春正月 隋軍が江を渡り、陳攻略を開始
- 春正月朔、陳の宮中では濃霧が立ちこめ、朝会の最中に陳主が眠り込み、午後になってようやく目を覚ますという不吉な始まりとなった。
- この日、賀若弼は広陵からひそかに長江を渡った。彼は以前から老馬を口実に陳の船を買い集めて隠し、また兵の交代や演習、狩猟を利用して江辺で大がかりな動きを繰り返し、陳側に「またいつもの示威だ」と思わせて油断させていた。
- 韓擒虎も別働隊を率い、夜のうちに横江から采石へ渡河した。守備兵は酒に酔っており、采石はたちまち奪われた。
- 晋王楊広は大軍を率いて六合に進み、桃葉山方面に陣した。
陳朝の対応の混乱
- 采石陥落の報が建康に届くと、陳主は公卿を集めて対応を協議し、蕭摩訶・樊毅・魯広達らに都督を命じ、司馬消難・施文慶らを大監軍とした。
- 樊猛には水軍を率いて白下へ向かわせ、臯文奏には南豫州の防衛を命じた。戦時体制のため、僧尼や道士まで動員された。
- しかし陳主はもともと臆病で、軍の実情もよく理解していなかった。宮中で泣き暮らし、実務はほとんど施文慶に委ねられた。
- 施文慶は諸将を信用せず、また彼らが功を立てることを恐れて進言を妨げたため、将軍たちの提案はほとんど実行されなかった。
京口・姑孰の陥落
- 賀若弼は京口を攻め落とし、南徐州刺史黄恪を捕らえた。軍律を厳格に守らせ、民間で勝手に酒を買った兵は即座に処刑したため、軍は整然としていた。捕虜にした者たちは多くを解放し、食糧を与えたうえで各地に勅書を持たせ、降伏を勧めさせた。
- 韓擒虎は姑孰を半日で陥落させ、樊猛の子・樊巡とその家族を捕らえた。
- 江南では韓擒虎の名声が広く知られており、各地の長老や豪族が昼夜を問わず彼の陣営を訪れた。魯広達の子らも新蔡で降伏した。
- 韓擒虎は魯広達に書を送り帰順を勧めたが、魯広達は建康にいて自ら罪を問うべく出頭した。陳主はこれを慰め、黄金を与えて持ち場へ戻した。
隋軍、建康へ迫る
- 賀若弼は北から、韓擒虎は南から進み、江沿いの陳の諸砦は戦わずして次々に逃げ散った。
- 賀若弼は曲阿方面の要路を押さえ、三呉から建康への救援が入るのを防いだ。
- 陳主は豫章王叔英を朝堂、蕭摩訶を楽遊苑、樊毅を耆闍寺、魯広達を白土岡、孔範を宝田寺に置き、任忠も呉興から呼び戻して朱雀門に置いた。
- 賀若弼は鐘山に拠り、杜彦と韓擒虎の軍も新林に屯し、王世積の水軍は九江方面から進んで蘄口で陳軍を破った。これにより降る者が続出した。
陳の作戦論争と決戦準備
- 建康にはなお十数万の兵がいたが、陳主は定見を持たず、台内の処分も施文慶任せで、軍を統一できなかった。
- 蕭摩訶は、賀若弼が深く入り込みまだ陣地も固まっていないうちに奇襲すべきだと再三主張したが、陳主は聞き入れなかった。
- 任忠は、持久戦に持ち込み、江路を断ち、さらに自ら精兵と戦船を率いて六合を奇襲すれば、隋軍の士気を挫けると進言した。また春水が増せば上流の周羅睺らの水軍も来援できると説いたが、これも採用されなかった。
- 翌日、陳主は急に決戦を望み、孔範も阿諛してこれに賛成したため、蕭摩訶に出撃が命じられた。
甲申 白土岡の戦いで陳軍大敗
- 陳軍は白土岡一帯に南北二十里にわたって布陣したが、各軍の連絡が悪く、首尾の統一を欠いていた。
- 賀若弼はわずか八千ほどの精兵でこれを迎え撃った。魯広達だけは奮戦し、隋軍を何度も押し返した。
- しかし陳軍は戦果として敵の首級を得るたびに後方へ賞を求めて走り、隊列を乱した。賀若弼はそこにつけ込み、孔範の軍に向けて兵を進めたところ、孔範軍はたちまち崩れ、全軍が連鎖的に潰走した。
- 蕭摩訶は捕らえられたが、賀若弼はその態度を見て処刑を取りやめ、礼をもって遇した。
- 任忠は敗報を建康に伝え、陳主に上流への脱出を勧めたが、これは実際には自分が逃れるための口実だった。
建康陥落と陳叔宝の捕縛
- 韓擒虎が新林から進軍すると、任忠は石子岡で隋軍に降り、そのまま韓擒虎を朱雀門へ導いた。
- 朱雀航を守っていた蔡徴の軍は崩れ、任忠は「自分すら降ったのだ、諸軍は何をするのか」と呼びかけ、抵抗は霧散した。
- 宮城では百官の多くが逃げ去り、袁憲ら数人だけが残った。袁憲は陳主に、正殿に座して国君として遇すべきだと諫めたが、陳主は聞かず、後宮へ逃げ込んだ。
- 陳主は景陽殿の井戸に身を投げようとしたが、後閤舎人夏侯公韻がこれを止めた。それでもついに井戸に入ったため、隋兵が探し出し、張貴妃・孔貴嬪とともに引き上げた。この井戸は後に胭脂井・辱井として知られた。
- 沈后は平静を保ち、太子陳深も扉を閉めて静かに座し、侵入した兵をねぎらったため、兵士たちも敬意を示した。
- 魯広達は最後まで戦ったが、日暮れに兵を解き、台城に向かって二度拝礼して国を救えなかったことを泣いて詫び、捕らえられた。
- 賀若弼も入城し、陳叔宝に面会して「小国の君が大国の臣に礼をとるのは当然であり、恐れることはない」と告げたが、韓擒虎より先に功を独占できなかったことを恥じ、互いに口論する場面もあった。
- 高熲は建康に入ると、晋王広の意向で張麗華を助けようとした広の記室・高徳弘の要請を退け、武王が妲己を誅した例を引いて、張麗華を青渓で斬らせた。楊広はこれを恨みに思った。
戦後処分と陳の諸勢力の降伏
- 晋王広は建康に入ると、施文慶・沈客卿・陽慧朗・徐析・暨慧景ら、陳政権を腐敗させた者たちを石闕下で斬って三呉の人々に謝罪した。
- 高熲と裴矩が図籍・府庫を押収したが、財貨を私に取ることはなく、世評を高めた。
- 賀若弼は軍令違反で一時拘束されたが、文帝はその功を認め、大いに賞した。
- 王頒は父王僧辯を殺された恨みから、夜中に陳高祖の陵を暴いて遺骨を焼き、その灰を水に投じて飲んだ。晋王広に自首したが、文帝はこれを赦した。
- 文帝は陳の滅亡を許善心に知らせた。彼は喪服で三日間泣き続け、その忠義を文帝に高く評価された。以後、通直散騎常侍として門下省に仕えることになる。
上江・江南全域の平定
- 江夏では周羅睺と荀法尚が守り、秦王俊の大軍と一か月以上対峙していた。
- 西方では呂忠肅が江峡・巫峡方面に鉄鎖を渡して隋の舟軍を阻んだが、楊素・劉仁恩がこれを何度も攻め、ついに破った。忠肅は私財まで軍用に投じて奮戦したが敗走し、荆門延洲でも再度破られた。
- 顧覚が安蜀城を棄て、陳慧紀は公安から東へ退いて楼船千余艘・兵三万を率い建康救援を図ったが、秦王俊に阻まれた。巴州では晋熙王叔文が盟主に担がれたものの、すでに降伏の書を送っていた。
- 建康陥落後、晋王広は陳叔宝の自筆書を用いて上流の諸将に降伏を勧めた。周羅睺は三日間喪に服して兵を解散してから秦王俊に降り、陳慧紀もまた降伏した。上江はこれで平定された。
- 王世積も蘄口から江南諸郡に告諭し、江州司馬黄偲が逃亡、豫章諸郡も次々に降った。
二月以後 地方反抗の鎮圧
- 二月、淮南行台省が廃された。
- 蘇威は五百家ごとに郷正を置き民間訴訟を扱わせるよう奏請した。李徳林は、かえって私情と不正が増えると反対したが、文帝は聞かず、郷正と里長の制度を施行した。
- 呉州では蕭瓛が民望を得て陳の遺民に推されて挙兵し、陳君範もこれに合流した。宇文述・元契・張黙言らと、海路から来た燕栄がこれを討ち、蕭瓛は太湖の包山に拠ったが敗れて捕えられ、蕭巌とともに長安で斬られた。
- 湘州では岳陽王叔慎が若年ながら義兵を募り、謝基や遂興侯正理らも死節を誓った。龐暉を欺いて城に誘い込み斬ったうえ、数日で五千兵を集めたが、薛胄・劉仁恩に敗れ、叔慎・鄔居業らは捕えられて漢口で処刑された。
嶺南の帰順
- 嶺南では高凉郡の洗氏が諸郡の盟主として境を守っていた。文帝は韋洸を派遣して安撫にあたらせたが、陳の徐璒が南康に拠って進軍を阻んだ。
- 晋王広は陳叔宝の書を洗氏に送り、国が亡んだことを知らせて隋への帰順を促した。洗氏は号泣したのち、孫の馮魂に兵を率いさせて韋洸を迎えさせ、韋洸は徐璒を討って広州に入り、嶺南諸州を説得して帰服させた。
- これにより陳の全土が平定された。陳は高祖以来三十三年、五代で滅んだ。
- 隋は州三十・郡百・県四百を得た。建康の城邑・宮室は破却され、石頭に蔣州が置かれた。
三月以後 凱旋・献俘・論功行賞
- 三月、陳叔宝以下の王公百司は建康を発し長安へ送られた。人数が多く、道中五百里にわたって途切れなかった。文帝は住居を整え、使者を出して手厚く迎えた。
- 四月、文帝は驪山まで出向いて凱旋軍を労い、太廟に俘虜を献じた。陳叔宝・諸王侯・将相・乗輿・服御・図籍なども整然と列された。
- 文帝は陳の君臣に詔して失政を責めたのち、最終的には赦した。司馬消難だけは旧恩を考えて死罪を免じ、楽戸に落とされたのち、ほどなく許された。
- 将士には莫大な絹帛が与えられ、陳の旧領には十年の給復が認められた。元諧が陳叔宝や突厥可汗を卑しい役に使うよう進言したが、文帝は「平陳は逆を除くためであり、誇示のためではない」と退けた。
- 楊素は越公に進められ、賀若弼・韓擒虎も上柱国・宋公などに進み、多くの賞を受けた。韓擒虎は陳宮での部下の乱行を咎められ、爵位の加増は見送られた。
- 高熲も上柱国・斉公となり厚く賞された。文帝は讒言を退けて自らの信任を示した。
- 李徳林は平陳の方略立案に関わったが、その功を高熲が諸将の不満を恐れて表に出させず、柱国封公の恩賞は取り消された。
- 秦王俊は揚州総管として広陵に鎮し、晋王広は并州に還った。
乙未以後 陳旧臣の処分と任用
- 陳の残る佞臣として、孔範・王瑳・王儀・沈瓘らの罪が明らかになり、辺境へ流して呉越の人々に謝した。
- 文帝は陳叔宝を厚遇し、三品相当の待遇で宴にも列させた。ただし心を痛めさせぬよう、呉の音楽は演奏させなかった。陳叔宝が官名を望んだと聞くと、文帝はその軽薄さに呆れたが、飲酒については「そうでもしなければ日を過ごせまい」と容認した。
- 陳氏の子弟が都で問題を起こさぬよう、辺州に分置し、田地と生活の手当てを与えた。
- 江総・袁憲・蕭摩訶・任忠らには開府儀同三司などが授けられ、姚察は秘書丞となった。袁憲は人格を賞され、昌州刺史に任ぜられた。袁元友も直言のゆえに抜擢された。
- 文帝は、任忠が国の重任を負いながら降伏したことを強く非難し、忠臣弘演のような節義とはあまりに遠いと語った。
- 周羅睺は陳への恩を忘れぬ態度を示し、文帝はこれを評価して上儀同三司とした。羊翔が上位に置かれているのを韓擒虎がからかうと、周羅睺は韓擒虎の言葉こそ節士らしくないと応じ、韓擒虎は恥じ入った。
- 巴州で早くから降伏していた陳叔文は、自らの先見を誇って特別扱いを願い出、文帝はその不忠を嫌いながらも江南懐柔のため宜州刺史とした。
- かつて楊堅の将来を見抜いていた韋鼎は、陳平定後に召されて上儀同三司とされた。
壬戌 武器停止・天下教化の詔
- 文帝は、天下が統一され太平を行うべき時であるとして、軍器を停止し、民間の武具を廃棄し、兵の子弟にも経書を学ばせるよう命じた。
- 賀若弼は自らの平陳策を「御授の七策」として献上したが、文帝は名誉を誇る意図を嫌い、家伝に記すだけにせよと答えた。
- 賀若弼はこのころ極めて栄達し、兄弟も郡公、本人も財宝・婢妾に富み、世人に羨望された。
- 突厥の使者が来た際、文帝は韓擒虎を示して「陳の天子を捕えた者だ」と言わせ、異民族を威服させた。
元諧誅殺
- 元諧は豪放で気骨があり、文帝の旧友でもあったが、率直で人に媚びず、王誼とも親しかったため、しだいに猜疑を受けた。
- ついに田鸞・祈緒らと謀反を企てたとして摘発され、党項兵を動かして巴蜀を断とうとしたとも告発された。
- さらに、元諧が殿上の文帝を「賊」と呼んだとか、田鸞に人相・気色を見させて自分たちの方に福徳の気があると語ったことまで問題にされ、元諧・元滂・田鸞・祈緒は処刑された。
閏月以後 朝廷人事と封禅拒否
- 閏月、蘇威が右僕射となった。
- 六月、楊素が納言となると、朝野では封禅を勧める声が起こった。しかし文帝は「一将軍が一小国を滅ぼした程度で天下太平とは言えず、徳の薄い自分が名山で虚名を求めることはしない」として、以後この話題を禁じた。
- 広平王雄は高熲・虞慶則・蘇威と並ぶ「四貴」と称されたが、寛厚で人望が高かったため、文帝はかえってこれを嫌い、司空に転じて兵権を奪った。雄は門を閉ざして客を遠ざけ、身を守った。
音楽制度の論争
- 郑訳は古楽の十二律・七声を復元しようとし、龜茲出身の蘇祇婆から琵琶の調法を学んで、十二均八十四調を説いた。さらに七音の外に「応声」を立て、論書を朝廷に示した。
- 蘇夔も黍を用いた律の測定を論じたが、何妥は学識ある自負からこれを妬み、牛弘も音律に通じなかったため、朝廷では異論が対立した。
- 何妥は、皇帝に黄鐘一宮だけで十分だと印象づけるため実演を利用し、文帝はこれを気に入ってその説を採用した。
- 楽工の万宝常は鋭く音律を理解していたが、鄭訳・蘇夔らの楽を「亡国の音」と批判し、水尺で律を定める方法を提案した。しかしその音は清雅すぎて当時の好みに合わず、蘇威らにも抑えられて用いられなかった。
- 平陳後、江南から宋・斉以来の楽器と楽工を得ると、文帝はこれを華夏の正声として重んじた。牛弘は、旧来の中原音楽の多くが江左に伝わっていたこと、荆州・建康の平定で梁陳の楽を得たことを挙げ、これをもとに雅楽を整えるべきだと奏した。後魏・後周以来の胡声は停止され、太常には清商署が置かれた。
冬十二月 地方統治と善政
- 周法尚が永州総管となり、嶺南を安撫した。桂州の銭季卿らは降伏し、定州の呂子廊だけが山洞に拠って従わなかったが、周法尚がこれを斬った。
- 辛公義は岷州刺史となった。当地では疫病になると家族が患者を見捨てる風俗があり、多くが死んでいた。辛公義は患者を自らの官舎に運び込ませ、昼夜看護し、治癒すると「病は必ずしも伝染するものではない」と諭したため、住民は恥じて風俗を改めた。
- のちに并州刺史となると、まず牢獄に入り、十数日で未決囚を処理し尽くしてから政務に就いた。訴訟の処理も迅速で、必要なら自ら役所に泊まり込んで審理したので、民は訴えを起こすこと自体を恥じるようになった。