正月:北周諸王の進爵と陳の祭祀
- 正月壬戌朔、北周では斉公宇文憲ら七人が王に進爵した。
- 己巳、北周の武帝は太廟を拝し、乙亥には籍田を耕した。
- 陳でも壬子に太廟を拝し、広陵金城が降伏した。
二月:北斉後主帰還、北周でも籍田
- 二月朔に日食があった。
- 乙未、北斉後主は前年からの晋陽滞在を終えて鄴へ帰った。
- 丁酉、北周では紀国公宇文賢ら六人も王に進爵した。
- 辛亥、陳の皇帝は籍田を耕した。南朝では当初正月だったが、梁代以後は仲春に行うのが慣例となっていた。
二月:北斉で南安王思好の反乱
- 北斉の朔州行台南安王思好は、高氏の養子で、勇敢で辺鎮の人望があった。ところが後主が寵臣斫骨光弁を州に派遣すると、光弁は思好を礼遇しなかったため、思好は怒って反乱を起こし、「君側の悪を除く」と称して陽曲まで進み、大丞相を自称した。
- 晋陽にいた武衛将軍趙海は急変のため奏上の暇もなく、詔を偽作して兵を発し、これを防いだ。後主も唐邕らを急行させ、自らも兵を率いて続いた。
- 辛丑、後主到着前に思好の軍は敗れ、思好は水に投じて死んだ。麾下二千人は劉桃枝に囲まれ、殺されつつも最後まで降らなかった。
- かつて思好の謀反を告発した者がいたが、韓長鸞の娘が思好の子に嫁していたため、「貴臣への誣告を許せば後が絶えない」として逆にその者が斬られていた。思好が誅された後、その弟が宮門に訴えても長鸞は取り次がなかった。
- 丁未、後主は鄴へ帰還した。
- 甲寅、北斉では唐邕を録尚書事とした。
二月―三月:北周叱奴太后の死
- 乙卯、北周の武帝は雲陽宮へ赴き、丙辰に大赦を行った。
- 庚申、叱奴太后が病にかかり、三月辛酉、武帝は長安へ戻った。
- 癸酉、太后が崩じると、武帝は倚廬で喪に服し、朝夕の食事を一溢米に限った。群臣の請願でしばらくしてこれを緩めたが、太子に庶政を総理させ、自らは礼に則って哀悼を尽くした。
- 衛王宇文直は「斉王宇文憲は酒肉を断たず平日と変わらぬ」と中傷したが、武帝は「同母ではない兄弟でも、この喪に際しては共に麻を帯び髪を括る仲だ。お前こそ太后の実子として恥じるべきだ」と叱った。
四月:北斉の穆后と馮小憐、周への弔使
- 乙卯、北斉は薛孤康買を北周に派遣し、叱奴太后を弔わせ、葬儀にも参列させた。
- かつて北斉の世祖が胡后のために真珠の裙袴を造らせたところ、その費用は計り知れず、しかも火災で焼けていた。後主はあらためて穆后のためにこれを作ろうとし、商胡に三万匹の錦綵を持たせ、弔使に同行させて北周で真珠を買わせた。周が売らなかったため、結局は自力で調製した。
- その頃、穆后の寵が衰えると、侍婢の馮小憐が大いに寵愛され、淑妃となった。後主は彼女と同席し、外出時には同じ馬に並び、「生死を共にする」と誓うほどだった。
五月:北周、文宣皇后を葬り、武帝は三年喪を守る
- 庚申、北周は文宣皇后を永固陵に葬った。武帝は裸足で陵所まで歩いた。
- 辛酉、武帝は「三年の喪は天子にも通じるが、軍国の事は重いので、自ら朝を聴きつつも衰麻・苫廬の礼は旧典に従う」と詔した。百官は葬後の除服を請い、権制に従うよう求めたが、武帝は許さず、ついに三年の喪を貫いた。五服以内の親族にも礼に従わせた。
- 庚午、北斉は大赦を行った。
- 北斉は陳軍の北渡を恐れ、皮景和を西兗州に駐屯させた。
- 丙子、北周の武帝は仏教・道教の経像を悉く破棄し、僧尼・道士を還俗させ、淫祀もすべて禁圧した。
六月:北周の貨幣改革と通道観
- 壬辰、周弘正が死去した。
- 壬子、北周は新たに五行大布銭を鋳造し、一枚で十枚分とし、布泉と併用した。
- 戊午、北周は通道観を設け、諸聖賢の教えを一つにまとめようとした。
七月:北周で衛王直の反乱
- 庚申、北周の武帝は再び雲陽へ赴き、尉遅運を兼司武とし、薛公長孫覧とともに太子を補佐して長安を守らせた。
- もともと武帝は衛王直の邸宅を東宮に転用し、直には別の住居を選ばせていた。宇文直は最後に廃寺の陟屺寺を選んだが、その折に宇文憲が「子孫が多いのに狭すぎるのでは」と言うと、直は「自分の身一つさえ置き場がないのに、子孫どころではない」と答えており、すでに怨みを深めていた。
- また、直はかつて狩猟中に隊列を乱して武帝に人前で鞭打たれていた。こうした不満が積もり、武帝不在の機に挙兵した。
- 乙酉、宇文直は党与を率いて肅章門を襲った。長孫覧は恐れて武帝のもとへ逃げたが、尉遅運は偶然門内にいて自ら門を閉ざし、敵と争って指に傷を負いながらも守り切った。
- 宇文直は門に火を放ったが、尉遅運は宮中の材木や寝台まで運んでかえって炎勢を利用し、敵が入れぬようにした。やがて宇文直が退くと、運は留守兵を率いて追撃し、大破した。
- 宇文直は百余騎で荊州へ逃れようとしたが、戊子に武帝が長安へ戻り、八月辛卯に捕らえられて庶人とされ、別宮に幽閉されたのち殺された。尉遅運は大将軍に進み、厚く褒賞された。
八月―九月:周・斉の行幸と人事
- 丙申、武帝は再び雲陽へ赴いた。
- 癸丑、北斉後主は晋陽へ行幸した。
- 甲辰、北斉では高勱を尚書右僕射とした。
- 九月庚申、北周の武帝は同州へ赴いた。
冬十月―十一月:周の使節来陳
- 冬十月丙申、北周は御正楊尚希・礼部盧愷を陳に派遣した。
- 武帝は甲寅に蒲州、丙辰に同州へ赴き、十一月甲戌に長安へ帰った。
十二月:陳の人事と北斉王綽の残虐
- 十二月戊戌、陳では王瑒を右僕射、孔奐を吏部尚書に任じた。王瑒は王冲の子である。
- 淮泗地方を新たに回復したばかりで、攻戦の功と降附の賞が錯綜していたが、孔奐は識見が明敏で、請託を受けず、滞りなく処理したため、人々は服した。
- 始興王叔陵はしばしば三公の位を求めたが、孔奐は「三公は徳をもって挙げる職であり、皇族だから当然ではない」と退け、皇帝も「我が子で公にするなら、まず鄱陽王の後だ」と語った。
- 北斉の定州刺史南陽王高綽は残虐を好み、外出先で婦人が抱く子を奪って狗に食わせ、その血を母の身に塗るようなことまでした。「私は文宣伯を学ぶ」と豪語した。後主はこれを聞いて一度は鎖して行在所に送ったが、到着すると赦した。
- さらに「州で何がいちばん楽しかったか」と問うと、高綽は蠍を器に集め、狙を中に入れて観ることだと答えた。後主は夜中に蠍を集めさせ、人を裸で浴斛に入れて観賞し、大笑いしたうえ、「こんな面白いことをなぜ急ぎ報告しなかった」と言った。
- これにより高綽は寵愛されて大将軍となり、朝夕遊楽を共にしたが、韓長鸞は彼を憎んでいた。この年、高綽が斉州刺史に出る際、長鸞は人を使って謀反を誣告させ、「国法に触れるので赦せない」と奏した。後主は明白に誅する忍びず、寵臣何猥薩に格闘させて絞め殺させた。