資治通鑑隋紀六 煬皇帝 大業九年 613年

春正月 再度の高句麗遠征準備と国内の不穏

  • 正月、煬帝は全国から兵を徴して涿郡に集め、高句麗再征の準備を始めた。あわせて民間から精鋭兵「驍果」を募り、遼東の旧城を修築して軍糧の貯蔵地とした。
  • 靈武では白瑜娑が牧馬を奪って荒らし、北の突厥と結んだため、隴右一帯が大きな被害を受けた。当時、人々は彼らを「奴賊」と呼んだ。
  • 朝廷は天下に大赦を行い、代王侑を西京の留守とし、衛文昇らにこれを補佐させた。
  • 二月、前回遠征の失敗について、宇文述は兵站が続かなかったためで本人の責任ではないとして、官爵を回復され、さらに加官された。
  • 煬帝は高句麗を小国の無礼とみなし、なおも征討を決意したが、郭榮が「大国が小敵に天子自ら対するのは不相応だ」と諫めても、聞き入れなかった。

二月 各地で盗賊蜂起、張須陀の奮戦

  • 濟陰では孟海公が反乱を起こし、周橋を拠点として数万人を集めた。この賊は書物を引いて語る者を見れば殺すという苛烈さで知られた。
  • 丁男十万人を動員して大興城の修築が行われ、同時に煬帝は遼東へ向かった。越王侗を東都の留守とし、樊子蓋らが補佐に任じられた。
  • この頃、王薄・孟讓・郭方預・張金稱・郝孝徳・格謙・孫宣雅らが各地で大規模な群盗を率い、山東地方は大きく乱れた。
  • 郡県の官吏は平和が長く続いたため実戦に不慣れで、賊に当たると崩れやすかった。その中で、齊郡丞の張須陀だけは人望と武勇を備え、王薄を泰山の麓で破り、さらに臨邑でも撃破した。
  • その後、王薄が孫宣雅・郝孝徳ら十余万人と章丘を攻めると、張須陀は歩騎二万でこれを大破した。
  • 裴長才ら二万人が不意に城下へ迫った際、張須陀はわずか五騎で応戦し、多くの傷を負いながらも踏みとどまり、援軍到着後に逆襲して敵を潰走させた。
  • 郭方預らが北海を陥落させた後も、張須陀は精兵を率いて急進し、数万を斬り、莫大な輜重を奪った。

羅士信の勇名

  • 歴城の少年・羅士信は十四歳で張須陀に従軍し、濰水での戦いで敵陣に単騎突入して数人を刺し殺し、首級を槍先に掲げた。賊はその勢いに震え、近づけなかった。
  • 張須陀はこれに乗じて総攻撃し、大勝した。羅士信は討ち取った敵の鼻を切って持ち帰り、戦果の証拠としたため、張須陀にことのほか賞され、常に側近として用いられた。
  • 煬帝も彼と張須陀の戦いぶりを図に描かせて見た。

夏四月 遼東戦線

  • 煬帝は遼河を渡り、宇文述・楊義臣を平壌方面へ向かわせ、王仁恭には扶餘道から進ませた。王仁恭は新城で高句麗軍数万を破ったが、城は堅く守られた。
  • 遼東城への攻撃では、楼車・雲梯・地道などを総動員して昼夜なく攻めたが、高句麗側は巧みに防ぎ、二十日余りたっても落ちなかった。攻守ともに死者が多く出た。
  • 驍果の沈光は十五丈の衝梯の先端に登って城上で白兵戦を行い、十数人を斬った。敵の反撃で落下したが、途中の綱に取りついて再び上がったため、煬帝はその勇気を賞し、朝散大夫に任じて近侍させた。

楊玄感と李密

  • 礼部尚書の楊玄感は勇猛で騎射にすぐれ、広く士と交わり、李密と特に親しかった。李密は名門の出で、才略と大志があり、軽財好士の人物であった。
  • 煬帝は李密を一目見てただならぬ者と感じ、宇文述を通じて宿衛を辞めさせた。李密は以後、読書に専念し、しばしば黄牛に乗って『漢書』を読むほどであった。
  • 楊素はかつてその才を高く評価していたが、楊素の死後、煬帝は「もし楊素が生きていれば、最後は一族滅亡だった」と近臣に語った。
  • 楊玄感もこうした君臣関係の危うさを知り、朝政の乱れと皇帝の猜疑に不安を抱き、弟たちと密かに反乱を相談するようになった。
  • 煬帝は玄感を将門の子として優遇し、黎陽で軍糧輸送の総監に任じたが、玄感は王仲伯・趙懐義らと謀り、わざと漕運を遅らせて遼東諸軍を兵糧不足に陥れようとした。
  • さらに弟の玄縱・萬石を密かに呼び戻したが、萬石は高陽で捕らえられて涿郡で斬られた。
  • 来護児が海路から平壌へ向かおうとしていたところ、玄感は偽使を送り、「来護児が反した」と流言した。

六月 楊玄感の挙兵

  • 六月乙巳、楊玄感は黎陽に入り、城門を閉じて男子を徴発し、船の帆布で簡易な甲を作らせ、官制も煬帝以前の旧制に戻した。
  • 周辺諸郡には「来護児討伐」を名目として兵を集めさせ、有能な郡県官を呼び寄せて配下に組み込み、趙懐義・元務本・唐禕らに州の長官職を与えた。
  • 督運中だった治書侍御史の游元に協力を求めたが、游元は楊家の恩顧を挙げて厳しく拒み、殺されても屈しなかった。玄感はついにこれを殺した。
  • 玄感は運夫の壮者五千余人、丹陽・宣城の船員三千余人を集め、三牲を供えて誓師し、煬帝を「民を顧みない暴君」と非難して兵を挙げたところ、兵は大いに奮い立った。

李密の献策と洛陽進軍

  • 玄感は李密を謀主とした。李密は上策として、幽州方面へ急進して帰路を断ち、煬帝を高句麗と挟撃させる案を示した。次策として関中へ直入して長安を押さえる案、下策として東都を襲う案を挙げた。
  • だが玄感は、東都には百官の家族がいるので先に押さえれば心を動かせると考え、李密の最も低く見た案を選び、洛陽へ向かった。
  • 唐禕は先に逃げて河内に帰り、東都へ急報したため、越王侗と樊子蓋は守備を固めた。
  • 修武の人々が臨清関を守ったため、玄感は河を渡れず、汲郡の南から渡河して進んだ。弟の積善・玄挺を別路から進め、自らは後続した。
  • 東都側では達奚善意・裴弘策が迎撃したが、善意軍は戦わず潰れ、裴弘策も連敗した。玄挺はついに太陽門付近まで迫り、玄感は上春門に屯した。
  • 玄感は「自分は富貴を極めているのに、一族滅亡を顧みず天下の苦を救うために立った」と誓い、父老は牛酒を献じ、若者たちは続々と参加した。
  • 内史舍人の韋福嗣が捕えられると、玄感はこれを厚遇し、胡師耽とともに文書を掌らせた。樊子蓋には、煬帝の罪を数えて「昏君を廃して明君を立てる」とする書を送らせた。

樊子蓋の統制と東都攻防

  • 東都では新参の樊子蓋が旧来の官人に軽んじられていたが、敗戦した裴弘策が再出撃を拒むと、樊子蓋はこれを引き出して斬り、楊汪も無礼を咎めて処罰寸前まで追い込んだ。これにより将吏は震え上がり、命令は厳守されるようになった。
  • 玄感は全力で城攻めを行ったが、樊子蓋はよく防いだ。もっとも、裴弘策が斬られたのを聞いた高官子弟ら四十余人は入城を恐れて玄感に降り、その配下として重用された。
  • 玄感は五万余人を得て、慈澗道・伊闕道を守らせ、韓世咢に滎陽包囲を、顧覺に虎牢攻略を命じた。虎牢は降伏し、顧覺は鄭州刺史に任じられた。

衛文昇の救援と煬帝の遼東撤兵

  • 長安の代王侑は、衛文昇に四万の兵を授けて東都救援へ向かわせた。衛文昇は華陰で楊素の墓を暴き、骸骨を焼いて兵に見せ、必死の覚悟を促した上で東進した。
  • 一方、遼東では煬帝が土嚢で大きな攻城路を築き、八輪の楼車まで造って総攻撃の準備を進めていた。城内は危機に陥っていたが、その矢先に楊玄感反乱の報が届いた。
  • 煬帝は大いに動揺し、蘇威に玄感をどう見るか問うた。蘇威は「事の是非と成敗を見極められる者こそ真に聡明であり、玄感は粗疎だから恐れるほどではない。ただし乱のきっかけになるのが心配だ」と答えた。
  • 兵部侍郎の斛斯政は玄感と内通しており、発覚を恐れて高句麗へ逃亡した。
  • その夜、煬帝は諸将に密命して全軍撤退を命じた。軍資・攻具・陣営を山のように残したままの急退で、諸軍は統制を失って分散した。高句麗軍はすぐには追わなかったが、やがて追撃し、最後尾の疲弊した数千人を殺し奪った。

諸軍の帰還と来護児の判断

  • 煬帝は再征前にも太史令の庾質に占わせていたが、庾質は以前と同様に「天子親征は労多くして利少ない」との見解を曲げなかった。帰還後、煬帝は玄感の成否を問うと、庾質は「玄感は人望に乏しく、天下はまだ一つであるから容易には動かない」と答えた。
  • 煬帝は陳稜を黎陽へ、宇文述・屈突通を急行させて玄感討伐に向かわせた。
  • 来護児は東萊で東都包囲の報を聞き、諸将が勅命なしの撤兵に反対する中、「高句麗は皮膚病にすぎず、洛陽包囲こそ心腹の病だ」と言い切って即日軍を返した。後に煬帝はすでに同趣旨の命を出していたため、これを賞した。

洛陽周辺の激戦と玄感の西走

  • 衛文昇が瀍水を渡って玄感と戦うと、玄感はしばしばこれを破った。玄感は自ら先頭に立ち、部下の心をつかんでいたため、兵は十万人に膨れ上がった。
  • しかし邙山南での決戦で、弟の楊玄挺が流れ矢に当たって死ぬと、玄感軍はやや退いた。
  • この頃、余杭の劉元進が挙兵して玄感に呼応し、三呉の逃亡者が雲集して数万人に達した。
  • 玄感は次第に韋福嗣を重用して李密を遠ざけるようになった。李密は福嗣が日和見であると見抜き、斬るよう進言したが、玄感は従わなかった。李密は「楚公は反乱は好むが、勝つ気がない」と嘆いた。
  • 李子雄は早く帝位を称するよう勧めたが、李密は、まだ郡県の本格的呼応もなく東都も落ちていない段階での称帝は時期尚早だと止めた。玄感は笑って取りやめた。
  • 屈突通が河陽に、続いて宇文述が来ると、李子雄はその渡河を阻止すべきだと勧めた。玄感も一度は同意したが、樊子蓋のたび重なる出撃のため動けず、屈突通軍はついに河を渡った。
  • 東都からの援軍が増える中、李子雄と李密はともに関中進出を勧めた。華陰の楊氏一族も郷導を申し出たため、七月壬辰、玄感は東都包囲を解いて潼関へ向かった。

弘農攻防、皇天原の敗走、玄感の最期

  • 玄感軍が弘農宮に至ると、土地の父老は「城は空虚で糧も多く、落としやすい」と勧めた。弘農太守の蔡王智積は、玄感を足止めするためにあえて城上から罵った。玄感は怒って攻撃したが、李密が「ここで時を費やせば前にも進めず後ろも守れない」と止めても従わなかった。
  • 玄感軍は三日攻めても落とせず、西へ進んだところを宇文述・衛文昇・来護児・屈突通らが皇天原で追いついた。玄感は長大な陣を敷いて抵抗したが、一日に三度敗れた。
  • 八月壬寅、董杜原で大敗し、玄感は十余騎で上洛方面へ逃れた。葭蘆戍に至ると助からぬと悟り、弟の積善に自分を殺させ、積善も自害を図ったが死にきれず捕らえられた。
  • 玄感の首は行在所へ送られ、遺体は東都市で磔にされ、のち切り刻んで焼かれた。弟の玄奬や仁行も各地で誅され、楊素の一門はほぼ滅んだ。
  • 梁郡の韓相国も呼応して十余万を集めていたが、玄感敗報で離散し、のち捕らえられて首を送られた。

李淵の台頭

  • 煬帝は、弘化留守の元弘嗣が斛斯政の近親であることを疑い、衛尉少卿の李淵を急派してこれを拘束させ、自らの代わりに弘化方面の留守とした。関右十三郡の兵は李淵の指揮下に入り、人々はその寛大で簡潔な統率に従った。
  • ただし煬帝は李淵の人相や名が図讖に合うとして警戒もしていた。のちに行在所へ召したが、李淵は病を口実に拝謁を遅らせ、さらに飲酒や賄賂で自らを韜晦して疑いを避けた。

江南・山東・河北での群盗拡大

  • 吳郡では朱爕、晉陵では管崇が江左で兵を起こした。朱爕は還俗した僧で、経史と兵法に通じ、民衆は苦役を逃れて彼のもとへ集まった。管崇も容貌と気宇にすぐれ、「王者の相」があると称されて担がれた。
  • 煬帝は趙六児に兵一万を与えて楊子に駐屯させたが、管崇の将・陸顗が夜襲して二営を破り、器械・軍資を奪ったため、賊勢は十万人に達した。
  • 趙元淑は楊玄感党として誅殺され、樊子蓋・鄭善果・裴蘊・骨儀らが玄感関係者の取り調べを担当した。煬帝は「一声で十万が従うのなら、放置すれば皆盗となる」として厳罰を命じ、三万余人が殺され、六千余人が流された。
  • 東都包囲の際に玄感が開倉して民に与えた米を受け取った者たちまで、都城南で生き埋めにされた。虞綽・王胄ら文士も連座し、逃亡後に誅された。
  • 煬帝は自らの文才を自負し、臣下の才能を嫌い、虞世南にも「高位の者の諫言は名目づくりに見えて我慢ならぬ」と語っていた。
  • 裴矩は隴右で曷薩那可汗の部衆を慰撫したのち、その部族に吐谷渾を掠めさせて自活させたところ、煬帝はこれを大いに賞した。

秋九月以後 各地の反乱

  • 東海では彭孝才が挙兵し、数万人を集めた。煬帝は上谷・博陵へと巡幸を続けたが、物資不足の責任で太守らを罷免した。
  • 十月、東郡を呂明星が包囲したが、費青奴がこれを撃破した。
  • 劉元進は江を渡ろうとし、朱爕・管崇に迎えられて主とされ、呉郡を拠点に天子を称し、朱爕と管崇は僕射となった。毗陵・東陽・会稽・建安でも長吏を捕えて呼応する者が相次いだ。
  • 朝廷は吐萬緒・魚俱羅を派遣して討たせた。さらに馮孝慈は張金稱討伐に向かったが敗死した。

李密・韋福嗣らの処刑

  • 韋福嗣は東都へ出頭したが、樊子蓋が玄感の文書草稿を発見して煬帝へ送り、李密もまた捕らえられて送られた。
  • 福嗣・李密・楊積善・王仲伯らは高陽へ護送される途中、所持金を看守に与えて酒食を求め、警戒を緩ませたうえで石梁駅で壁を破って逃走した。李密は福嗣にも同行を勧めたが、福嗣は潔白を信じて残った。
  • 高陽に至ると、煬帝は草稿を示して福嗣を大理へ送らせ、宇文述の上奏により重法が適用された。
  • 十二月甲申、野外で処刑台に縛りつけられた玄感党の者たちは、車輪で首を締められ、九品以上の文武百官に命じて斬りつけ・射させられた。遺体は粉砕され、楊積善と韋福嗣はさらに車裂きにされて灰まで散らされた。
  • 積善は「自分が玄感を手にかけた」と命乞いしたが、煬帝は「それなら親を食う梟の類だ」として、姓まで「梟氏」に改めて辱めた。

末年の妖言と南方平定

  • 唐県の宋子賢は幻術を用いて仏の姿を現すと称し、弥勒出世を唱えて人々を惑わせた。無遮大会に乗じて挙兵しようとしたが発覚し、千余家が連座して誅された。
  • 扶風では僧の向海明も弥勒出世を名乗り、三輔で支持を集めて数万人を率い、十二月丁亥には帝を称して「白烏」と改元した。しかし楊義臣に破られた。
  • 衛文昇・樊子蓋は玄感の乱を防いだ功で厚く賞され、任地へ戻された。
  • 劉元進は丹陽を攻めたが、吐萬緒が江を渡って破り、曲阿に進んだ。百日余りの対陣ののち賊軍は大敗し、元進は夜逃げした。朱爕・管崇も毗陵・黄山で連敗し、管崇は戦死、元進と朱爕は辛うじて身を免れた。
  • ただし民衆は依然として賊に流れ込み、賊は敗れてもまた集まった。吐萬緒は休兵を求めたが煬帝は不快に思い、魚俱羅は息子を洛陽へ迎えようとしたことを咎められて斬られ、吐萬緒も憂憤のうちに道中で死んだ。
  • 代わって王世充が淮南兵を率いて討伐し、劉元進・朱爕を破ってその余党を降伏させた。だが王世充は「降れば助ける」と誓って集めた者たち三万余人を黄亭澗で埋め殺し、残党はかえって後々まで盗賊化した。煬帝はそれでも王世充の将帥ぶりを高く評価した。

杜伏威の興起

  • この年、盗賊となった者は家族没官とする詔が出され、官吏はこれを口実に生殺与奪をほしいままにした。
  • 章丘の杜伏威と臨濟の輔公祏は固い盟友で、ともに亡命して群盗となった。杜伏威はまだ十六歳だったが、退却時にはしんがりを務めるなど行動が際立ち、仲間から主将に推された。
  • 下邳の苗海潮も兵を集めていたが、杜伏威は輔公祏を使って降伏を促し、海潮は恐れてそのまま配下となった。
  • 杜伏威はさらに淮南を略奪して将軍を称し、江都留守の宋顥をおびき寄せて葦原に火を放ち、これを焼き殺した。
  • 海陵の趙破陳は杜伏威を侮って同盟を求めたが、杜伏威は酒を携えて会見し、その場で殺して兵を併合した。