資治通鑑陳紀六 高宗宣皇帝 太建八年 576年
正月から二月:北周の巡幸と北斉の動員
- 春正月癸未、北周の武帝は同州へ赴き、辛卯には河東の涑川へ、甲午には再び同州へ戻った。
- 甲寅、北斉は大赦を行った。
- 乙卯、北斉の後主は晋陽から鄴に帰還した。
- 二月辛酉、北周の武帝は太子に西方巡撫を命じ、あわせて吐谷渾を討たせた。上開府儀同大将軍王軌と宮正宇文孝伯がこれに従い、軍中の節度はほぼこの二人に委ねられた。
- 北斉では雑戸の未婚女性を一斉に集め、隠していた家は家長を死罪とする強圧的な政策を行った。
- 壬申、陳では呉明徹を開府儀同三司から司空に進めた。
三月から六月:陳の人事と太子周辺
- 三月壬寅、北周の武帝は長安へ帰った。
- 夏四月乙卯、再び同州へ赴いた。
- 己未、陳の高宗は太廟を拝した。
- 尚書左僕射王瑒が死去した。
- 五月壬辰、北周の武帝は長安へ戻った。
- 六月戊申朔、日食があった。
- 辛亥、北周の武帝は太廟を拝した。
- このころ陳では、皇太子叔宝が江総を詹事にしたいと望んだが、吏部尚書孔奐は、江総には文才はあっても太子を正しく補導する実がないとして反対し、都官尚書王廓を推した。だが太子は王廓の父の名を忌避して難色を示し、結局、高宗は江総を詹事に任じた。
- 甲寅、陸繕が尚書左僕射となり、右僕射には王克が任じられた。もとは孔奐を起用する詔が出ていたが、太子がこれを妨げたためである。
- その後、江総は太子と夜を徹して酒宴を開き、良娣陳氏を女装させるなど放縦な遊びに加わった。太子もしばしば微行して江総宅へ通ったので、高宗は怒って江総を罷免した。
六月から八月:北周の内政と北斉の権力中枢
- 北周の利州刺史紀王宇文康は驕慢で兵器を整え、ひそかに異心を抱いた。司録裴融が諫めたが殺され、丙辰、武帝は宇文康に死を賜った。
- 丁巳、武帝は雲陽へ赴いた。
- 庚申、北斉の宜陽王趙彦深が死去した。彼は代々の君主に仕えて機密に参与し、温厚慎重で知られていた。
- その死後、朝廷で機密を担える者は侍中斛律孝卿ほぼ一人となり、他はみな嬖倖ばかりとなった。孝卿は斛律羌挙の子で、周囲よりはまだ汚職が少なかった。
- 秋八月乙卯、北周の武帝は長安へ帰還した。
- 北周太子は吐谷渾を攻めて伏俟城に達し、引き返した。
北周太子の失徳と武帝の危惧
- 太子の側近である宮尹鄭訳・王端らは、太子に寵愛されていたが、遠征中に太子の失徳に関わった。帰軍後、王軌らがこれを武帝に報告したため、武帝は怒って太子・鄭訳らを杖で打ち、鄭訳らを東宮官籍から除いた。
- だが太子はまもなく鄭訳を再び呼び寄せ、以前どおり親しくした。鄭訳は「いつ天下に拠れるのですか」とそそのかし、太子はいっそう彼を親しんだ。
- 武帝は太子にきわめて厳格で、朝見・起居とも群臣と同様に扱い、暑寒を問わず特別扱いしなかった。酒好きだった太子には東宮への酒の持ち込みも禁じ、過失があればすぐに鞭打った。
- 武帝はかつて「古来、廃された太子は多い。お前でなくても立てられる子はいる」と言い、東宮属官に太子の言行を毎月報告させていた。太子はその威を恐れ、表面上は慎みを装ったため、重大な過失は武帝に届かなかった。
- 王軌は賀若弼に、太子は大任を担えないと語っていた。賀若弼も内心同意していたが、武帝から直接問われると、軽々しく言えば一族の禍となることを恐れ、太子に過失は聞かないと答えた。後に王軌はこれを責めたが、賀若弼は、廃立のような問題は公衆の前で言うべきでなく、密かに諫めるべきだと述べた。
- さらに王軌は宴席で、後継が弱いことを武帝の前で率直に言い、また宇文孝伯も、父子の問題は言いにくいが武帝には決断できぬのではないかと暗に示した。
- 王軌はまた、太子は社稷の主にふさわしくなく、楊堅にも反逆の相があると告げた。武帝は不快としつつも内心ではもっともだと考えた。しかし長子の漢王賛も凡庸で、他の子らはまだ幼かったため、太子を廃することはしなかった。
八月から九月:陳の任命と北周の再度の討斉決意
- 丁卯、陳では司空呉明徹を南兖州刺史にした。
- 北斉の後主は晋陽へ赴き、さらに邯鄲宮の造営を始めた。
- 九月戊戌、陳では皇子叔彪を淮南王に立てた。
- 北周の武帝は群臣に対し、前年の河陰遠征では病のため平定を果たせなかったが、北斉軍の実情は十分見切ったと語った。軍の運用は児戯同然で、朝廷は小人に握られ、民は困窮し、今こそ天の与えた好機だとした。
- とくに晋州は高歓起兵の地であり、要衝でもあるので、ここを攻めれば北斉は必ず救援に来る。その救援軍を撃破し、破竹の勢いで東へ進めば巣穴を覆せると説いた。将の中には消極論もあったが、武帝は機会を失うなと押し切った。
十月:北周の晋州攻撃開始
- 冬十月己酉、武帝は自ら北斉討伐に出た。
- 越王盛・宇文亮・楊堅を右三軍、譙王倫・竇泰・丘崇を左三軍、宇文憲・宇文純を前軍とした。
- 丙辰、北斉の後主は祁連池で狩猟した。
- 先に晋州行台左丞張延雋が公平・勤勉で備蓄を整え、民生も安定させていたが、嬖倖に憎まれて更迭されていたため、晋州では公私ともに混乱が生じていた。
- 北周軍は晋州に至り、汾曲に布陣した。武帝は要路を遮断するため、宇文憲に雀鼠谷、宇文純に千里径、達奚震に統軍川、韓明に斉子嶺、尹升に鼓鐘鎮、辛韶に蒲津関、趙王招に汾州諸城、宇文盛に汾水関を守らせた。王誼には諸軍を監督して平陽城を攻めさせた。
- 北斉側では行台僕射海昌王尉相貴が城にこもって守備した。
- 甲子、北斉は晋祠に兵を集めた。
- 庚午、後主は晋陽から自ら大軍を率いて晋州へ向かった。
- 同日、武帝も毎日汾曲から城下へ出て攻撃を督励した。城中は窮迫し、庚午に侯子欽が周に降り、壬申には晋州刺史崔景嵩が夜中に北城から降伏を願い出た。
- 王軌がこれに応じ、段文振らが夜明け前に先登して尉相貴を脅迫すると、城上で騒然となり北斉軍は総崩れとなった。北周はついに晋州を攻略し、尉相貴と甲士八千を捕虜にした。
晋州陥落と北斉後主の失態
- 晋州陥落の急報は朝から昼まで三度も届いたが、高阿那肱は「小規模の辺境戦にすぎない」として奏上を遅らせた。
- 日暮れになって平陽陥落が伝えられてようやく後主に奏聞された。後主は帰還しようとしたが、馮淑妃がもう一囲い獲物を取ってからにと願ったため、これに従った。
- 他方、宇文憲は洪洞・永安二城も奪って北進しようとしたが、北斉が橋を焼いて険阻を守ったため進めず、永安に駐屯した。永昌公宇文椿を雞栖原に置いて陣営を構えさせた。
- 癸酉、後主は一万を千里径へ、別軍を汾水関へ向かわせ、自らは大軍を率いて雞栖原へ進んだ。
- 宇文盛が救援を求めたため、宇文憲は救いに向かい、北斉軍を破った。だがほどなく宇文椿からも危急の報があり、再び救援に転じた。両軍は対陣したが夜になって戦わず、武帝が宇文憲を呼び戻したので、宇文憲は夜陰に乗じて退いた。北斉側は柏で作った陣屋が残っていたため気づかず、翌朝になって撤退を知った。
- 甲戌、北周は梁士彦を晋州刺史とし、精兵一万を留めて守らせた。
十一月:平陽包囲
- 十一月己卯、後主は平陽に至った。
- 武帝は、北斉軍が新たに集まり勢いが盛んなのを見て、いったん西へ退いて鋭気を避けようとした。
- しかし宇文忻は、今の北斉は君主が暗愚で臣も愚か、兵も戦意がないのだから、ここで退けば千載の機を失うと諫めた。軍正王紘も、北斉の紀綱は長年乱れており、乱を取る好機は今日だと強く主張した。
- それでも武帝は結局軍を退かせた。宇文憲を殿軍として残し、追ってきた北斉軍と戦わせたところ、賀蘭豹子らを斬って撃退し、玉壁で本軍に追いついた。
- 北斉軍はそのまま平陽を包囲した。昼夜を分かたず攻め立て、城中は危急となり、櫓も城堞もほとんど壊れた。梁士彦は少しも動揺せず、「死ぬのは今日だ、まず私が先に立つ」と将兵を励まし、兵は奮戦した。
- さらに妻妾・婦女・軍民総出で昼夜城を修復し、三日で補い終えた。
- 武帝は宇文憲に六万を率いて涑川に駐屯させ、遠く平陽の援軍とした。
- 北斉軍は地道を掘って城を崩し、十余歩ぶん陥落させたが、後主は馮淑妃にその様子を見せようとしてすぐの総攻撃を止めた。淑妃の到着が遅れる間に、北周側は木で塞いでしまい、城は落ちなかった。
- また、城西の聖人の足跡と伝わる石を見たいという淑妃のため、後主は攻城材を転用して遠橋を造らせた。二人で渡ったところ橋が壊れ、夜になってやっと帰るという有様であった。
十二月:北周の再出兵と決戦
- 癸巳、武帝はいったん長安へ帰った。
- 甲午、ただちに再度詔を下し、北斉軍が晋州を囲んでいる以上、諸軍を率いて再び攻めると決した。
- 丙申、武帝は北斉からの降人を解き放ち帰らせた。これは北周軍が再来することを敵に知らせて恐れさせ、また晋州守備軍を安心させる狙いがあった。
- 丁酉、武帝は長安を発した。
- 壬寅、黄河を渡って諸軍と合流した。
- 十二月丁未、武帝は高顕に至り、宇文憲を先行させて平陽へ向かわせた。
- 戊申、武帝自身も平陽に到着した。
- 庚戌、諸軍八万が総集結し、東西二十余里にわたって陣を敷いた。
- 先に北斉軍は南方からの急襲を恐れ、喬山から汾水まで城南に塹壕を掘っていた。後主は大軍をその北に並べた。
- 武帝が宇文憲に情勢を見させると、宇文憲は「戦いやすい」と答え、食事の前に破れると請け合った。武帝は喜んだ。
- 武帝はいつもの乗馬で少人数を従え、みずから各陣を巡って主将の名を呼びながら慰労したため、兵は奮い立った。戦いの前に良馬への乗り換えを勧められても、武帝は「良馬に乗って私一人どこへ逃げるのか」と退けた。
- 両軍は塹壕を挟んで朝から対峙したが、勝負はつかなかった。後主が高阿那肱に戦うべきかと問うと、高阿那肱は、精鋭は十万に満たず、負傷者や雑役も多いので、戦わず高梁橋まで退いて守るべきだと述べた。これに対し安吐根は、敵など馬上で突き落とせるほど少ないと軽言した。
- 後主がなお決めかねていると、近侍たちが「相手も天子、こちらも天子なのだから、塹壕に頼って弱さを見せるべきではない」と煽った。後主はこれに従い、塹壕を埋めて南へ進軍させた。
- 武帝は大いに喜んで攻撃を命じた。両軍が接すると、後主は馮淑妃と並んで騎乗し東側から観戦したが、その一角がやや押されると、淑妃は「敗れました」と叫んだ。
- 穆提婆も「早くお逃げください」と勧めたため、後主は淑妃を連れて高梁橋へ逃げた。奚長は、前進後退は常のことで、まだ全軍は崩れていないから戻って慰撫すべきだと諫め、張常山も同じく軍は立て直せると言ったが、穆提婆がその言を退け、後主はついに北走した。
- これにより北斉軍は総崩れとなり、死者一万余、兵糧・器械は数百里にわたって積み重なるように放棄された。安徳王高延宗だけは軍を保って退却した。
- 後主が洪洞に至ると、馮淑妃はなお粉鏡を弄んでおり、再び周軍来襲の声が上がると、また逃走した。
- もともと後主は淑妃を左皇后に立てようとし、その服飾を晋陽から取り寄せていたが、敗走の途中でこれと行き会い、わざわざ馬を止めて淑妃に着せてから去った。
- 辛亥、武帝は平陽へ入城した。梁士彦は武帝の鬚を取って涙し、危うく再会できぬところだったと述べ、武帝も涙を流した。
- 武帝は将士の疲労を考えて撤退も考えたが、梁士彦は、今こそ敵が恐れ乱れているから一気に攻めるべきだと馬前にひれ伏して諫めた。武帝はその言に従い、晋州こそ平斉の土台だとして、守備を梁士彦に託した。
- 武帝は諸将を率いて追撃した。なお諸将には西還を唱える者もあったが、武帝は「敵を逃がせば後患となる。卿らが疑うなら自分一人でも行く」と言い、追撃を断行した。
- 癸丑、北周軍は汾水関に到着した。
北斉の潰乱と晋陽陥落
- 後主は晋陽へ入ったが、憂懼して方針を定められなかった。
- 甲寅、北斉は大赦を行った。朝臣は、賦役を軽減して民心を慰め、残兵を集めて背城一戦すべきだと勧めた。
- 後主は安徳王高延宗と広寧王高孝珩に晋陽を守らせ、自身は北朔州へ向かい、晋陽が守れなければ突厥へ逃れようと考えた。群臣はこぞって反対したが従わなかった。
- 賀抜伏恩ら三十余人の近臣が西の北周軍へ奔り、武帝はそれぞれを封賞した。
- 高阿那肱はなお一万を率いて高壁を守っていたが、武帝がそこへ向かうと風を望んで逃げた。宇文憲は洛女砦を陥した。
- 北斉では高阿那肱が周軍を招き入れたとの告発が相次いだが、斛律孝卿は偽りと判断し、最後には高阿那肱の腹心による告発まで妄言として斬ってしまった。
- 乙卯、後主は高延宗と高孝珩に募兵を命じた。高延宗は入朝して、北朔州へ逃げるのを泣いて諫めたが聞き入れられず、ひそかに皇太后と太子を先に北朔州へ送った。
- 丙辰、武帝は介休で宇文憲と合流した。北斉の韓建業が城を挙げて降り、武帝はこれを上柱国・郇公とした。
- その夜、後主は逃亡しようとしたが、諸将は従わなかった。
- 丁巳、北周軍が晋陽に迫ると、後主は再び大赦し、改元して隆化とし、高延宗を相国・并州刺史として山西の兵を総べさせたうえで、「并州は兄が取るがよい、わたしは行く」と言い残した。高延宗は、皇帝は社稷のため動くべきでない、自分が死力を尽くして防ぐと述べたが、穆提婆が後主の決意を変えさせなかった。
- 後主は夜中に五龍門を斬り開いて脱出し、突厥へ奔ろうとしたが、従者は散り散りとなった。梅勝郎の諫めでようやく進路を変え、鄴へ向かった。付き従ったのは高阿那肱ら十余騎だけで、のち高孝珩らが加わった。
- 穆提婆は西の北周へ逃げ、陸令萱は自殺、家族は誅滅された。武帝は穆提婆を柱国・宜州刺史に任じた。
- 武帝は北斉群臣に詔して、天命を知って帰順する者には爵位を与え、周兵の逃亡者をかくまった者も罪を問わないと約し、これ以降、北斉臣僚の降伏が相次いだ。
高延宗の即位と晋陽最後の戦い
- 北斉では、唐邕が二省を長く統べた名臣であったが、高阿那肱の讒言により斛律孝卿が騎兵・度支も統轄するようになり、唐邕は鬱屈していた。
- 後主が鄴へ去ると、唐邕は晋陽に残った。并州の将帥たちは高延宗に対し、王が自ら天子とならねば将兵は命を懸けて戦わないと迫った。
- 戊午、高延宗はやむなく即位し、大赦して改元を徳昌とした。唐邕を宰相とし、莫多婁敬顕・段暢・韓骨胡らを将帥に任じた。
- 兵は呼びかけなくとも続々と集まり、高延宗は府庫や後宮の美女まで将士に分け与え、また内参十余家を没収した。後主はこれを聞くと、「北周に并州を取られるのは構わないが、安徳王に取られるのは望まぬ」と語った。
- 高延宗は将兵一人ひとりの手を取り名を呼んで涙したため、皆が死力を尽くそうとした。子供や女性ですら屋上から石を投げて防戦した。
- 己未、武帝は晋陽に到着した。周軍が四方から包囲すると、その様は黒雲のようであった。
- 高延宗は、莫多婁敬顕・韓骨胡に南城、段暢に東城、自らは北城で宇文憲に当たった。高延宗は肥満体で嘲笑されていたが、このときは大槊を振るって飛ぶように督戦し、勇猛で無敵の勢いを示した。
- しかし東方を守る段暢は千騎を率いて北周へ奔った。武帝が東門を攻め、夕暮れにこれを破って城内へ入ると、仏寺を焼いた。
- ところが高延宗と敬顕が門内から挟撃したため、北周軍は大混乱に陥り、城門で互いに踏み合って二千余人が死んだ。武帝も危うく逃れるところで、賀抜伏恩・張寿・皮子信らの助けでやっと脱出した。すでに四更であった。
- 高延宗は武帝が乱兵に殺されたと思い、死体の中から長い髭の者を探させたが見つからなかった。その間、晋陽側では勝った兵が市中で酒を飲み、酔いつぶれてしまい、再編成ができなかった。
- 武帝は飢えと混乱の中で退却も考え、諸将の中にもそれを勧める者が多かったが、宇文忻は、すでに偽主は奔走し、関東も震動している、昨日の小敗で大事を棄てるべきではないと力説した。宇文憲・王誼も退けば危険だと主張し、段暢ら降将も城内空虚を伝えた。
- そこで武帝は馬を止めて角を鳴らし、散兵を収容すると、軍勢はほどなく立ち直った。辛酉の朝、東門を再攻してついに落とした。
- 高延宗は力尽きて北へ逃れたが、北周軍に捕らえられた。武帝は自ら馬を降りて手を取り、両国の天子に私怨はなく、民のために戦っただけだとして、害するつもりはないから恐れるなと慰め、衣冠を整えさせて礼遇した。
- 唐邕らも皆降伏し、莫多婁敬顕だけが鄴へ逃れて、後主から司徒を授かった。
- 高延宗は即位の際、瀛州刺史である任城王高湝に事情を知らせる手紙を送っていたが、高湝は人臣として受け取れないとして使者を捕えて鄴へ送った。
北周の処置と北斉の末期的混乱
- 壬戌、武帝は大赦し、北斉の制度を削除・改変して、文武の人材を接収した。
- 以前、北周の使者として北斉に赴いた伊婁謙の参軍高遵が、周の機密を北斉へ漏らしたため晋陽に拘束されていた。武帝は晋陽克服後に伊婁謙を召して慰労し、高遵を謙に引き渡して報復を任せたが、謙は赦免を請い、武帝は唾棄で恥をかかせるだけにとどめた。謙は高遵を従前どおり扱った。
- 鄴では後主が重賞を掲げて兵を募ったが、実際には褒賞を出さなかった。
- 高孝珩は、任城王高湝に幽州兵を率いさせて土門から并州へ向かわせ、独孤永業には洛州兵を率いさせて潼関・長安方面へ陽動させ、自らは京畿兵で滏口から進んで挟撃し、さらに宮人・珍宝を将士へ賞与すべきだと進言した。だが後主は不快として退けた。
- 斛律孝卿は、後主自ら将士を慰労すべきだとして、そのための言葉まで起草した。ところが後主は壇上に立つと教えられた文句を忘れ、大笑いしてしまい、側近たちも笑った。将士はこれを見て、「君主がこうでは我々が急ぐ理由はない」と憤り、戦意を失った。
- 後主は大丞相以下の高官をやたらと増員して授け、三・四人で一官を分けることもあり、官制は完全に乱れた。
- 朔州行台僕射高勱は、太后と太子を土門道から鄴へ護送した。宦官の苟子溢が民間で横暴を働いていたため、高勱はこれを捕えて見せしめに斬ろうとした。太后の命乞いで助かったが、高勱は「朝廷が乱れたのはこの手の者どものせいであり、今日これを斬って明日自分が誅されても悔いない」と言った。
- 甲子、北斉の太后が鄴に着いた。
- 丙寅、武帝は晋陽で得た宮中の珍宝・服飾・宮女二千人を将士に分与し、功のあった者には官爵を加えた。
- 武帝が高延宗に鄴攻略の策を問うと、高延宗は当初辞退したが、強いて問われると、「任城王が鄴を守るならわからないが、今の主が自ら守るなら、陛下はほとんど血を流さずに取れる」と答えた。
- 癸酉、北周軍は鄴へ進発し、宇文憲を先鋒とし、宇文純を并州総管に任じて後方を固めた。
鄴の混乱と禅位論
- 後主は諸貴臣を朱雀門に引き入れ、酒食を賜って対周防衛策を問うたが、意見はばらばらで、採るべき策を決められなかった。
- 人心は恐怖に満ち、戦意は乏しく、朝士の降伏文書は昼夜を分かたず相次いだ。
- 高勱は、反乱するのは多く貴人であって、一般兵士はまだ完全には離反していないと見て、五品以上の家族を三台に集め、勝てねば焼き払うと脅して死戦させるべきだと進言した。また、周軍はしばしば北から来ており、敵は北斉を軽んじているから、背城一戦なら勝機はあると説いた。
- しかし後主はこれを採用できなかった。
- 望気者が「王朝の交替がある」と言ったため、後主は尚書令高元海らを引き入れ、天統年間の先例にならって皇太子へ禅位する案を議論し始めた。