資治通鑑隋紀一 高祖文皇帝 開皇十一年 591年

春正月・二月 皇太子妃の死去と吐谷渾の服属

  • 正月、皇太子妃の元氏が薨じた。これは後に文帝と独孤皇后が太子を憎んで廃する遠因となる。
  • 二月、吐谷渾が使者を送って朝貢した。可汗夸呂は陳の滅亡を聞いて大いに恐れ、要害にこもって侵攻を控えていたが、まもなく死去し、その子の世伏が立った。
  • 世伏は兄の子の無素を入朝させ、藩臣として従うこと、方物を献じること、さらに娘を後宮に入れたいことを願い出た。
  • 文帝は、これを認めれば他国も競って同じ請願をしてくる、そもそも自分は諸国が安んじて本性を全うすることを望むのであり、女子を集めて後宮を満たすつもりはないとして断った。

良吏の顕彰

  • 平郷県令の劉曠は、義理をもって訴訟人を教え諭し、自ら過ちを認めて帰らせたため、獄には草が生え、庭に網が張れるほど訴訟がなかった。
  • その後、臨潁令に移ると、高熲がその清廉と善政を天下第一として推薦した。文帝は召し出して励まし、特別の恩賞を与えねば他の励みにならぬとして、莒州刺史に抜擢した。
  • 二月晦日には日食が起きた。

滕穆王瓚の死

  • かつて文帝がまだ周の臣だったころ、滕穆王瓚とは不仲であった。楊堅が周の相となったとき、瓚は禍が一族に及ぶことを恐れ、ひそかに楊堅を除こうと考えたという。
  • 瓚の妃は周高祖の妹・順陽公主で、独孤皇后と平素から不和であり、ひそかに呪詛したこともあった。文帝はこれを追い出そうとしたが、瓚は応じなかった。
  • 秋八月、文帝が栗園に行幸した際、瓚は急死した。人々は毒殺を疑った。
  • 文帝は栗園から帰り、ほどなく鄭訳も死去した。