資治通鑑隋紀五 煬皇帝 大業 四年 608年

春正月 永済渠の開削

  • 河北の諸軍から百余万人を動員し、永済渠の開削を命じた。沁水を南へ導いて黄河北岸へ通じさせ、さらに涿郡まで結ぶ大工事で、総延長は二千里余りに及んだ。龍舟の通行も念頭に置かれていた。成年男子だけでは人数が足りず、ついには婦人まで土木作業に駆り出された。
  • 太府卿の元寿を内史令に任命した。

二月 西突厥の処羅可汗を懐柔

  • 裴矩は、西突厥の処羅可汗が母を慕っていることを見抜き、使者を送って招き寄せるよう進言した。
  • 崔君粛が詔書を持って赴くと、処羅可汗は無礼な態度で受け取ろうとした。そこで崔君粛は、啓民可汗が隋に臣従した事情や、母の向夫人の嘆願を引き合いに出し、このままでは母の命も国も失うと強く説いた。
  • 処羅可汗は態度を改め、涙を流して再拝し、詔書を受けた。さらに使者を隋へ同行させ、汗血馬を貢いだ。

三月 倭国の国書

  • 倭王の多利思比孤が朝貢し、国書を奉った。文面には「日出づる処の天子が、日没する処の天子に書を致す」とあり、対等を思わせる表現であった。
  • 煬帝はこれを不快に感じ、鴻臚卿に対し、無礼な蛮夷の書は以後取り次ぐなと命じた。

三月 北巡と行宮の設営

  • 煬帝は五原に行幸し、塞外へ出て長城を巡察した。途中の行宮には、分解・組立が可能な板城「六合城」を設けた。槍車・弩床・鉄菱・警報装置まで備えた移動式の防衛施設であった。
  • また、絶域に通じる者を募ったところ、屯田主事の常駿らが南海の赤土国へ赴くことを願い出た。煬帝は喜び、多くの賜物を持たせて派遣した。

宮苑造営への執着

  • 煬帝は日々、宮室の造営に心を奪われ、東西の都や江都の苑囿・殿閣が数多くあるにもかかわらず、なお満足しなかった。
  • 天下の山川図を集め、自ら見て回り、新たに宮苑を置くにふさわしい景勝地を探した。
  • 四月には、汾州北方の汾水源流に汾陽宮を造営するよう命じた。

齊王暕の失脚

  • 元徳太子が死去して以後、その地位を継ぐ可能性が高いと見られていた齊王暕は、元徳太子旧属の兵二万余を配され、帝も優れた僚属を選んで付けていた。長史には柳謇之が任ぜられた。
  • だが暕は次第に驕慢となり、小人を近づけた。近臣の喬令則・庫狄仲錡・陳智偉らは、美女の略取や良馬の強奪などをほしいままにした。
  • また、楽平公主が帝に薦めた柳氏の女を、後に暕が納れていたことも帝の不興を買った。
  • 暕が汾陽宮での大猟に従った際、帝の獲物が少なかったのを、側近たちが「暕の左右が獣の進路を妨げたためだ」と讒した。帝は暕の罪を探し始めた。
  • さらに、伊闕令の皇甫詡を禁を破って帯同した件を口実に、帝は暕の邸宅を大捜索させた。
  • その結果、亡き妃の姉である元氏の婦人との密通、皇后となる相があるとの占い、元徳太子の三子を憚って左道で厭勝を行っていたことなどが露見した。
  • 帝は激怒し、喬令則ら数人を斬り、妃の姉にも死を賜った。暕の府僚は辺地へ流され、柳謇之も矯正できなかった責めで免官された。
  • 煬帝は「もし他に子がいれば、市で処刑して国法を明らかにした」とまで言い、以後、暕への恩寵は急速に衰えた。京兆の職にはとどめたが、政務からは遠ざけ、虎賁郎将に府を監視させた。
  • 暕に属していた庾質の子のことを理由に、太史令の庾質も帝の怒りを受け、合水令へ左遷された。

秋七月 長城築造と吐谷渾への攻勢

  • 二十余万の丁男を徴発し、榆谷から東方へ長城を築かせた。
  • 裴矩の策で鉄勒を動かし、吐谷渾を攻撃させると、吐谷渾は大敗した。可汗の伏允は東へ逃げて西平の境内に入り、隋へ降伏と救援を求めた。
  • 煬帝は安徳王雄を澆河から、宇文述を西平から進発させて迎え撃たせた。だが伏允は隋軍を恐れて降らず、西へ逃走した。
  • 宇文述はこれを追い、曼頭・赤水の二城を抜き、三千余を斬り、王公以下二百人を捕え、男女四千口を虜として帰還した。
  • 伏允はさらに南の雪山へ逃れ、その故地は東西四千里・南北二千里にわたりほぼ空白となった。隋はここを接収し、州県と鎮戍を設け、軽罪の者を移住させた。

八月 恒岳の祭祀

  • 煬帝はみずから恒岳を祭り、大赦を行った。
  • 河北道の郡守が集まり、裴矩の働きで来朝していた西域十余国も祭祀を助けた。

九月 鷹師の召集

  • 天下の鷹師を東京に集めた。集まった者は一万人を超えた。

冬十月 新式の頒布と赤土国使節

  • 新しい度量衡の制度を天下に頒布した。
  • 常駿らは海路百余日を経て赤土国に達し、さらに一か月余りで都に至った。赤土王の利富多塞は盛大な礼で迎え、器物も住居もきわめて豪華であった。王はその子の那邪迦を随わせて入貢させた。

伊吾への進出

  • 煬帝は右翊衛将軍薛世雄を玉門道行軍大将として、啓民可汗と連携し伊吾を攻めさせた。
  • しかし啓民可汗の軍は来なかったため、薛世雄は単独で砂漠を越えて進軍した。伊吾側は隋軍が到達できないと思い備えを怠っていたため、隋軍の到着を聞いて恐れ、降伏した。
  • 薛世雄は漢の旧伊吾城の東に新城を築き、王威に千余の兵を与えて守らせ、自らは帰還した。