春 諸王封建と隋の対陳檄
- 春正月辛巳、陳は皇子恮を東陽王、恬を銭塘王に立てた。
- 袁雅らを隋へ派遣した。
- また散騎常侍周羅㬋に兵を授けて峡口に屯させ、隋の峡州を侵させた。
- 三月甲戌、隋は程尚賢らを陳へ派遣した。
- 戊寅、隋主は詔を下して陳叔宝の罪を数え上げた。国土の狭小さに満足せず、民の財を奪い、労役を重ね、奢侈を極め、諫臣を殺し、鬼神に媚び、婦女に武備をまとわせるほど政道を失ったと非難し、しかも隣国との約を背き国境を騒がせている以上、出師して呉越を一挙に平らげるべきだとした。
- あわせて璽書で後主の二十悪を暴き、その詔書三十万通を書き写して江南一帯に散布し、広く民心を揺さぶった。
太子廃立
- 太子胤は聡敏で文学を好んだが、過失も少なくなかった。詹事袁憲が厳しく諫めても聞き入れなかった。
- 沈后が寵を失っていたところへ、近侍がしばしば東宮と后のもとを往来したため、後主は二人が怨望しているのではないかと疑い、深く憎むようになった。
- 張・孔二貴妃は日夜、沈后と太子の短所を作り上げ、孔範一派も外からこれを助けた。
- 後主は張貴妃の子である始安王深を立てたいと考え、折に触れてその意を漏らした。吏部尚書蔡徴はこれに迎合したが、袁憲は顔色を変えて、皇太子は国家の根本であり、軽々しく廃立を論ずべきではないと強く押し返した。
- しかし後主はついに蔡徴の議を採り、夏五月庚子、太子胤を呉興王に降し、始安王深を皇太子に立てた。
- 蔡徴は蔡景歴の子であり、深は聡慧で志操もあり、容止も整っていて、近侍ですらその喜怒を見たことがないほどであった。
- 後主は、かつて胤を諫めた袁憲を用いて尚書僕射とした。
沈后
- 後主は沈后をもともと厚遇していなかったうえ、張貴妃が後宮の政を専らにした。
- それでも沈后は淡泊で、嫉妬や恨みを表に出さず、生活もつねに質素で、衣服にも錦繍を用いず、ただ経史や仏典を読んで過ごした。
- しばしば上書して諫争したため、後主はこれを廃して張貴妃を立てたいと思ったが、国が亡んだため実行できなかった。
冬 隋の行省設置と大挙南征
- 冬十月己亥、陳は皇子蕃を呉郡王に立てた。
- 己未、隋は淮南行省を寿春に置き、晋王広を尚書令とした。
- 陳は王琬・許善心を隋へ派遣したが、隋は客館に留め置き、帰国の願いも許さなかった。
- 甲子、隋は出師に先立って太廟に告げ、晋王広・秦王俊・清河公楊素をいずれも行軍元帥とした。
- 晋王広は六合から、秦王俊は襄陽から、楊素は永安から、荆州刺史劉仁恩は江陵から、蘄州刺史王世積は蘄春から、廬州総管韓擒虎は廬江から、呉州総管賀若弼は広陵から、青州総管燕栄は東海から、それぞれ出撃した。
- 総管は九十、兵は五十一万八千に及び、すべて晋王の節度を受けた。東は滄海、西は巴蜀にいたるまで、旌旗と舟楫が数千里に連なった。
- 左僕射高熲を晋王元帥長史、右僕射王韶を司馬とし、軍務の大半はこの二人が裁決し、補給・配置も滞りなく進めた。
- 十一月丁卯、隋主はみずから将士を餞し、乙亥には定城に至った。
- 陳では軍を集めて誓衆した。
- 丙子、皇弟叔栄を新昌王、叔匡を太原王に立てた。
- 隋主は河東へ赴き、十二月庚子に長安へ帰還した。
突厥の再変動
- 突厥の莫何可汗は西方の隣国を攻めた際、流れ矢に当たって死んだ。
- 国人は雍虞閭を立て、頡伽施多那都藍可汗と号した。
隋軍の勝算
- 隋軍が江に臨むと、高熲は薛道衡に江東攻略の成否を問うた。
- 道衡は、郭璞が「江東の分王三百年」と言った数がまもなく尽きること、隋主は恭倹勤労だが叔宝は荒淫驕侈であること、陳は江総を宰相として詩酒にふけらせ、施文慶に政を任せ、任蛮奴や蕭摩訶を大将にしていること、兵力も西は巫峡から東は滄海まで分散すれば弱く、集めれば守りに欠けることを挙げ、必勝を断言した。
- 高熲はその分析に深く感じ入った。
長江上流の戦い 流頭灘・狼尾灘
- 秦王俊は諸軍を統べて漢口に屯し、上流方面の節度を担当した。陳は周羅㬋を都督巴峡縁江諸軍事としてこれに対抗させた。
- 楊素は舟師を率いて三峡を下り、流頭灘に達した。陳の将軍戚昕は青龍船百余艘をもって狼尾灘を守り、その地勢は険しく、隋軍は苦しんだ。
- 楊素は、昼に進めば敵に虚実を見られ、激流では船の制御も効きにくいとして、夜襲を決断した。
- 自ら黄龍船数千艘を率いて銜枚して下り、王長襲に南岸の別柵を攻めさせ、劉仁恩に北岸から白沙へ急行させた。
- 明け方に攻撃すると、戚昕は敗走し、その兵はことごとく捕えられた。楊素は彼らを労って帰し、秋毫も犯さなかった。
- こうして楊素は水軍を率いて東下し、艦船は江を覆い、旌甲は日を映した。陳人はその雄偉な姿を見て、「清河公こそ江神だ」と恐れた。
陳朝の錯乱
- 江辺の鎮戍から隋軍到来の報が相次いで届いたが、施文慶・沈客卿はこれを抑えて後主に伝えなかった。
- もともと後主は、梁宗室の蕭巌・蕭瓛が多数を率いて来奔したのを忌み、その部衆を分散させて、巌を東揚州刺史、瓛を呉州刺史に任じ、さらに任忠に呉興を守らせて両州をつなぐ形にした。
- また南平王嶷を江州、永嘉王彦を南徐州に置いたが、のち二王を翌年正月の元会に出席させるため還京させ、沿江の防船艦もみなそれに従わせた。梁人に対し威容を示すためであったが、このため江中に戦船が一隻もなくなり、上流諸州の兵も楊素軍に遮られて到着できなかった。
- 湘州刺史晋熙王叔文は在職久しく人望が厚かったが、後主は上流を握ることをひそかに忌み、群臣には恩が薄く誰も頼めないとして、施文慶を都督湘州刺史に抜擢し、精兵二千を与えて西上させようとした。そして叔文を朝廷へ召し返した。
- 施文慶はこの任命を喜んだものの、いったん外に出れば自分の欠点を握られることを恐れ、党与の沈客卿を後任に据えて権力を維持しようとした。出発前のあいだ、二人はともに機密を掌握した。
樊毅・袁憲らの進言と施文慶の妨害
- 護軍将軍樊毅は袁憲に対し、京口と采石はともに要地であり、それぞれ精兵五千と金翅船二百を置いて沿江の防備を固めるべきだと述べた。
- 袁憲も驃騎将軍蕭摩訶もこれに賛成し、文武百官とともに上奏した。
- しかし施文慶は、自分に従う兵がなくなるのを恐れてこの計画を嫌った。沈客卿も、施文慶が赴任してしまえば自分の専権が失われるのを惜しんだため、二人は、朝廷で面陳する必要はなく、文書で出せば自分たちが取り次ぐと言って議論を封じた。
- 奏啓が入ると、後主に対して「いつもの辺境の小事にすぎず、辺将で十分対処できます」と申し立てた。
- 隋軍が江に迫り、間諜の報告が急を告げても、袁憲らが繰り返し出兵を求めるたびに、施文慶は「元会と南郊が近く、太子の供奉も多い。今兵を出せば儀礼が廃れる」と言って妨げた。後主が「とりあえず出兵し、北辺に何もなければ水軍を郊祀に従わせればよい」と言っても、今度は「そんなことをすれば国が弱いと思われる」と言い換えた。
- さらに江総を賄賂で動かして内々に遊説させ、後主がその意に逆らえないようにした。
- かくして議論は長引き、ついに決しなかった。
- 後主は平素から「王気はこの地にあり、斉兵三度、周師二度来たが皆敗れたではないか」と語っていた。
- 都官尚書孔範もまた、「長江の天塹が南北を隔てる。虜軍がどうして飛んで渡れようか。辺将が功を欲して急を偽っているだけだ。もし虜が江を渡れば、自分は必ず太尉公になる」と豪語した。さらに「北軍の馬が死ぬ」という報には、「それは我々の馬になるだけだ」と笑った。
- 後主はこれをもっともだと思い、真剣な備えをしなかった。
- そのため朝廷では奏伎・飲酒・賦詩が止むことなく続いた。
吐谷渾の禆王降伏問題
- この年、吐谷渾の禆王拓跋木弥が千余家を率いて隋に降ろうとした。
- 隋主は、天下の者はみな自分の臣民であり、仁孝をもって撫育したいとしつつも、夫に叛き父に背く者をそのまま収めることはできないとした。
- ただし彼らの本意は死を避けることであり、拒めばまた不仁になるとして、今後も音信があれば慰撫し、自力で抜け出して来るに任せ、兵を出して迎える必要はないと命じた。
- その妹夫や甥が来る場合も同様で、ことさらに誘うべきではないとした。
河南王移茲裒の死
- 河南王移茲裒が死去した。隋主はその弟の樹帰に命じて後を継がせ、部衆を統べさせた。