資治通鑑隋紀二 高祖文皇帝 開皇 十二年 592年

春二月 何妥と蘇威一派の対立

  • 蜀王秀が内史令・兼右領軍大将軍に任じられた。
  • 国子博士の何妥は、尚書右僕射の蘇威と政務上たびたび対立していた。蘇威の子の蘇夔が太子通事舎人となり、楽制をめぐる議論でも何妥と真っ向から争った。百官に賛否を記させると、蘇威の権勢を背景に蘇夔支持が大半を占めた。
  • 何妥はこれを恥として、蘇威・盧愷・薛道衡・王弘・李同和らが徒党を組んでいると上奏し、さらに蘇威が縁者を不正に登用したことなども訴えた。
  • 文帝は蜀王秀や虞慶則らに調査を命じ、その結果、蘇威側にも非があると見なした。

秋七月 蘇威失脚と朋党事件

  • 蘇威は官爵を奪われ、開府儀同三司として自宅謹慎となった。盧愷は官籍を除かれ、蘇威に連なる名士百余人も連座した。
  • この背景には、盧愷や薛道衡が人材選抜で門地や人物をより厳密に見分けようとしたことがあり、そのため党派を作ったとの非難を招いた面もあった。
  • ただし文帝はまもなく、蘇威は徳行のある人物だが周囲に誤られたのだと述べ、再び宮中への出入りを許した。

蘇威の施策と朗茂

  • 蘇威は細かな規定を作ることを好み、毎年、地方に民間の「五品の不遜」を報告させたが、地方官からは「そのような家は管内にない」といった要領を得ない返答が多く、実務に結び付かなかった。
  • また、余剰穀物の台帳を作って不足地域へ融通させようとしたが、民部侍郎の朗茂が煩雑で急務ではないと反対し、これらの策は停止された。
  • 朗茂は地方官時代、兄弟不和の民を厳罰ではなく教化で和解させたことで知られた。

法制の整備

  • 己巳、文帝は太廟を祭った。
  • 晦日に日食があった。
  • 文帝は、同じ罪でも法解釈の食い違いが多いことを問題視し、八月、各州で死刑を独断で執行してはならず、すべて大理寺で再審し、その後に上奏して裁可を仰ぐよう命じた。

冬 祭祀と韓擒虎の死

  • 十月、文帝は再び太廟を祭った。
  • 十一月、南郊で天を祀った。
  • 新義公の韓擒虎が死去した。陳を平定した功臣だったが、吏部の議論により、それ以上の加封は受けていなかった。

十二月 楊素の登用と賀若弼の失意

  • 楊素が内史令から尚書右僕射となり、高熲とともに朝政を主導した。
  • 楊素は弁舌と才気に優れ、朝臣の評価にも露骨な序列をつけ、敬う者と見下す者との差が激しかった。政略や才芸では高熲に劣らなかったが、誠実さや大局観では及ばなかった。
  • 賀若弼は自分の功名が朝廷随一だと自負し、宰相になれると思っていたが、楊素が僕射となっても自分は将軍のままだったため不満をあらわにした。
  • 文帝は賀若弼を獄に下し、以前に高熲・楊素を「ただ飯を食うくらいしか能がない」と公言した理由を問いただした。賀若弼は高熲は旧知、楊素は妻方の縁者であり、その人物を知った上で言ったと認めた。
  • 公卿は死罪相当としたが、文帝は賀若弼が陳平定の大功を持つことを思い、結局は除名にとどめた。のちに爵位は戻したが、重要職には再び就けなかった。
  • ただし宴席などでの待遇は厚かった。

財政の充実と民力への配慮

  • 府庫が満ちて廊下や庇にまで物資が積まれていると有司が報告すると、文帝は民に軽税を敷き、また大きな恩賞も与えているのになぜかと驚いた。実際には歳入が歳出を上回っていたため、左蔵院を新設して収納させた。
  • 文帝は、国庫に積むより人民の手元に蓄えさせる方がよいとして、河北・河東の今年の田租を三分の一減免し、兵役負担を半減、功・調を全免した。
  • この頃、戸口は毎年増加していたが、京畿と三河は土地が少なく人口が多いため、生活が苦しくなっていた。文帝は使者を派遣して全国の田地を均分させたが、狭い地域では成人男子一人当たり二十畝ほどにしかならず、老人や子どもはさらに少なかった。