資治通鑑陳紀 高宗宣皇帝 太建十年 578年

正月・二月 北周武帝の巡幸と呉明徹の窮地

  • 北周武帝は鄴・懐州・洛州を巡幸し、懐州宮を置いたのち長安へ戻った。
  • そのころ、陳の呉明徹は彭城を囲み続けていたが、北周の王軌が軽兵で淮口を押さえ、鉄鎖で船路を断ったため、陳軍は帰路を失って動揺した。
  • 蕭摩訶は、まだ敵の工事が完成しないうちに攻撃すべきだと進言したが、呉明徹は退けた。十日ほどで水路は完全に閉ざされた。
  • 諸将は堰を破って退くことを議したが、明徹は病も重く、対応は後手に回った。蕭摩訶は、明徹本人だけでも騎兵の護衛で脱出させる策を勧めたが、明徹は歩兵を置いては行けないとした。

二月甲子 呉明徹軍の壊滅

  • 呉明徹は堰を決して水勢で退こうとしたが、清口では水が浅くなり、舟船は王軌の沈めた車輪に阻まれて進めなくなった。
  • 王軌はこれを包囲して圧迫し、陳軍は総崩れとなった。呉明徹は捕えられ、将士三万、兵器・輜重もことごとく北周に失われた。
  • 蕭摩訶は精騎八十を率いて先頭で突破し、任忠・周羅睺らとともに辛うじて淮南へ帰還した。
  • これは陳にとって大敗であり、先に毛喜が「淮南の民心も未だ安定せず、周は新たに斉を呑んだ直後なので争うべきではない」と述べた見通しがそのまま現実となった。帝はその言を認め、蔡景歴も再起用した。

三月 周の政務再編

  • 北周では越王宇文盛が大冡宰となり、蒲州に宮を置く一方、同州宮・長春宮は廃された。
  • さらに武帝以来の服制に変化があり、常冠は黒紗を後ろに包み、四脚に裁った新様式となった。後世の幞頭の祖形である。

春から初夏 陳の防備強化

  • 陳は周の侵攻に備えて、淳于量・孫瑒・樊毅・任忠らに各方面の水陸軍を委ね、淮南・荊郢の守りを固めた。
  • その直後、北周は宣政と改元した。

四月から六月 突厥遠征中に北周武帝が病没

  • 突厥が幽州を寇掠したため、北周武帝は諸軍を率いて討伐に出た。
  • しかし雲陽宮で病に倒れ、自ら回復の見込みがないことを悟ると、宇文孝伯に後事を託し、宿衛兵の統轄を命じて非常に備えさせた。
  • まもなく長安へ還る途中で崩じ、太子が即位した。皇后阿史那氏は皇太后となった。

新帝・宣帝の即位と放縦

  • 新帝、すなわち周宣帝は、即位直後から父の喪に悲しみを示さず、むしろ太子時代に受けた杖の痕をなでて「死ぬのが遅かった」と罵った。
  • さらに父帝の宮人を見て淫欲をほしいままにし、寵臣の鄭訳を異例の抜擢で重用して朝政を委ねた。
  • 葬儀後すぐに公除して吉礼に戻そうとし、京兆郡丞の楽運が時期が早すぎると諫めたが、従わなかった。

宇文憲の誅殺

  • 宣帝は、叔父で功名・人望の高い斉王宇文憲を警戒した。宇文孝伯に誅殺への協力を求めたが、孝伯は先帝の遺詔と忠孝の道を理由に断ったため、帝の不興を買った。
  • その後、于智・鄭訳らと密かに謀り、宇文憲に異謀ありと讒して殿中に誘い込み、壮士に捕えさせた。
  • 宇文憲は激しく弁明したが、結局縊殺された。配下の李綱だけは死を誓ってその罪を認めず、遺体を自ら葬った。
  • さらに宇文憲と親しかった王興・独孤熊・豆盧紹も殺され、名目のない誅殺を隠すために「謀反」とされた。世人はこれを、主犯に付き添って死なされた「伴死」だと見た。

夏から秋 北斉残党の再起は失敗

  • 范陽王高紹義は、北周武帝の死を好機と見て、盧昌期が范陽で挙兵すると突厥兵を率いて呼応した。
  • だが北周の宇文神挙が盧昌期を破って捕えると、高紹義は喪服で哭して引き返し、再び突厥へ退いた。
  • 高宝寧は夷夏数万騎を率いて救援に向かったが、潞水で敗報を聞き、和龍へ戻った。

七月から九月 周宣帝の政治と陳の盟誓

  • 北周では斛斯徴・楊堅・長孫覧・王誼らが重用され、宣帝は生母李氏を帝太后として尊んだ。
  • 陳では、先の彭城敗戦で国中が不安となったため、婁湖に方明壇を立て、始興王叔陵を王官伯として百官に盟誓させた。ついで全国に使者を出して誓文を頒ち、上下に警戒を命じた。
  • これは敗戦後の動揺を抑え、国内の結束を取り戻すための措置だった。

年末 周の南侵準備

  • 突厥は引き続き北周辺境を脅かし、酒泉まで攻め入った。
  • それでも北周は滕王宇文逌を行軍元帥として出兵させ、対陳軍事を継続する構えを見せた。