正月・陳宣帝の崩御と始興王叔陵の反乱
- 春正月、陳の宣帝は病が重くなり、太子と始興王叔陵・長沙王叔堅が侍疾した。叔陵はひそかに異志を抱き、薬刀を研がせるなど不穏な動きを見せた。
- 甲寅、宣帝が崩じると、翌日の小斂の場で、太子が哀哭して伏した隙をついて、叔陵は薬刀で太子の首筋を斬りつけた。柳皇后も助けに入って傷を負い、乳母呉氏が叔陵の肘を引いて太子を逃がした。叔堅は叔陵を取り押さえたが、叔陵は脱走した。
- 叔陵は東府へ帰って道路を遮断し、囚人を放って兵に加え、金帛で賞し、城上から兵を募った。新安王伯固だけがこれに応じた。
- 叔堅は柳太后の命を受け、太子舎人司馬申を通じて蕭摩訶を招き入れた。蕭摩訶は兵数百を率いて東府を攻め、叔陵の使者を斬って城中に示した。叔陵は敗勢を悟り、妃や寵姫を井戸に沈めたうえで、新林から隋へ逃れようとしたが、途中で追撃を受けた。伯固は乱兵に殺され、叔陵も陳仲華に斬られて乱は終息した。
- 叔陵の子らはみな死を賜り、伯固の子らは庶人に落とされた。叔陵の側近である韋諒・彭暠・鄭信・俞公喜らも誅された。
陳後主の即位
- 丁巳、太子が即位した。これが後主である。大赦が行われた。
隋の地方統治強化
- 辛酉、隋は河北道行台を并州に置き、晋王広を尚書令とした。西南道行台を益州に置き、蜀王秀を尚書令とした。
- 隋主は、北周が宗室を弱くしたために滅んだと考え、二人の子を方面統治に当たらせた。ただし若年であるため、王韶・李雄・李徹・元巖ら、剛直で声望ある人物を僚佐として配した。
- この人選は有効で、二王が奢侈や非法に傾こうとすると、僚佐たちはしばしば拒絶し、時には門を押さえてでも諫めたため、王たちは法を越えた行いをしにくかった。
- また秦王俊を河南道行台尚書令とし、洛州刺史として関東の兵を統べさせた。
叔堅・蕭摩訶・司馬申の処遇
- 癸亥、長沙王叔堅は驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史となった。蕭摩訶は車騎将軍・南徐州刺史となり、綏遠公に封じられた。始興王家に蓄えられていた莫大な金帛も褒賞として与えられた。
- 司馬申は中書通事舍人となった。
- 乙丑、柳皇后は皇太后となった。後主は負傷して承香殿に臥し、政務を見られなかったため、しばらく百官のことは柏梁殿の太后が裁決した。傷が癒えると、政務は後主に返された。
- 丁卯、皇弟叔重が始興王に封じられ、叔陵に代わって昭烈王の祭祀を継いだ。
陳と隋の講和
- 隋の元景山は漢口から出て、鄧孝儒に兵四千を率いさせて甑山鎮を攻めた。陸綸が水軍で救援したが敗れ、溳口・甑山・沌陽の守将は城を棄てて逃げた。
- 戊辰、陳は隋に和を請い、前年に奪った胡墅を返還した。
皇后・諸王の冊立
- 己巳、妃沈氏が皇后に立てられた。
- 辛未、叔儼を尋陽王、叔慎を岳陽王、叔達を義陽王、叔熊を巴山王、叔虞を武昌王に封じた。叔達はのち唐に仕えて名を上げる人物である。
隋の「不伐喪」
- 隋では高熲が、礼に「喪を伐たず」とあるとして、陳の先帝崩御に際して出兵を続けるべきでないと奏した。
- 二月己丑、隋主はこれを認めて、諸軍に撤兵を命じた。
陳の人事
- 三月己巳、晉安王伯恭は湘州刺史に出され、永陽王伯智が尚書僕射となった。
突厥侵攻と隋の防戦
- 夏四月、隋の韓僧寿が鶏頭山で突厥を破り、李充も河北山で勝利した。
- 丙申、後主は永康公胤を皇太子に立てた。生母は孫姫で、沈皇后が養母となっていた。
高宝寧と突厥の大侵攻
- 五月、高宝寧は突厥を引き入れて平州を侵させた。突厥は五可汗の兵、控弦の士四十万を発して長城内へ入った。
- 壬戌、隋の于翼が死去した。
- 甲子、隋は伝国璽を「受命璽」と改称した。
隋の都城遷建計画
- 六月、隋は使者を送って陳を弔問した。
- 同月、李充が馬邑で突厥を破り、賀婁子幹も蘭州・凉州方面で敵を破った。
- 隋主は長安の旧城が狭く、宮中に怪異も多いことから遷都を考えた。蘇威が勧め、高熲とともに密議していたところ、庾季才が天象と図讖から遷都の徴ありと奏した。李穆も上表して賛同し、帝は決断した。
- 丙申、高熲らに龍首山で新都の造営を命じ、宇文愷を副監として工事を統括させた。
秋冬の陳・隋
- 秋七月、陳は大赦を行った。
- 九月丙午、後主は太極殿で仏教の「無礙大会」を設け、自らの身や乗輿・御服を仏に捨てる形式をとって大赦した。
- その後、長沙王叔堅を司空とし、将軍・刺史は従前のままとした。
- 冬十月、隋は太子勇に咸陽で兵を屯させ、突厥に備えた。
- 十二月、隋は新都を「大興城」と命名した。さらに虞慶則を弘化に駐屯させた。達奚長儒は兵二千で沙鉢略可汗の十余万に遭遇し、三日にわたり十四戦して死闘を続けた。武器が尽きると素手で戦い、殺傷は万を数えた。長儒自身も五か所負傷したが、帝はその功を賞して上柱国に進めた。
- 一方、馮昱・叱列長乂・李崇らは各地で突厥に敗れ、西北辺の諸州は大きな被害を受けた。六畜もほとんど失われた。
- だが沙鉢略がさらに南下しようとすると、達頭は従わず兵を引いた。さらに長孫晟が沙鉢略の子染干に偽情報を吹き込み、鉄勒が牙帳を襲うと信じさせたため、沙鉢略は兵を返して塞外へ出た。
- 隋主は梁主を厚遇しており、この年、その娘を晋王広の妃に迎え、さらに子の蕭瑒を蘭陵公主に尚ばせようとした。このため江陵総管は廃止され、梁主はようやく自国を専断できるようになった。