説いた。
  • 建徳はこの策を用い、王世充へ援軍を約束し、さらに李大師らを唐に遣わして洛陽包囲の中止を求めたが、秦王世民は彼らを引き留めて返答しなかった。
  • また王世充配下の許州・亳州など十一州が降り、李藝も籠火城で再び竇建徳軍を破った。
  • 随州総管徐毅が降り、峡州刺史許紹は蕭銑の荆門鎮を奪った。許紹は梁・鄭境の兵を捕えても厚く資給して返したので、敵方も感服し、境内は安定した。
  • 蕭銑は長沙を攻めさせたが、董景珍は功臣誅殺の前例を引いて張繡を諫めた。景珍はのちに配下に殺され、張繡も功を恃んで驕横になったため、蕭銑はこれも殺した。功臣たちは離心し、梁の勢力は弱まった。
  • 王世充は兄子の王琬と長孫安世を竇建徳のもとへ遣わし、聘礼を返して救援を求めた。
  • 并州に残った突厥の倫特勒は民に害をなしていたが、并州総管劉世讓が計略でこれを捕えた。皇帝は大いに喜んだ。
  • 張道源は竇建徳のもとから密かに、山東を震わせるため洺州を攻めてほしいと知らせ、皇帝は劉世讓を土門から洺州へ向かわせた。
  • 瓜州刺史賀拔行威が驃騎将軍達奚暠を捕え、兵を挙げて叛いた。

江南 李子通・沈法興・杜伏威の争い

  • この年、李子通は江を渡って沈法興を攻め、京口を取った。沈法興の僕射蔣元超は庱亭で戦死し、法興は毗陵を棄てて呉郡へ逃れた。丹楊・毗陵などの郡は子通に降った。
  • 子通は法興の府掾李百薬を内史侍郎・国子祭酒とした。
  • 杜伏威は輔公祏に兵数千を授けて子通を討たせ、闞稜・王雄誕を副将とした。公祏は丹楊を落として溧水に進んだ。
  • 李子通は数万で迎え撃った。公祏は長刀の精鋭千人を前鋒にし、さらに退却者を斬る第二線を置き、自ら後軍を率いた。
  • 子通は方陣で進み、前鋒千人は死戦したが、公祏は追撃中にかえって敗れ、陣に閉じこもった。
  • 王雄誕は、子通には壁塁がなく初勝に慢心しているから夜襲すべきだと進言したが、公祏は従わなかった。
  • そこで雄誕は私兵数百を率いて夜襲し、風に乗じて放火し、子通を大破して数千を降した。
  • 子通は糧尽きて江都を棄て、京口へ保ち、江西の地はことごとく杜伏威のものとなった。伏威は丹楊に移った。
  • しかし子通はさらに太湖へ走って散兵を集め、二万を得て沈法興を呉郡で破り、法興は途中で方針を変えようとして部下に察知され、窮して江に身を投げて死んだ。
  • 子通は余杭に都を移し、北は太湖、東は会稽、西は宣城に及ぶ広い地域を掌握した。

嶺南の平定

  • 広州・新州では高法澄・沈宝徹が隋官を殺して林士弘に附した。
  • 漢陽太守馮盎がこれを破ったが、その後沈宝徹の甥智臣が再び新州で挙兵した。
  • 馮盎が兵を率いて向かうと、賊は集まり始めたが、盎が兜を脱いで「私が分かるか」と呼びかけると、多くは武器を捨て、肉袒して拝した。
  • こうして賊は潰え、宝徹・智臣らは捕えられ、嶺外は平定された。

四年正月 代州・梁州・洛陽包囲の強化

  • 胡大恩が竇建徳から降り、代州総管・定襄郡王となって李姓を賜った。
  • 石嶺以北は劉武周の乱以来、賊が充満していたが、胡大恩は鴈門へ移って平定した。
  • 稽胡の酋帥劉仚成が部落数万で辺境を荒らしたため、皇太子建成に諸軍を統べて討たせた。
  • 王世充の梁州総管程嘉会が所部を率いて降った。
  • 杜伏威も陳正通・徐紹宗の精兵二千を秦王世民の軍に送ってきた。
  • 世民は梁を攻めて落とした。

蕭銑討伐の準備

  • 黔州刺史田世康は蕭銑配下の五州四鎮を攻略した。
  • 李靖は趙郡王李孝恭に対し、蕭銑を取る十策を説き、孝恭はこれを上表した。皇帝はこれを嘉納し、孝恭に総管を命じて大いに船を造り、水戦を習わせた。
  • 孝恭は軍事経験が浅かったため、李靖を行軍総管兼長史として軍事を一任した。

玄甲隊の活躍

  • 秦王世民は精鋭千余騎を選び、黒装束・黒馬具の左右二隊とし、秦叔宝・程知節・尉遲敬徳・翟長孫に分けて率いさせた。
  • 世民自身もしばしば黒甲をまとって先鋒に立ち、機に応じて突撃し、向かうところ敵を破ったので、敵はこれを恐れた。
  • 屈突通・竇軌が行営を巡察していた際、突如王世充に遭って苦戦したが、世民が玄甲隊を率いて救い、世充を大破し、葛彦璋を捕えた。

二月 巴蜀・江陵方面と洛陽戦

  • 信州を䕫州と改め、孝恭に船艦を大造させた。
  • 李靖は、巴蜀の酋長の子弟を広く招いて才に応じて任用し、側近に置けば、抜擢を示しながら実際には人質として使えると孝恭に説いた。
  • 王世充の太子王玄応が虎牢から糧を洛陽へ運ぼうとすると、李君羡が迎撃して大破し、玄応はわずかに逃れた。
  • 世民は洛陽の包囲を宮城にまで進める許可を求め、皇帝は、城を落とした日には乗輿・法物・図籍・器械など公的なものだけを収め、残りの女子・玉帛は将士に分け与えよと言った。

青城宮からの総攻撃

  • 辛丑、世民は青城宮へ進んで布陣したが、まだ営塁が整わぬうちに、王世充が方諸門から二万を率いて出て、旧馬坊の垣と壕を利用し、谷水に臨んで唐軍を拒んだ。
  • 諸将が恐れるなか、世民は北邙に騎兵を布き、今日は一戦で破れば二度と出てこられまいと見て、屈突通に歩兵五千で渡河攻撃を命じた。
  • 戦闘が始まり煙が上がると、世民は自ら騎兵を率いて南下し、通軍と合して激戦した。
  • 世民は敵陣の厚薄を見ようとして数十騎で突入し、そのまま背後へ抜けたので、敵兵は披靡した。
  • だが長堤によって味方と隔てられ、数騎の世充軍が追ってくると、世民の馬が流れ矢に当たって死んだ。丘行恭が振り返って射撃し、追兵を近づけず、自ら馬を下りて世民に与え、自分は前を歩いて長刀を振るい、大呼して数人を斬り、陣を突き抜けた。
  • 世充もまた死戦し、散じては集まること数度、辰から午まで戦ってついに退いた。
  • 世民はこれを追撃して城下に迫り、七千を斬捕して洛陽を完全に包囲した。
  • 段志玄は深く突入して捕えられかけたが、二人の騎兵を道連れに振り落として脱出し、追兵数百も近づけなかった。

王懐文の義挙と鄭頲の死

  • もと唐軍の斥候だった王懐文は世充に捕えられて左右近くに置かれていた。
  • 壬寅、世充が右門から出て洛水に臨み陣を敷いた時、懐文は突然槊で世充を刺した。世充は内に鎧を着ていたため傷を負わず、懐文は唐軍へ走ろうとして写口で捕えられ殺された。
  • 世充は帰ると鎧を脱いで群臣に見せ、これも天命だと誇った。
  • 御史大夫鄭頲はもと世充に仕えるのを喜ばず、病を称して政務に関わらなかったが、この件の後、世充に対し「金剛不壊身の仏のようだ」と持ち上げつつ出家を願い出た。
  • 世充は大臣の出家が世情を驚かせるとして許さなかったが、頲は退いて妻に、自分は乱世で猜疑の朝廷に身を置き、自力で身を守れない以上、せめて志のままに生きると語り、剃髪して僧衣を着た。
  • 世充はこれを、自分の敗北を見越しての逃避だと怒り、市で斬った。頲は言笑を失わず、見る者はその気概を称えた。
  • 朝廷は王懐文に上柱国・朔州刺史を追贈した。

李仲文の誅殺

  • 唐儉は并州安撫使として、真郷公李仲文が妖僧志覚とともに謀反を図り、また陶氏の女を娶って桃李の讖に応じ、突厥可汗にへつらって南面可汗に立てられる約束まで得ているうえ、并州で賄賂にまみれていると密奏した。
  • 皇帝は裴寂・陳叔達・蕭瑀に取り調べさせ、李仲文は罪を認めて誅された。

河陽・洛口・洛陽攻囲の継続

  • 王泰が河陽を棄てて走り、その将趙夐らは城を挙げて降った。
  • 単雄信・裴孝達が洛口で王君廓と対峙すると、世民は歩騎五千を率いて援けに行き、轘轅で雄信らを退却させた。君廓はさらに追って破った。
  • 段徳操は延州で劉仚成を破り、千余を斬った。
  • 王世充の懐州刺史陸善宗も城を挙げて降った。
  • 洛陽宮城の守りは厳重で、飛石機は五十斤の石を二百歩先まで飛ばし、八弓弩は車輪の輻ほどの太さの矢を五百歩飛ばした。
  • 世民は四方から昼夜を分かたず攻めたが、十余日なお落ちず、城内でも十三組が内応を図ったが発覚して果たせなかった。
  • 唐軍の将士は疲弊し、劉弘基らは撤兵を請うたが、世民は、ここで退けば東方の帰服諸州を失いかねず、洛陽攻略は完成目前だとして、軍中に「洛陽が落ちるまで帰還しない」と命じた。
  • 皇帝も密かに撤兵を勧めたが、世民は必ず落とせると上表し、参謀軍事封徳彝を入朝させて形勢を説かせた。
  • 徳彝は、世充の支配は実質的には洛陽一城に限られ、勢いは尽きていると述べたため、皇帝もついに継戦を認めた。
  • 世民は世充に禍福を説く書を送ったが、世充は答えなかった。

虎牢の奪取

  • 鄭州司兵沈悦が李世勣に降伏を申し出た。
  • 王君廓は夜に兵を率いて虎牢を襲い、沈悦が内応してこれを陥落させた。荆王王行本と長史戴胄が捕えられた。
  • 胡注は、沈悦は陳の僕射沈君理の孫だと注している。