資治通鑑隋紀二 高祖文皇帝 開皇 十五年 595年
正月・二月 東巡と泰山祭祀
- 文帝は斉州に駐まり、泰山に壇を築いて柴燎し、天に祀って旱魃の罪を謝した。礼は南郊祭に準じ、さらに青帝壇も自ら祭って天下に大赦を行った。
二月 兵器没収
- 天下の兵器を回収し、私造を禁じた。違反者は処罰されたが、関中や辺境の防衛上必要な地域は例外とされた。
三月 仁寿宮完成と文帝の怒り
- 東巡から帰ると仁寿宮が完成していた。文帝はそこへ赴いた。
- しかし酷暑の中で工事をした人夫が道々で死に、楊素がその死体を焼き払って隠していたことを聞いて文帝は不快に感じた。
- 宮殿の規模や装飾があまりに壮麗なのを見て、「楊素は民力を尽くして離宮を築き、わがために天下の怨みを結ばせた」と怒った。
- 楊素は恐れて封徳彝に相談した。封徳彝は皇后が来れば取りなしてくれると見込んだ。
- その通り、独孤皇后は翌日、帝王に離宮・別館は当然あり、天下太平のもとで一宮を造るのは大した浪費ではないと文帝を諭した。
- 文帝は態度を和らげ、楊素を召し入れてねぎらい、巨額の金銭と絹を与えた。
- 楊素は日ごろ封徳彝の才能を重んじ、たびたび宰相の任について語り合い、「いずれこの座に就くべきだ」とまで評していた。その推薦により、封徳彝は内史舎人に抜擢された。
四月・六月 恩赦と底柱開削
- 四月朔日、天下に大赦があった。
- 六月、黄河中流の底柱山の開削を命じ、河道の改善を図った。
度を越した献上への処分
- 相州刺史の豆盧通が美しい綾模様の布を献上したが、文帝は朝堂でこれを焼かせた。贅沢を戒めたものである。
七月 蘇威の再失脚と復位
- 蘇威は泰山祭祀に従った際の不敬を理由に罷免されたが、まもなく復職した。
- 文帝は群臣に対し、蘇威が家に金玉を積みながら清廉を装うという俗説は虚妄だが、性格が剛戻で世情に疎く、名声を求めすぎ、従う者を喜び逆らう者に怒る点が大きな欠点だと評した。
冬 韋世康の荊州総管転出
- 文帝は仁寿宮から帰還した。
- 十月、吏部尚書の韋世康を荊州総管に任じた。韋世康は温厚・謙退で、長く官界にあって清廉公平と評されていた。
- 彼は子弟に、禄は多ければよいものではなく、満ちれば退くべきだと語っていた。病もあって引退を願ったが許されず、代わりに荊州に出された。
- 当時、天下で総管府の中でも特に重いのは并・揚・益・荊の四つであり、晋王・秦王・蜀王と韋世康がこれを領したため、きわめて名誉とされた。
温湯行幸と刑令
- 十一月、文帝は驪山の温湯へ行幸した。
- 十二月、辺境の軍糧を一升でも盗めば斬罪とし、家族まで籍没するよう命じた。
- また、文武官は四考で交代する制度を定めた。
令狐熙の善政
- 汴州刺史の令狐熙が朝見した。考課の成績が天下第一とされ、帛三百匹を賜って天下にその名を知らせた。
- 令狐熙は令狐整の子である。