正月 処羅可汗の分割統治
- 煬帝は、西突厥の処羅可汗の部衆を三分した。弟の闕度設には羸弱の者一万余口を与えて会寧に置き、特勒大奈には別の部衆を率いさせて楼煩に居らせた。
- 処羅本人には五百騎だけを率いさせて常に車駕に従わせ、「曷婆那可汗」の号を与え、賞賜も厚くした。
嵩高道士潘誕の誅殺
- 嵩高の道士潘誕は、自分は三百歳だと称し、煬帝のために金丹を錬ると申し出た。帝はそのため嵩陽観を造り、童男童女各百二十人を与え、官位も三品相当とし、多数の労役まで課した。
- 石胆・石髄が必要だとして、嵩高山の大石を深く掘らせること六年に及んだが、丹は成らなかった。
- 帝が責めると、潘誕は石胆・石髄の代わりに童男女の胆と髄を各三斛六斗得ればよいと言ったため、煬帝は激怒して涿郡で斬らせた。
- 潘誕は死に臨み、天子に福がなく、自分は兵解して梵摩天に生まれるなどと豪語した。
高麗親征をめぐる諫言
- 四方の兵が涿郡に集まる中、煬帝は合水令の庾質を召して、高麗は一郡の兵にも及ばぬだろう、必ず勝てるかと問うた。
- 庾質は、征伐すれば勝てるが、陛下が親征するのは望ましくない、ここにとどまり猛将に急進させれば勝機は大きいと諫めた。帝は不快となり、庾質を「自分が行くのを恐れるだけだ」と退けた。
- 右尚方署監事の耿詢もまた痛切な上書で諫めたが、煬帝は怒って斬ろうとし、何稠が必死に救ってようやく助かった。
正月壬午 高麗遠征軍の編成
- 左右十二軍が、それぞれ漢代以来の旧地名を冠した諸道に分かれて進軍し、最終的に平壌へ総集結する計画が定められた。動員兵力は百十三万三千八百人、名目上は二百万、さらにその倍の輸送従事者がついた。
- 南桑乾水上で社を祭り、臨朔宮南で上帝を類祭し、薊城北で馬祖を祀った。これは大軍出征の儀礼であった。
- 煬帝は各軍の大将・亜将に節度を自ら授け、騎兵・歩兵・輜重兵を色分けした四団制で編成させ、行軍・立営の順序も細かく定めた。
- 癸未、第一軍が出発し、以後一日に一軍ずつ四十里間隔で進んだ。全軍が出そろうまで四十日かかった。首尾は九百六十里に及び、御営と後続諸軍を合わせると、古来に例を見ない大軍であった。
二月から三月 重臣の死と段文振の遺表
- 二月、観徳王雄が死去した。
- 段文振は、高麗遠征に従う前に、突厥を塞内に置いて厚遇しすぎていることを憂え、早く塞外へ返し、烽候と辺備を整えるべきだと上表した。斛斯政が兵事を専掌していることも危うんでいた。
- 高麗遠征では段文振は南蘇道を進んだが、道中で病篤くなり、遺表で「高麗が降を称しても軽々しく受けてはならず、水陸ともに迅速に進んで平壌の孤城を早く衝くべきだ。秋雨に逢えば兵糧が尽き、靺鞨が背後から出て危うい」と訴えた。
- 三月、段文振は死去し、煬帝は深く惜しんだ。
三月 遼水渡河と遼東城攻囲
- 癸巳、煬帝みずから軍を進めて遼水に達した。諸軍は川に臨んで大陣を布いたが、高麗兵は対岸で拒んだため渡れなかった。
- 左屯衛大将軍の麦鉄杖は、病床で死ぬより戦死を望むと語り、前鋒を請うた。
- 宇文愷が浮橋三道を造ったが、橋が短く、東岸まで一丈余り届かなかった。そこへ高麗兵が大挙して来襲し、隋軍の勇者たちは水に飛び込んで戦ったが、岸へ上がれず多数が戦死した。
- 麦鉄杖は岸へ躍り上がり、銭士雄・孟义らとともに戦死した。隋軍はいったん橋を引き戻した。帝は鉄杖を宿公に追封し、その子らに官爵を与えた。
- 何稠があらためて橋を架け、二日で完成させると、諸軍は次々と渡河し、東岸で大勝して高麗兵一万余を斬った。
- そのまま遼東城を包囲した。ここは漢の襄平城にあたる。煬帝は遼を渡り、曷薩那可汗や高昌王麴伯雅に戦場を見せて威勢を誇った。
- さらに天下に大赦し、遼左の民に十年の給復を与え、郡県を置いて統治しようとした。
五月から六月 降伏をめぐる失策
- 五月、楊達が死去した。
- 出征に先立ち、煬帝は諸将に「功名欲しさの軽進は許さない。何事も必ず奏聞し、独断するな」と命じていた。
- そのため、遼東城が陥落しかけるたびに城中が降伏を申し出ても、諸将は勅命どおり急襲できず、まず飛脚で奏聞した。返報が届くころには高麗側の守備が整い、再び防戦した。
- これが二度三度と繰り返されたが、煬帝は自らの命令の弊害に気づかなかった。
- 六月己未、煬帝は遼東城南へ出て城の形勢を見たのち、諸将を呼んで「官位や家柄を頼みに怯えているのか、斬ることもできるのだぞ」と激しく責め立てた。
- 以後、城西数里に六合城を設けて駐し続けたが、高麗の諸城はいずれも堅守して落ちなかった。
来護児の海路作戦の失敗
- 右翊衛大将軍の来護児は、江淮の水軍を率いて数百里の艦隊で海路を先行し、浿水から入り、平壌の六十里手前で高麗軍と遭遇してこれを破った。
- 来護児はそのまま平壌へ迫ろうとしたが、副総管の周法尚は、諸軍の到着を待ってから共に進むべきだと諫めた。
- 来護児は聞き入れず、精鋭四万で城下に直進した。高麗側は外郭内の空寺に伏兵を隠し、出戦してわざと敗走した。
- 来護児はこれを追って入城し、兵は掠奪に走って隊伍を失った。そこへ伏兵が発して隋軍は大敗し、帰還できた兵は数千人に過ぎなかった。
- 高麗は船所まで追ったが、周法尚が整然と陣を構えて待ったため退却した。来護児は海浦へ退き、もはや諸軍との呼応もできなかった。
宇文述・于仲文の進軍
- 宇文述は扶餘道、于仲文は楽浪道、荊元恒は遼東道、薛世雄は沃沮道、辛世雄は玄菟道、張瑾は襄平道、趙孝才は碣石道、崔弘昇は遂城道、衛文昇は増地道をそれぞれ進み、鴨緑水西で会することとなった。
- 彼らには瀘河・懐遠二鎮から百日分の糧食が与えられ、さらに甲・槍・矟・衣資・幕など、一人当たり三石以上の重装備が課されたため、兵は重さに耐えられなかった。
- 遺棄した米粟は斬罪とされたので、兵士たちは道中で幕の下に穴を掘って食糧を埋め、実質的に途中で糧は尽きかけた。
乙支文徳の欺き
- 高麗は大臣の乙支文徳を宇文述・于仲文の陣へ遣わし、降伏を装って虚実を探らせた。
- 于仲文は密命で、高元や乙支文徳が来れば必ず捕えるよう命じられていた。だが慰撫使の劉士龍が強く止めたため、文徳を帰してしまった。
- 仲文は後悔して再度呼び戻そうとしたが、文徳は応じず、鴨緑水を渡って去った。
- 宇文述は糧尽を理由に撤退を主張したが、于仲文は精鋭で追えば功が立つと主張した。帝から諸軍の節度を委ねられていたこともあって、ついに諸将はこれに従った。
- 乙支文徳は、隋兵に飢えの色が見えるのを知り、わざと戦ってはすぐ退き、一日に七度戦って七度とも隋に小勝を与えた。
- 隋軍はこれで勢いづき、東へ進んで薩水を渡り、平壌城三十里の地点にまで迫って山を背に営した。
- すると文徳は再び使者を送り、もし軍を返せば高元を行在所へ朝させると約した。
- 宇文述は兵が疲弊し、平壌も険固で容易に落ちないと見て、その偽降を信じて撤退した。
七月 薩水の大敗
- 隋軍が方陣を作って退くと、高麗軍は四方から鈔撃した。
- 七月壬寅、薩水に至った時、軍の半ばが川を渡ったところで、高麗が後軍を急襲した。右屯衛将軍の辛世雄は戦死した。
- ここで諸軍は一斉に潰走し、統制がまったく利かなくなった。将士は昼夜兼行して鴨緑水まで逃げ、一日一夜で四百五十里を走った。
- 天水の王仁恭が殿軍となって高麗を防ぎ、ようやく来護児も敗報を聞いて退いた。衛文昇の一軍だけは比較的保全された。
- もともと九軍で三十万五千の兵が遼を渡ったが、帰還して遼東城に着いた者はわずか二千七百人で、軍需・器械も巨万を失った。
- 煬帝は激怒し、宇文述らを鎖して連行したのち、癸卯、全軍を引き揚げた。
百済の両属と戦果の空虚さ
- 以前、百済王璋は高麗討伐への参加を申し出ていたため、煬帝はその動静を探らせる役目も負わせていた。
- だが璋は内々に高麗とも通じており、隋軍が遼を渡ると、境上で兵を整えて援助するふりをしながら、実際には両属の態度を取った。
- この遠征で隋が得た実利は、遼水西方の高麗の武厲邏を抜き、遼東郡と通定鎮を置いたことにとどまった。
八月から九月 再出兵準備
- 八月、黎陽・洛口・太原などの倉の穀物を望海頓へ運ばせ、民部尚書の樊子蓋を涿郡留守とした。
- 九月、煬帝は東都に帰着した。
冬 処分と後日談
- 十月、宇文愷が死去した。
- 十一月、宗女を華容公主として高昌に嫁がせた。
- 宇文述はもとより寵臣で、その子の宇文化及ならぬ宇文士及が南陽公主の婿でもあったため、煬帝は彼を誅するに忍びず、于仲文らとともに官を奪って民とするにとどめた。劉士龍だけを斬って天下に謝した。
- 薛世雄は薩水敗戦後に白石山で高麗軍に包囲されたが、奮戦してこれを破ったため、ただ一人免官を免れた。
- 衛文昇は功により金紫光禄大夫となった。
- 諸将は責任を于仲文に押しつけ、帝も諸将を釈放した後、于仲文だけをしばらく繋いだ。仲文は憂憤から重病となり、出されてまもなく家で死んだ。
年末 旱疫と張衡の死
- この年は大旱と疫病が起こり、とくに山東で甚だしかった。
- すでに放廃されていた張衡に対して、煬帝はなお私的に監視を続けていた。遼東から帰還した後、張衡の妾が、衡が朝政を怨望し誹謗していると告げた。
- 帝は張衡に死を賜った。衡は臨終に際し、自分がどれほどの大事を成した人間だと思っているのか、それなのに長く生きられぬとは、と大声で叫んだ。
- 監刑者は耳を塞いで殺害を急がせた。