正月 北斉で幼帝が即位し、朝廷は動揺する
- 正月、北斉では太子の恒が即位し、承光と改元した。まだ幼少であったため、実権は引き続き上皇の高緯と側近たちに左右された。
- 広寧王高孝珩は北周軍に対抗して出兵すべきだと強く主張したが、朝廷はかえって彼の反乱を疑った。高阿那肱・韓長鸞らはこれを恐れ、高孝珩を滄州刺史として都から遠ざけた。
- 尉相願らは高阿那肱を除いて高孝珩を立てようとしたが、機会を失って実行できなかった。政局の混乱を見て、相願は北斉の大勢が去ったことを嘆いた。
- 斉は長楽王尉世弁に周軍の偵察を命じたが、遠くの鳥の群れを敵軍の旗と見誤って狼狽し、ろくに確認もしないまま逃げ帰った。北斉側の恐慌は極まっていた。
上皇の東走と鄴の陥落
- 顔之推・薛道衡・陳徳信らは、上皇が黄河の南へ出て兵を募り、情勢次第では陳へ逃れる策を勧めた。これが採用され、太皇太后と太上皇后は先に済州へ移り、続いて幼帝も鄴を離れた。
- まもなく北周軍が紫陌橋に至り、さらに鄴城を包囲した。城西門を焼かれ、北斉軍は出撃したが大敗した。
- 上皇高緯は百騎ほどを率いて東へ逃れ、鄴宮の守備は慕容三蔵に任せた。周軍が入城すると北斉の王公たちはほぼ降伏したが、慕容三蔵だけはなお抗戦した。
- 北周の武帝は慕容三蔵の勇を評価して厚遇し、また鮮于世栄のように最後まで屈しない者もいたが、これを殺した。
- 莫多婁敬顕は以前から北斉にも北周にも通じる不忠・不信を責められ、処刑された。
北周武帝、鄴を掌握する
- 北周武帝は鄴に入り、学者の熊安生を自ら訪ねて礼遇し、儒学を重んじる姿勢を示した。
- また李徳林を招いて慰撫し、斉の政治・風俗・人物について詳しく尋ね、以後その知識を国政に役立てようとした。
- これは単なる征服ではなく、新たに得た山東の地を統治するため、旧臣・学者を取り込む政策でもあった。
北斉皇室の崩壊
- 高緯は済州を経て青州へ逃れ、陳へ入ろうとしたが、高阿那肱がひそかに北周軍と通じていたため足止めされた。
- 田鵬鸞は周軍に捕えられても主君の行方を明かさず、四肢を折られて死んだ。
- 周軍が急迫すると、高緯は金を鞍に結びつけ、后妃や幼主らとともにさらに南へ逃げたが、南鄧村で尉遅勤に追いつかれ、一行はみな捕えられて鄴へ送られた。
- 北斉は高洋の建国以来二十八年で滅亡した。
北周、旧斉の冤死者を顕彰し、奢侈を壊す
- 北周武帝は、かつて北斉で冤罪により死んだ斛律光・崔季舒らに追贈と諡号を与え、改葬を命じ、没収されていた家産も返還した。斛律光については「もし彼が健在なら、自分は鄴まで来られなかっただろう」と評した。
- さらに、鄴の東山・南園・三台など高氏の遊宴施設を撤去し、使える資材は民に与え、園地は本来の持ち主へ返した。
- 勝利の後に奢りを深めず、むしろ節倹を示した点は、武帝の統治姿勢として際立っていた。
二月 斉の残存勢力の抵抗と壊滅
- 広寧王高孝珩は滄州で兵を集め、任城王高湝と信都で合流し、北斉再興を図った。兵は四万余に達した。
- 北周は斉王宇文憲と楊堅を派遣し、高緯の手紙まで利用して高湝に降伏を促したが、高湝は応じなかった。
- 宇文憲は諜者をわざと返して心理戦を行い、信都城南で高湝軍と対陣した。すると高湝の腹心である尉相願が偽って出撃したのち、そのまま降伏し、軍心は大きく動揺した。
- 翌日の戦いで高湝・高孝珩らは敗北して捕えられた。宇文憲は彼らの節義を惜しみ、家族を保護し、高孝珩の傷も自ら手当てした。
- 高湝は、宗社が覆った時に行動しなければ祖先に対して恥じるとして、自らの決起を正当化した。
北辺では范陽王高紹義が自立する
- 北朔州では、北斉の旧将らが北周の任命した総管を排し、定州刺史の范陽王高紹義を迎えた。
- 高紹義は馬邑に至ると、肆州以北の二百八十余城が呼応した。袁洪猛らと南下して并州奪回を図ったが、前隊の将二人が北周に降伏し、諸城も相次いで失った。
- 高紹義は北朔州に退いたのち、東平公宇文神挙に敗れ、突厥へ逃れた。突厥の佗鉢可汗は彼を厚遇し、北方にいた旧斉人を彼の配下に属させた。
- ただし東雍州行台の傅伏と営州刺史高宝寧はなお北周に従わなかった。
北周、北斉旧領を接収し制度を整える
- 北周はこの征服によって、州五十・郡百六十二・県三百八十、戸数三百三万余を得た。
- 要地には総管府を置き、相州・并州には宮と六府官を設け、旧斉領の統治体制を整えた。
- これは単に領土を奪っただけでなく、山東・河北の広大な地域を周の国家機構へ編入する作業だった。
梁主の入朝と古礼の復興
- 梁主が鄴に入朝すると、北周は古代の朝覲・饗宴・贈答の礼を整えて迎えた。秦の天下統一以来、こうした古礼が正式に行われたことはないとされた。
- 宴席では、周武帝が自ら琵琶を弾き、梁主も舞って応じたため、武帝は大いに喜び、厚く下賜した。
三月以降 傅伏の帰順
- 東雍州の傅伏は、斉の忠臣として周の再三の招降を拒み続けた。韋孝寛がその子を伴って説得しても応じず、わが子を斬って天下に示せとまで言った。
- だが北斉皇帝が捕えられたことを知ると、城に戻って北面し、長く哭してのち、ついに降った。
- 武帝はその節義をむしろ賞し、「臣たる者はかくあるべきだ」として手厚く遇し、宿衛に置いた。
- 以前、河陰を救った傅伏の功に対して北斉がわずかな褒賞しか与えなかったことを、高緯に向かって武帝が皮肉った。
四月 長安での献俘と山東人材の起用
- 武帝は高緯ら旧斉君臣を長安へ連行し、車駕・旗幟・器物を整え、凱旋の楽を奏して太廟に献俘した。
- 高緯は温公に封じられ、旧斉諸王三十余人も爵を与えられたが、これは監視下での処遇であった。
- 李徳林は内史上士に任じられ、詔勅や法令の整備、山東人士の登用を任された。武帝は彼を「名高い賢才」として非常に重んじた。
五月から秋 北周の節倹と巡幸
- 武帝は諸公卿を任命し直し、方丘を祭ったのち、宇文護時代に造営された華美な殿舎を取り壊し、装飾材を貧民に与えた。并州・鄴の壮麗な建物にも同様の処置を命じた。
- 司馬光は、勝者が往々にして奢るのに対し、武帝は勝ってますます倹約したとして高く評価している。
- 武帝は東巡して洛州に至り、さらに権衡・度量を全国に頒布して制度統一を進めた。
雑戸の解放と九尾狐
- かつて西凉から連行され、代々雑役に従わされてきた雑戸について、武帝は「罪は子孫に及ぶべきではない」として、すべて民籍に戻した。
- 鄭州で九尾狐の死骸が献上されたが、武帝は徳がなければ真の瑞祥ではないとして受け取らず、焼き捨てさせた。
冬十月 陳、徐・兗方面へ進軍
- 陳では、北周が北斉を滅ぼした機会に徐州・兗州方面を奪おうとして、南兗州刺史の呉明徹を総大将に任じて出兵させた。
- 呉明徹は呂梁に進み、周の徐州総管梁士彦を破って彭城を包囲した。
- しかし中書通事舎人蔡景歴は、軍が老い将が驕る時に遠征を深めるべきではないと諫めたため、帝の怒りを買って左遷され、さらに弾劾されて免官となった。
高緯ら旧斉宗室の処刑
- 北周では、高緯が穆提婆らと謀反したとの讒言が起こり、温公高緯は宗族とともに殺された。
- 多くの者が無実を訴えたが、高延宗だけは泣いて何も弁明せず、口を塞いで死んだ。
- 高緯の弟のうち、精神に異常があるとされた者、言語障害のある者だけが免死され、蜀へ流された。
- 高湝の妻盧氏は斛斯徴に与えられたが、節を守って出家した。旧斉の后妃の中には、生活に困って蝋燭を売る者までいた。
十一月・十二月 稽胡討伐と北周武帝の統治
- 稽胡では劉蠡升の孫の没鐸が自立し、聖武皇帝と称した。北周はこれを討つため、斉王宇文憲を行軍元帥として出征させた。
- 宇文憲は河東・河西の険地を破り、没鐸を捕えて反乱を鎮圧した。
- 同時に北周は、永熙三年以来に東土で奴婢とされた者や、江陵陥落の際に良民から奴婢に落とされた者をすべて良民へ戻した。
- 後宮の人数も削減され、武帝自身も布の衣・布の寝具を用い、行軍では山谷を徒歩で進むほど質素であった。法は厳しかったが、恩威が明確であったため、将士は命を惜しまなかった。
年末 高紹義の即位
- 高宝寧は黄龍から高紹義に上表して即位を勧め、高紹義はついに皇帝を称し、武平と改元した。高宝寧は丞相となり、突厥の佗鉢可汗も兵を出してこれを助けた。