春三月 仁寿宮行幸
突厥の掠奪と楊素の追撃
- 突厥の思力俟斤らが南へ河を渡り、啓民可汗の男女六千口と雑畜二十余万を奪って去った。
- 楊素は諸軍を率いて追撃し、六十余里にわたって転戦しつつ大破した。
- 敵が北へ逃げると、さらに夜に追いつき、越えて逃げられぬよう騎兵をやや後ろに置いて、自ら二騎と降った突厥二人だけを伴って敵に並進した。敵が気づかぬうちに宿営を定めかけたところを合図して後軍に襲わせ、大勝した。
- 奪われた人畜はことごとく取り戻され、啓民可汗はこの後、磧の南で脅かされることがなくなった。楊素の子楊玄感は柱国に進み、楊玄縦は淮南公に封じられた。
柳述と韋雲起
- 兵部尚書柳述は柳慶の孫で、蘭陵公主を娶り、寵愛を恃んで勢いが強く、楊素らも彼に一歩引いていた。
- 文帝が外で不便なことはないかと韋雲起に問うたところ、雲起は、柳述は驕り高ぶり、兵事の機務を知らず、ただ帝の女婿であるため重職にあるので、官は賢者を選ばず私愛に偏るとのそしりを受けるだろうと奏した。
- 文帝はその言葉を是とし、柳述に対して、これは薬石の言であり師友とすべきだと諭した。
- 七月丙戌、内外官に人材推薦を命じると、柳述は韋雲起を推挙し、雲起は通事舎人に任じられた。
蜀王秀への疑念
- 益州総管の蜀王楊秀は容貌が立派で胆気があり、武芸を好んだ。文帝は独孤后に、秀はきっと悪い末路をたどり、自分の生前はよいが兄弟の代になると必ず反くとしばしば語っていた。
- 劉噲が西爨を討った際、楊武通を後続に送ることになったが、秀は寵臣万智光をその行軍司馬にした。文帝は、人選が不適切だとして叱責し、法を壊すのは外人ではなく子孫だと嘆いた。
- 元巌の死後、秀は次第に奢り高ぶり、渾天儀を造り、山獠を多く捕えて宦者にし、車馬や服飾も乗輿に準じるほどになった。
- 太子勇が廃され楊広が立つと、秀はこれを快く思わなかった。太子広は、秀が将来の患いになることを恐れ、密かに楊素に罪を求めさせて中傷させた。
秀の徴召と益州からの連行
- 文帝は秀を徴したが、秀は病を口実にしてなかなか出発しようとしなかった。
- 総管司馬源師が、今遅延すれば民衆は王の真意を知らず、朝廷が雷霆の詔と使者を下せば弁明できなくなると涙ながらに諫めたが、秀は怒って取り合わなかった。
- 朝廷は秀が変を起こすことを恐れ、戊子、原州総管独孤楷を益州総管に任じて急使で交代させた。
- 独孤楷が着いても秀はなお出発を渋ったが、長く説得されてようやく京師へ向かった。楷は途中、秀が後悔して襲ってくる気配を察して兵を備えたため、秀は四十余里進んでから引き返して襲うことを思いとどまった。
八月 独孤后の崩御と太子広の偽装
- 八月甲子、独孤后が崩じた。
- 太子広は文帝や宮人の前では息絶えそうなほど哀しみを示したが、私室では飲食・言笑が平常どおりであった。
- また朝ごとに米二溢を進めるよう命じつつ、裏では脂肉・脯・鮓を竹筒に詰め、蝋で密封して衣包みに隠し入れさせていた。
王劭の祥瑞奏上
- 著作郎王劭は、仏典には善人が天上や無量寿国に生まれるとき、仏が大光明や香花・音楽をもって迎えるとあると奏した。
- さらに、大行皇后は妙善菩薩であるという秘記に符合し、八月二十二日に仁寿宮に金銀花が降り、二十三日夜には大宝殿後方に神光があり、二十四日卯時には永安宮北で自然の音楽が響き、夜明け前に皇后は眠るように昇遐したと述べた。
- 文帝はこれを見て、悲しみつつも喜んだ。
九月以後 帰京と五礼修定
- 九月丙戌、文帝は仁寿宮から帰京した。
- 冬十月癸丑、工部尚書楊達を納言とした。
- 閏月甲申、楊素・蘇威・牛弘らに五礼の修定を命じた。
文献皇后の葬地と蕭吉
- 文帝は上儀同三司蕭吉に皇后の葬地を選ばせた。蕭吉は、その地なら二千年の王朝、二百代の世系が保てると述べた。
- 文帝は、吉凶は人によるのであって地によるのではない、高緯も父を葬る地を卜しただろうが国は亡びたし、自家の墓地が不吉なら自分は天子になれず、凶でないなら弟は戦死しなかったはずだ、と述べた。
- それでも結局は蕭吉の選地に従った。
- 蕭吉は退いて一族の蕭平仲に、太子から宇文左率を通じて、以前自分が太子になると占ったことが当たり、今は早く即位できるよう陵墓の占地を頼むと深く感謝されたと語った。
- さらに蕭吉は、四年後に太子が天下を治めると告げたが、もし太子が政を執れば隋は亡ぶだろう、自分が「二千年」「二百世」と言ったのは文字数や「世二伝」を取っただけの虚言だと明かした。
冬 文献皇后の葬儀と楊素の受賞
- 壬寅、文献皇后を太陵に葬った。
- 文帝は、楊素が葬事の経営に勤め、吉地を求めたのは誠孝の至りで、平戎定寇の功とは別に賞すべきだとして、別に一子を義康公に封じ、一万戸・田三十頃・絹一万段・米一万石・金珠綾錦などを賜った。
蜀王秀の糾問
- 蜀王秀が長安に着くと、文帝は初日は会っても語らず、翌日、使者を通じて厳しく責めた。
- 秀は謝罪し、太子・諸王も庭に流涕して謝したが、文帝は、秦王俊の浪費には父として教えたものの、秀は民を害した以上、今度は君として法で縛ると言った。
- 開府儀同三司慶整が、すでに庶人勇は廃され、秦王も死に、文帝には会える子が少ないのに、なぜそこまで厳しくするのか、秀は性格が激しいので自殺しかねないと諫めたところ、文帝は怒ってその舌を断とうとし、市で斬って民に謝したいとまで言った。
- 楊素らに取り調べを命じると、太子広は密かに偶人を作り、手を縛り心に釘を打ち、枷や手かせを付け、文帝と漢王諒の名を書き、西岳の慈父聖母に楊堅・楊諒の魂をこの形に収めて散らさぬよう願う呪詛を付して、華山の下に埋めていた。それが楊素に暴かれた。
- さらに秀が図讖を妄説し、京師に妖異がある、蜀地には祥瑞が出ると称し、檄文を作って罪を問う日を期すなどの文書も、その文集の中から取り出されて奏聞された。
- 文帝は、天下にこのようなことがあろうかと驚き怒った。
十二月 秀の廃位
- 十二月癸巳、蜀王秀は庶人に落とされ、内侍省に幽閉された。妻子との面会も禁じられ、獠婢二人だけが身の回りを世話した。
- 連座者は百余人にのぼった。
- 秀は、自分の息があるうちにただ愛子の瓜子と会わせてほしい、せめて葬られる一穴だけでも賜りたいと上表して謝罪した。
- 文帝は詔を下してその十罪を数え上げ、そもそも楊堅・楊諒が秀の何の縁者だというのかと責めたが、のちには子との同居だけは許した。
柳彧の失脚
- 以前、楊素が小さな譴責を受けて南台に送られたとき、治書侍御史柳彧がその取り調べにあたった。楊素が権勢を恃んで彧の席に座ると、彧は外から戻って階下で笏を正し、勅命であなたを取り調べるのだと言って素を座から下ろし、自らは机に着いて素を庭に立たせた。
- 楊素はこのことを恨み続けていた。
- その後、蜀王秀がかつて柳彧から李文博の『治道集』を求めて受け取り、返礼として奴婢十口を贈っていたことを理由に、楊素は内臣が諸侯と交通したと弾劾し、柳彧は除名のうえ懐遠鎮へ配流された。
趙仲卿の深文
- 文帝は司農卿趙仲卿を益州に派遣し、秀の事件を徹底的に調べさせた。
- 秀の賓客が通った先々で、仲卿は必ず法律を厳格に当てはめ、州県長吏で処罰された者は半数を超えた。
- 文帝はこれを有能として厚く賞した。
裴粛の建言
- 久しくして、貝州長史裴粛は使者を遣わして上書し、高熲は天成の才と開国の功を持ちながら人々に憎まれて廃されているので、大功を録して小過を忘れてほしいと願った。
- また、二人の庶人、すなわち勇と秀も罪を得て久しく、心を改めることもあるだろうから、小国に封じてその行動を見、善に向かえば徐々に恩を加え、もし改めねばその時に削ればよい、自新の道を永く塞いではならないと説いた。
- 文帝は楊素に、裴粛は自分の家のことを憂えているので、これも至誠だと語り、裴粛を召した。
- 太子はこれを聞いて張衡に、勇が改心して帰ってきたらどうするのかと問うた。張衡は、裴粛の考えは吳太伯や漢の東海王彊のような遠ざけた名目上の安置だろうと答えた。
- 裴粛が来ると、文帝は面と向かって勇を再起用できない理由だけを説明し、退けた。
楊素一門の驕奢と梁毗の上書
- 楊素の弟の楊約、従父の楊文思・楊文紀、族父の楊忌らはみな尚書・列卿となり、子らも戦功なくして柱国や刺史に昇った。
- 彼の資産経営は京師から諸方の都会におよび、邸店・碾磑・田宅は数えきれず、家僮や後庭の妓妾も千を数えた。邸宅は宮禁に比せられるほど華美で、親族や旧吏は要職に満ちていた。
- 一太子と一王を廃したことで権勢はいよいよ強まり、逆らう者は誅され、取り入る者や縁者は無能でも抜擢された。朝廷はみな恐れて服した。
- これに抗して屈しなかったのは、柳彧・李綱・梁毗らだけであった。
- 梁毗はかつて西寧州刺史として十一年在任し、蛮夷の酋長たちが金の多寡で豪族の優劣を争っていたのを見て、彼らが贈る黄金を前に泣き、この物は飢えを満たせず寒さも防げず、互いを滅ぼすだけだ、これで私まで殺すつもりかと諭したところ、蛮夷は感化され争わなくなった。
- のちに大理卿となると、法を平正に扱った。
- 梁毗は楊素の専権を国家の患いと恐れ、封事を上げて、権勢が日ごとに増し、搢紳が彼の耳目となり、逆らえば夏にも霜が降るように処罰され、へつらえば冬にも甘雨が降るように恩恵を受ける、興廃はその指一つで決まり、親族子弟が州県を埋め、天下に事が起これば禍の始まりになると警告した。
- 王莽や桓玄の先例を引き、もし楊素を阿衡のように遇するつもりなら、その心が伊尹とは限らないと諫め、古今を量って処置してほしいと願った。
- 文帝は激怒して梁毗を獄に下し、自ら詰問した。梁毗は、楊素は寵を恃んで権を弄び、太子勇と蜀王秀が廃される日にも百官は震えたのに素だけは得意の色を見せ、国家に事があるのを自分の幸いとしているとまで言った。
- 文帝は反論できず、結局これを釈放した。
- その後、文帝自身も次第に楊素を疎み、僕射は細務に親しむべきでないとして、三、五日ごとに一度尚書省へ出て大事だけ評議せよと勅した。外では優遇に見せながら、実際にはその権を奪う措置であった。
- さらに楊約を伊州刺史に出し、楊素は仁寿年間の終わりまで尚書省の実務判事に復さなかった。
柳述の台頭
- 楊素が疎まれると、吏部尚書柳述がますます用いられ、兵部尚書の事を兼ね、機密にも参掌した。
- 楊素はこれを憎んだ。
賀若弼の人物評
- 太子が賀若弼に、楊素・韓擒虎・史万歳はいずれも良将とされるが優劣はどうかと問うた。
- 弼は、楊素は猛将であって謀将ではなく、韓擒虎は闘将であって領将ではなく、史万歳は驍将であって大将ではないと答えた。
- では大将は誰かと問われると、弼は拝して「ただ殿下のお選びになるところです」と答え、自分をも含めている気配をにおわせた。
交州の李佛子平定
- 交州で俚帥の李佛子が乱を起こし、越王故城に拠って、その兄の子李大権を龍編城に、別帥李普鼎を烏延城に置いた。
- 楊素は、瓜州刺史の劉方には将帥の才略があると推挙し、文帝は彼を交州道行軍総管として二十七営を率いさせた。
- 劉方は軍紀厳正で違反者は必ず斬ったが、同時に士卒を愛し、病者には自ら臨んで撫養したため、兵も彼を慕った。
- 都隆嶺で賊を撃破して進軍し、佛子の営を前に禍福を説いて降伏させ、佛子を長安へ送った。