資治通鑑陳紀 高宗宣皇帝 太建十一年 579年

正月 北周、制度を改める

  • 北周宣帝は露門で群臣の朝賀を受け、ここで初めて群臣とともに漢魏風の衣冠を着用した。
  • 大赦し、大成と改元し、越王宇文盛・尉遅迴・李穆・楊堅を四輔に任じた。
  • 一方で、武帝時代の厳法を重すぎるとして一度は緩めたが、たび重なる赦免で民が法を軽んじるようになると、宣帝は逆に暴威をもって群下を押さえようとし、さらに苛酷な刑法を作ろうとした。

楽運の八失上奏

  • 宣帝の奢侈と専断が進むと、楽運は棺を載せた車で朝堂に赴き、死を覚悟して帝の「八失」を論じた。
  • その内容は、独断専行、美女の選抜、後宮にこもって政務を宦官任せにすること、短期間で刑法を変えて厳罰化すること、先帝の節倹に反して奢麗を極めること、民の徭役を雑伎のために使うこと、上書の誤字すら罪にすること、天変への反省がないこと、などであった。
  • 宣帝は怒って楽運を殺そうとしたが、元巖が命がけで諫めたため、翌日になって楽運を忠臣として赦し、御食を賜って退けた。

正月末から二月 洛陽重視

  • 宣帝は東巡して洛陽に至り、魯王闡を皇太子に立てた。
  • さらに洛陽を東京とし、山東諸州から兵を徴発して宮殿を修築させ、常時四万人を役した。相州の六府も洛陽へ移した。
  • 北周の政治の重心を東方へ移そうとする試みであった。

二月 王軌の誅殺

  • 徐州総管王軌は、鄭訳が権勢を振るうのを見て、自分にも禍が及ぶと悟っていた。だが周のために尽くした忠義を曲げて陳へ寝返ることはせず、州にとどまって死を待つことを選んだ。
  • 宣帝は、太子時代に受けた杖の痕の恨みを鄭訳から聞き出し、さらに宇文孝伯の言葉も利用して王軌を憎んだ。
  • 元巖も顔之儀も詔書作成に反対し、顔之儀は切に諫めたが、帝は聞かず、杜慶信を派遣して王軌を殺させた。
  • 王軌の死には遠近の人々が涙し、元巖もまた失脚した。

宇文孝伯・宇文神挙・尉遅運も相次いで死ぬ

  • 太子時代から先帝に近く、諫言してきた者たちは宣帝に疑われた。
  • 尉遅運は災いを避けようとして秦州総管に出たが、のちに憂死した。
  • 宇文孝伯は、斉王宇文憲を弁護したことを責められ、「言っても用いられなかった、ただ先帝の託に背いた罪だけは甘んじる」と述べたが、ついに家で自害させられた。
  • 并州刺史の宇文神挙も州で毒殺され、先帝旧臣の一掃が進んだ。

二月辛巳 宣帝、静帝に譲位して天元皇帝を称す

  • 宣帝は皇太子闡に帝位を譲り、大赦して大象と改元した。
  • 自らは天元皇帝を称し、居所を天台と呼び、冕旒・車服・旗鼓をすべて旧制の倍にし、皇帝は正陽宮と称させるなど、儀制をことさらに誇大化した。
  • 皇太后は天元皇太后とされ、国家の典礼は天元の意のままに頻繁に変更された。

天元皇帝の狂躁

  • 天元は自らを天帝になぞらえ、群臣に対して「天」と自称し、祭器の樽や珪瓚で飲食した。
  • 群臣が天台に朝する前には斎戒を強い、また自分より高大な字句や名称を嫌って、官名や姓にまで改変を加えた。高姓を姜に改めさせ、「高祖」は「長祖」と呼ばせたこともその一つである。
  • 車輪をすべて一木作りにせよと命じ、婦人の化粧法まで制限し、政事よりも変革や奇矯な命令を好んだ。
  • 出入りは節度なく、百官には杖刑を濫発し、これを「天杖」と称した。宮人や寵姫にも容赦なく、内外は恐怖に満ちた。

三月から四月 長安帰還と四后

  • 天元は長安へ戻ると、軍を大々的に閲し、自ら甲冑を着け、静帝を法駕で従えた。
  • 妃朱氏を天元帝后に立て、のちにさらに司馬消難の娘・元晟の娘・陳山提の娘などを加えて、四人の皇后を並立させた。
  • 皇后位の濫設もまた、その奢侈と秩序破壊の一端であった。

五月から夏 周辺の動き

  • 天元は諸王に大国を与えて就国させた。楊堅はこれを見て、宗藩を弱めて根本を固めない策だと密かに評し、天元自身も長寿ではあるまいと述べた。
  • 突厥は并州に侵入し、北周は山東の民を動員して長城修築にあたらせた。

七月から八月 陳の誇示と国内問題

  • 陳では大貨六銖銭を鋳造したが、価値の設定が不安定で、のちに広くは定着しなかった。
  • 宣帝は司馬消難の娘を正陽宮皇后とし、生母李氏を天皇太后に、朱氏を天皇后に改め、さらに元氏・陳氏を左右皇后とした。
  • 陳では、帝が大壮観で閲武し、任忠に歩騎十万、陳景に楼艦五百を率いさせて玄武湖から瓜歩江まで進ませ、軍威を誇示した。これは彭城での敗戦後、なお余力ありと見せる意図があった。
  • だが南康王方泰は、任地で放火・掠奪を行い、また微服して民間で人妻と関係し、逮捕に抵抗して官を傷つけたため、皇帝は激怒して投獄し、官爵を削った。のちに復旧はされたが、統治の乱れを示す一件だった。

秋から冬 北周の南侵

  • 北周は畢王賢を太師とし、韋孝寛を行軍元帥として、把公亮・梁士彦とともに淮南へ進ませた。使者の杜杲・薛舒も陳へ派遣された。
  • 壽陽・黄城・広陵・霍州が相次いで陥ち、周の攻勢は急であった。
  • 陳は淳于量を上流水軍都督、樊毅を北討諸軍都督、任忠を前軍都督とし、さらに皋文奏・魯広達・蕭摩訶らを各方面へ進出させて対抗した。

十一月・十二月 北周の異様な宮廷と江北の喪失

  • 天元は道会苑で大醮を行い、いったん廃していた仏像・天尊像を復活させ、高祖を配し、自らも二像と並んで南面して坐った。雑伎を大いに並べ、長安の士民に見物させた。
  • 年末には災異が続くとして一時簡素な姿に戻ったが、まもなく百官・宮人・外命婦を集めて大規模な音楽と新作の「乞寒胡戯」を催した。
  • 一方、南北兗州・晋州や盱眙・山陽・陽平・馬頭・秦・歴陽・沛・北譙・南梁などの民は、みずから江南へ引き揚げた。北周はさらに譙州・北徐州も奪い、これによって江北の地はほぼことごとく陳の手を離れた。
  • 天元は洛陽へ向かう際、みずから駅馬を駆って一日三百里を進み、四皇后にも並走を命じたため、人馬が道に倒れるほどであった。
  • 陳では沈恪・裴子烈・徐道奴・楊宝安・樊毅らを各地に配置して防備を固めた。
  • また周法尚が長沙王叔堅と不和となり、叔堅の讒言で陳帝から討伐されそうになると北周へ奔った。樊猛が追撃したが、法尚の偽降策にかかって大敗し、戦没者はほぼ八千に及んだ。