資治通鑑陳紀九 高宗宣皇帝下之下 太建十三年 581年

春正月・陳と北周末の人事

  • 陳では、晉安王伯恭が尚書左僕射となり、吏部尚書の袁憲が右僕射に任じられた。袁憲は袁樞の弟である。
  • 北周ではこの年、年号を大定と改めた。

二月・楊堅が北周から禅譲を受けて隋を建てる

  • 隋王楊堅は、相国としての百官統率権と九錫を正式に受けたのち、官府を整備した。王妃独孤氏を王后、世子楊勇を太子に立てた。
  • 庾季才・李穆・盧賁らは、天命に応じて帝位を受けるべきだと楊堅に勧めた。庾季才の進言は、天文・術数の判断に基づくものであったとみられる。
  • 北周の静帝は別宮に退き、冊書と璽綬が楊堅に渡され、帝位が隋に移った。こうして北周は滅び、隋が成立した。隋主はもと随公であったが、国号は字形を改めて「隋」とした。
  • 即位した隋主は服制を改め、遠遊冠から黄袍・のちに袞冕へと装いを変え、正月大朝会に準じた儀礼で臨光殿に出た。大赦を行い、年号を開皇とした。南郊に受命を告げる祭祀も命じた。

隋の中央制度の整備

  • 隋主は元孝矩を洛陽鎮守に出し、崔仲方の進言に従って、北周の六官制を廃し、漢魏以来の制度に近い官制へ改めた。
  • 三師・三公、尚書・門下・内史・秘書・内侍の五省、御史・都水の二台、太常以下の十一寺、左右衛などの十二府を置き、職掌を分けた。勲官十一等、散官七等も定め、功績や名望ある文武官を処遇した。
  • 侍中は納言と改称され、高熲が尚書左僕射兼納言、虞慶則が内史監兼吏部尚書、李徳林が内史令となった。

隋皇室の追尊と北周宗室の降格

  • 隋主は父楊忠を武元皇帝、母呂氏を元明皇后と追尊し、太祖廟を立てた。独孤氏を皇后、楊勇を皇太子に冊立し、趙煚を尚書右僕射とした。
  • 北周の静帝は介公に降封され、宇文氏の諸王もみな公へと格下げされた。

楽平公主と禅譲後の動揺

  • かつて劉昉・鄭訳が矯詔で楊堅に輔政を命じた際、楊皇后は当初これを喜んだが、のちに父に帝位簒奪の意志があると知って不快に思った。禅譲後はその憤りがいよいよ深くなった。
  • 隋主は内心でこれを恥じ、彼女を楽平公主に改封したが、その節を奪おうとしても応じさせられなかった。

旧臣たちの反応と李淵の婚姻

  • 隋主は旧知の栄建緒に、しばらく待って共に富貴を取ろうと誘ったが、建緒は厳しく拒んだ。即位後、隋主がなおそのことをからかうと、建緒は徐広や楊彪になぞらえて節義を示し、帝も笑って受け流した。
  • 竇毅の娘は隋の受禅を聞くと、自ら身を投げて宇文氏を救えないことを嘆いた。竇毅はその気概を見込み、成長後に李淵へ嫁がせた。李淵が史書に現れるのはこのあたりである。

宇文氏の誅殺をめぐる議論

  • 虞慶則は、宇文氏を根絶やしにすべきだと隋主に勧めた。高熲・楊恵もはっきり反対しなかったが、李徳林だけは強く不可を主張した。
  • しかし隋主は聞き入れず、北周太祖・明帝・武帝・宣帝の系統に属する諸王を殺した。これにより李徳林は、以後官位が伸び悩んだ。

隋の論功行賞と重臣の待遇

  • 隋主は弟の楊慧を滕王、楊爽を衛王とし、子の楊広を晋王、楊俊を秦王、楊秀を越王、楊諒を漢王に封じた。
  • 李穆には受命に協力したことを感謝する詔を与え、入朝後は太師とし、特別な礼遇を加えた。子孫まで一門に高位を授けたため、象牙の笏を持つ者が百人を超えたという。
  • 竇熾を太傅、于翼を太尉とした。李穆が老いを理由に辞職を願うと、隋主は周の呂尚・漢の張蒼になぞらえ、朝会の出席を免じ、大事があれば邸に赴いて意見を問うことにした。

蘇威の登用

  • 蘇威は名臣蘇綽の子で、若くして令名があったが、宇文護に娘婿とされてからは禍を避けて山寺に退き、読書に日を送った。周の高祖や宣帝が任官しようとしても固辞していた。
  • 高熲の推薦で隋主に召されると、よくその意にかなった。禅譲が近いと知っていったん郷里に退いたが、即位後に太子少保として召し出され、父には邳公が追封され、蘇威がその爵を継いだ。

南辺への備え

  • 三月、賀若弼が呉州総管として広陵に、韓擒虎が廬州総管として廬江に置かれた。
  • 隋主は江南併呑の志を抱き、高熲の勧めでこの二人を南辺に配し、密かに将来の攻略準備を進めさせた。

蘇威の軽税改革と信任

  • 蘇綽はかつて財政難のため重税を定めたが、それは平時の法ではないとして後世の緩和を望んでいた。蘇威はその言葉を受け継ぎ、度支尚書として租税・力役の軽減を上奏し、隋主はこれをすべて採用した。
  • 蘇威は高熲とともに朝政を参与し、帝の信任を深めた。帝が怒ってある役人を殿前で殺そうとした時には、面前で強く諫め、ついに思いとどまらせた。
  • その後も納言・度支尚書・大理卿・京兆尹・御史大夫などを兼ねたため、梁毗が多職兼任と後継者を立てぬことを弾劾したが、帝は取り合わず、かえって蘇威を高く評価した。
  • 蘇威は、父から『孝経』一巻で立身治国に足ると教えられたと語り、帝も深く同意した。

高熲の辞退と再任

  • 高熲は権勢を避けるために辞職を願い出た。帝はいったん認めて蘇威を立てようとしたが、まもなく高熲を再び左僕射に戻した。
  • 高熲と蘇威は心を合わせて政務を助け、大事小事に至るまで帝と協議してから実施したので、隋の建国後数年で天下はよく治まったと評された。

劉昉・盧賁らの失脚

  • 太子左庶子の盧賁は、高熲・蘇威が政権を握るのを快く思わず、疎まれていた劉昉らと結んで二人を追い落とし、自分たち五人で輔政しようと図った。さらに、晋王広が帝に寵愛されていることも利用しようとした。
  • だが計画は漏れ、帝は徹底して取り調べた。公卿は張賓と盧賁を死罪にすべきと奏したが、帝は旧功に免じて、二人とも官を剥奪して庶民とした。

梁・隋関係と散楽の解放

  • 四月、梁主は弟の巌を隋に派遣して、受命を祝賀させた。
  • 隋では大赦を行い、太常に属していた散楽の者たちを民に戻し、雑劇を禁じた。
  • 陳から周に派遣されていた韋鼎・王瑳は、長安到着時にはすでに隋が成立していたため、介公となった旧周帝のもとへ送られた。

韋冲による稽胡の帰順

  • 隋主は韋冲を召し、長城築造の途上で逃亡・反乱した汾州の稽胡をどう扱うべきか問うた。
  • 韋冲は、異民族の反覆は牧守の失政が原因であり、道理をもって撫慰すれば兵を使わずに収められると答えた。帝はこれを採用し、韋冲の慰撫により、一月余りで反乱者は皆帰順し、長城工事にも復帰した。韋冲は韋夐の子である。

周静帝の死と挙哀

  • 五月、隋主は邘公雄を広平王、永康公弘を河間王に封じた。
  • まもなく、隋主はひそかに周静帝を害しながら、表向きには深く哀悼して恭陵に葬り、一族の洛に後を継がせた。

服制・色彩の制定

  • 六月、隋は郊廟の冕服を儒教経典に従って整えるよう命じた。朝会の服、旗幟、犠牲は赤を尊び、戎服は黄、常服は雑色を用いることとした。隋は自らを火徳と位置づけていた。
  • 七月、隋主は黄服を正式に着用し、百官もこれを祝賀した。以後、百官の常服は庶民と同じく黄袍となり、朝服も概ね同じで、十三環の帯だけで区別した。

東京官の廃止と吐谷渾征討

  • 八月、隋は旧東京の官を廃止した。
  • 吐谷渾が凉州に侵入すると、隋主は元諧を行軍元帥として数万の兵を送った。元諧は豊利山で吐谷渾を破り、さらに青海で太子可博汗も打ち破った。多数を討ち捕え、その王侯三十人が相次いで降ったため、可汗夸呂は親兵を率いて遠く逃れた。
  • 隋主は高寧王移兹裒を河南王に封じて降民を統率させ、元諧を寧州刺史とし、賀婁子幹を凉州に留めて防衛に当たらせた。

陳・隋間の緊張

  • 九月、陳の周羅睺が江北の胡墅を攻め落とし、蕭摩訶もまた江北を攻撃した。
  • 一方、隋では奉車都尉于宣敏が、巴蜀は沃野であり人も多く、周が衰えたため王謙が乱を起こしたのだとして、宗室の藩鎮を置くべきだと勧めた。隋主はこれを善しとし、越王秀を益州総管とし、蜀王に改封した。

南征準備と五銖銭の統一

  • 隋は長孫覧・元景山を行軍元帥として発兵し、南朝方面へ侵攻させ、高熲に諸軍の節度を命じた。
  • また、周・斉以来の貨幣が種類も価値も乱れていたため、隋主は新たに五銖銭を鋳造し、旧銭・私鋳銭を禁止した。規格外の銭は没収して溶解させ、貨幣制度の統一が進んだ。

鄭訳の失脚

  • 鄭訳は、上柱国として帰第させられ厚い賞を受けたものの、自分が疎外されたと感じ、道士に命を託して醮を行い福を祈った。
  • そのことが婢に告発され、さらに母と別居していた不孝も問題視されて弾劾された。隋主は、朝廷で誅すれば不忠、地下に送れば不孝で置き場がないと皮肉り、死罪にはせず、『孝経』を与えて母と同居させ、官爵を剥奪した。

開皇律の制定

  • 周の法律は斉律に近く、煩雑で要点を失っていたため、隋主は高熲・鄭訳・楊素・裴政らに命じて改定を進めた。裴政は法制実務に通じ、疑問点は多く彼の判断に委ねられた。
  • その結果、梟首・車裂・鞭刑を廃し、謀反以上を除いて一族連座をなくした。死刑は絞・斬の二種、流刑三、徒刑五、杖刑五、笞刑五を基本とし、議・請・減・贖・官当などの規定を設けて士大夫を優遇した。
  • 拷問も制限し、打擲は二百を超えてはならず、枷杖の規格も統一された。民に冤屈があって県・郡・州が取り上げない場合は、順次上級機関を経て最後は朝廷に直訴できるとした。
  • 冬十月、新律を施行した。詔では、梟首・轘・鞭は残虐で刑罰の目的に反するとし、これらを除いた。連座や過酷刑の縮小、流徒年数の短縮なども定め、隋の法制の基礎となった。

劉行本の直諫

  • 隋主がある郎官を殿前で笞打ちしたとき、諫議大夫劉行本は、その者はもと清廉で罪も軽いとして赦免を願った。帝が聞き入れないと、行本は帝の前に立ちはだかり、臣を側近に置く以上は諫言を聞くべきだと迫った。
  • 帝は容色を改めて謝り、結局その郎官を赦した。劉行本は劉璠の兄の子である。

独孤皇后

  • 独孤皇后は家柄こそ高かったが、謙虚で読書を好み、政務上の意見も帝に合うことが多かった。帝は深く敬愛し、宮中では帝后を「二聖」と称した。
  • 帝が朝に出る時、后は並んだ輿で閤門まで同行し、宦官に政務の過失を探らせては諫めた。だが百官の妻に王后から命婦号を授ける制度には、婦人の政治関与の端緒になるとして反対した。
  • 親族の崔長仁が死罪に当たったときも、私情を挟むべきでないとして助命を求めず、そのまま処刑させた。
  • 生活はきわめて倹約で、薬に用いる白粉すら宮中に備蓄がなく、衣服の装飾品も見つからないほどだった。帝もまた周の失敗を戒め、外戚に大権を与えなかった。

呂氏外戚の扱い

  • 隋主の母方呂氏はもと寒微で、北斉滅亡後にようやく所在が判明した。帝は舅の子の呂永吉を見つけ、外祖父双周を追贈して斉郡公に封じ、永吉に継がせた。
  • しかし永吉の従父・呂道貴は愚鈍で言葉遣いも卑しかったため、厚遇はしたが朝士に会わせず、上儀同三司を授けて済南太守に出し、そのまま家で終えさせた。

良吏の奨励

  • 十月、隋主は岐州に巡幸した。岐州刺史梁彦光は善政で知られ、帝は詔して褒賞し、束帛と御傘を賜って天下の官吏への励みとした。
  • 梁彦光はのち相州刺史となると、風俗の悪い鄴で初めは軽んじられたが、再任後は奸悪を摘発して大いに治め、学問を奨励し、秀才を郊外で送別して資金を与えるなどして風化を改めた。
  • 同時期、樊叔略や房恭懿らも善政によって褒賞され、帝は諸州の朝集使に、これらを模範とするよう命じた。こうして州県官の中に職務をよく果たす者が増えた。

年末の外交・仏教・突厥継承

  • 十一月、隋は鄭撝を陳に派遣した。
  • 十二月、隋主は長安へ帰還し、鄭訳の官爵を回復した。
  • 広州刺史馬靖は嶺南で兵をよく整え人心を得ていたため、朝廷は疑い、蕭引を派遣して子弟を人質として送らせた。馬靖は従った。
  • また隋主は、領内の民に出家を許し、戸口ごとに銭を出させて経像を造らせたため、仏教が大いに流行し、民間では仏典が六経を大きく上回るほどになった。
  • 突厥では佗鉢可汗が死に、当初は子の菴邏が継いだが、実力者の攝圖がやがて推戴されて沙鉢略可汗となった。菴邏は第二可汗に退き、大邏便は阿波可汗となり、達頭可汗も西方にいたため、突厥は複数可汗が並立する形となった。
  • 隋は突厥への礼を薄くしたため、突厥は不満を募らせた。北周の千金公主は宗室滅亡の恨みから、沙鉢略にしきりに復讐を促した。沙鉢略は高宝寧と結んで隋へ侵攻しようとし、隋主は辺境防備と長城修築を命じた。
  • 長孫晟はかつて千金公主を送って突厥内部の情勢を熟知しており、隋主に対し、達頭・阿波・處羅侯らの間の不和を利用して沙鉢略を孤立させる策を上奏した。帝は大いに喜び、そのまま採用した。元暉を達頭に、長孫晟を奚・霫・契丹方面に送り、離間工作を進めた。