正月 東都への改称と均田
- 正月、東京を東都と改めた。
- 突厥の啓民可汗が来朝し、礼遇と賜与はいっそう厚くされた。
- また、天下に均田を行うよう命じた。
- 煬帝は東都から西へ還り、民間の鉄製の叉・鉤・短刃など、武器に転用しうる器具を禁制とした。
二月から四月 河右への西巡
- 二月に西京へ到着し、三月には河右への巡幸に出た。扶風の旧宅にも立ち寄った。
- 四月、臨津関から黄河を渡って西平に至り、軍を陳して軍事演習を行い、吐谷渾再討の構えを示した。
五月から六月 吐谷渾遠征
- 五月、拔延山で大猟を行い、広大な包囲網を敷いた。さらに長寧谷・星嶺・浩舋川へと進んだ。
- 浩舋川では橋が未完成だったため、煬帝は都水使者黄亘と工事監督者九人を斬った。数日後に橋が完成し、軍は前進した。
- 伏允は覆袁川に拠ったが、帝は元寿を金山、段文振を雪山、楊義臣を琵琶峡、張寿を泥嶺へ配して四面から包囲した。
- 伏允は数十騎で脱出し、名王を使って別の山に潜んでいると偽らせた。
- 張定和が追撃に向かったが、兵の少なさを軽んじて甲も着けずに山へ登り、伏兵に射殺された。副将の柳武建がその後に吐谷渾兵を破った。
- 吐谷渾の仙頭王窮䠞は、男女十余万口を率いて降伏した。
- 六月、梁黙らの追討軍は敗れて殺されたが、劉権は伊吾道から進んで青海・伏俟城方面まで追い、千余口を虜にした。
六月 張掖へ至り、西域諸国を集める
- 六月辛丑、煬帝は蔡徴に対し、江東の諸帝が深宮にこもって民と接しなかったことを批判し、自身の巡狩を正当化した。
- 丙午、張掖に到着した。煬帝はあらかじめ裴矩に命じて、高昌王麴伯雅や伊吾吐屯設ら西域諸国を厚利で誘い、来朝させていた。
- 壬子、燕支山に至ると、麴伯雅・吐屯設らと西域二十七国が道左に列して拝謁した。皆に金玉を佩び、錦罽をまとわせ、香を焚き音楽や歌舞を奏させた。
- さらに武威・張掖の士女にも華麗な装いを命じ、中国の繁盛ぶりを誇示した。
- 吐屯設は西域数千里の地を献じ、煬帝は大いに喜んだ。
- そこで西海・河源・鄯善・且末などの郡を置き、罪人を戍卒として配し、劉権に河源郡・積石鎮を守らせ、大規模な屯田を開き、西域への道を通そうとした。
- この時、全国の郡は百九十、県は千二百五十五、戸数は八百九十万余に達し、隋の版図と勢力は極盛に達した。
西方経営の負担
- 裴矩はこの西域経営の功により銀青光禄大夫へ進んだ。
- しかし西京近辺の諸県や西北の諸郡から、塞外へ大量の物資輸送が毎年強いられた。輸送費は巨額で、道は険しく、寇盗にも遭い、人畜の損耗が甚だしかった。
- 到着しなかった分まで郡県が民家に賠償させたため、百姓は生業を失い、西方から先に疲弊していった。
吐谷渾の後継擁立
- 以前から隋に来朝していた伏允の子・順を、煬帝は帰国させずに手元に置いていた。
- 伏允が敗走したため、帝は順を新たな可汗に立て、大宝王尼洛周を補佐として付け、残党をまとめさせようとして玉門から送り出した。
- だが西平に至ると部下が尼洛周を殺し、順はついに吐谷渾へ入れず、そのまま帰還した。
六月から七月 観風殿の大宴と青海の馬牧
- 丙辰、観風殿で文物を整え、高昌王麴伯雅・伊吾吐屯設を殿上に引き上げて宴を開いた。ほか二十余国の使者も庭に列し、九部楽や魚龍の戯を見せて歓待し、賜与を与えた。
- 戊午、大赦を行った。
- 吐谷渾には、青海に牝馬を放つと龍種を得るという俗説があったため、七月、青海に馬牧を設け、牝馬二千頭を放ってみたが、成果はなかった。
東還途上の遭難
- 煬帝が東へ帰る途中、大斗拔谷を通過した際、山道は狭く、隊列は魚貫となった。
- 風雪は激しく、文武の官人も兵士も飢えと寒さに苦しみ、前営に追いつけず、凍死者は過半に及んだ。馬や驢馬もほとんど失われ、後宮の妃や公主でさえ軍士と入り交じって山中に宿らねばならなかった。
- 九月、ようやく西京へ入った。
十一月 再び東都へ
戸籍の厳格化と裴藴の台頭
- 民部侍郎の裴藴は、戸籍の脱漏や年齢偽装が多いと上奏し、容貌による検査を行わせた。もし一人でも虚偽があれば、担当官を罷免し、告発した者にはその家に代わって租賦役を負わせる制度を設けた。
- この年、各郡の帳簿では新たに二十万三千丁、新附の口六十四万余が計上された。
- 煬帝はこれを裴藴の功と賞し、しだいに信任を深めた。やがて裴藴は御史大夫となり、裴矩・虞世基とともに機密に参与した。
- 彼は帝意を敏感に察し、帝が罪したい者には法を曲げて重く、赦したい者には軽典に附して釈放するなど、裁判を思うままに操った。刑部・大理も逆らえず、進止を受けてから判決するようになった。
年末 啓民可汗の死と薛道衡の誅殺
- 突厥の啓民可汗が死去すると、煬帝は三日間朝を止め、その子の咄吉を立てて始畢可汗とした。公主を求婚したので、突厥の風俗に従ってこれを許した。
- かつて高名な文人・薛道衡は、先帝を称える文章を作って煬帝の不興を買っていた。さらに新令の審議が長引く中で、「もし高熲が生きていればとっくに決着しただろう」と発言したことが讒奏された。
- 煬帝はこれを逆意ありとみなし、裴藴もまた無君・悖逆の情ありと断じた。
- 道衡は大事には至らぬと高を括り、赦免を期待して家に客を迎える用意までしていたが、ついに自尽を命じられた。決断できずにいると、再命で絞殺され、妻子は且末へ流された。天下はこれを冤とした。
- また、軍備の点検で甲兵の優秀さを見た煬帝は、宇文述の推薦によって雲定興を太府丞へ抜擢した。