資治通鑑陳紀 高宗宣皇帝 太建五年 573年

正月:陳・北斉の新年人事

  • 正月、陳では沈君理を右僕射とした。
  • 北斉では高阿那肱が録尚書事となり、外兵と内省機密を総覧し、穆提婆・韓長鸞と並んで「三貴」と呼ばれた。三人は国政を蝕み、民を苦しめる存在となった。
  • 韓長鸞は文官を罵倒し、軍国の機密を独占して、皇帝の左右で最も権勢を振るった。
  • 庚辰、北斉は崔象を陳に派遣した。
  • 辛巳、陳の皇帝は南郊に赴き、甲午に太廟を拝し、二月には明堂を祀った。

二月:北斉で穆皇后の正位、文林館設置

  • 北斉では、右皇后穆氏が正式に皇后へ昇った。穆后の母の軽霄はもとは婢で、顔に黥があったが、陸令萱が「母」として扱われたため、実母は顧みられなかった。軽霄は面の刺青を消して会おうとしたが、ついに許されなかった。
  • 後主は文学を好み、祖珽は文林館を設置して多くの文士を招き、李徳林・顔之推に館務と『修文殿御覧』の編纂を命じた。
  • 北周では皇太子宇文贇が西土を巡察した。
  • 北斉は北平王堅に録尚書事を加え、後主は再び晋陽へ赴き、のち鄴へ帰った。
  • 北周は侯莫陳凱らを北斉に派遣した。

三月:陳の対斉遠征決定

  • 北周の皇太子は岐州で白鹿二頭を捕えて献じたが、武帝は「瑞兆は徳によるのであって、珍獣によるものではない」として重視しなかった。
  • 陳では、北斉征討を巡って公卿の意見が分かれたが、鎮前将軍呉明徹が強く出兵を主張した。皇帝が元帥を問うと、多くは中権将軍淳于量を推したが、徐陵は「呉明徹こそ淮左の事情に通じ、将略も人材も当代随一」と主張し、裴忌もこれに賛同した。
  • 壬午、呉明徹を都督征討諸軍事、裴忌を監軍事として十万の兵を率いさせ、北斉に大規模遠征を開始した。呉明徹は秦郡から、黄法氍は歴陽から進んだ。

四月:陳軍、淮南で進撃開始

  • 己亥、北周の武帝は太廟を拝した。
  • 癸卯、前巴州刺史魯広達が大峴で北斉軍を破った。
  • 北斉は蘭陵王長恭らに新たな官を授けた。
  • 北斉は秦郡の前の江浦・滁水の交通路を遮断するため、水中に木柵を築いたが、辛亥、呉明徹は程文季に命じてこれを破らせ、攻略に成功した。程文季は名将程霊洗の子である。
  • 北斉では、王紘が「江淮方面に大軍を出せば、西の周や北の突厥が付け込む。むしろ民力を養い、朝廷を整えるべきだ」と進言したが、採用されなかった。
  • 庚申、黄法氍は北斉の援軍を撃破し、続いて尉破胡・長孫洪略らの増援を迎え撃つことになった。

四月―五月:北斉内部の悲観と呂梁の敗戦

  • 趙彦深が秘書監源文宗に対策を問うと、文宗は「数千程度の兵では呉軍の餌に過ぎず、王琳に江淮の人々を募らせて数万を委ね、旧将を淮北に置くべきだ。もし王琳を本気で用いず、ほかの者に牽制させれば禍を速める」と語った。彦深は策の正しさを認めたが、時勢のため口をつぐんだ。
  • 源文宗の子の源師は、龍星出現の時期に雩祭をすべきだと高阿那肱に告げたが、阿那肱は本物の龍と勘違いして怒り、祭を行わなかった。源師は「礼がすでに廃れた。斉は長くない」と嘆いた。
  • 北斉軍は屈強な前隊や西域出身の名射手を備えていたが、辛酉、呉明徹は呂梁でこれを迎え撃った。戦前、蕭摩訶に「あの胡の名射手を倒せば敵の士気は落ちる」と言い聞かせると、摩訶は単騎で突進し、相手が弓を放つ前に銑鋧を投げて額に当てて倒し、続けて大力士十数人も斬った。これで北斉軍は総崩れとなり、尉破胡は敗走し、長孫洪略は戦死した。
  • 王琳はあらかじめ尉破胡に慎戦を勧めたが聞き入れられず、敗戦ののち単騎でようやく逃れた。北斉は王琳を寿陽へ向かわせて兵を募らせ、盧潜を楊州道行台尚書として再起を図った。

五月:陳軍、淮南諸城を連破

  • 甲子、南譙太守徐槾が石梁城を奪取した。
  • 己巳、瓦梁城が降り、癸酉には陽平郡が降り、甲戌には徐槾が廬江城を攻略した。
  • 歴陽は窮迫して降伏を請うたが、黄法氍が緩めるとまた拒守したため、法氍は怒って急攻し、丙子に落として守備兵を皆殺しにした。その後、合肥も陳軍の旗を見て降った。黄法氍は掠奪を禁じ、守兵を慰撫して盟約し、去らせた。
  • 北周では侯莫陳瓊を大宗伯、司馬消難を大司寇、陸騰を大司空とした。
  • 己卯、北高唐郡が陳に降り、辛巳、黄法氍は南豫州刺史として歴陽へ移鎮した。
  • 乙酉、黄詠が斉昌外城を奪取し、丙戌、任忠が東関の東西二城を破って蘄城へ進み、さらに譙郡城を奪った。
  • 戊子、秦州城もついに降伏した。
  • 癸巳、瓜歩・胡墅の二城も降った。
  • 皇帝は呉明徹の郷里である秦郡に太牢を備えさせ、先祖の墓参と祭祀を盛大に行わせたため、郷人は大いに栄誉とした。

五月:北斉で祖珽失脚

  • 和士開以来乱れていた北斉政治は、祖珽が執政してから多少は人材登用が行われ、内外の評判も悪くなかった。祖珽はさらに政務整理・人材淘汰・官号服章の復古、宦官・群小の排除まで考えていた。
  • しかし陸令萱・穆提婆とは意見が一致せず、祖珽は御史中丞麗伯律を使って、主書王子冲の収賄事件から穆提婆へまで罪を及ぼそうとした。
  • さらに胡皇后の兄胡君瑜を侍中・中領軍に、兄胡君璧を御史中丞に取り立てて后党を後ろ盾にしようとしたため、陸令萱は強く怒って胡君瑜を外し、胡君璧も梁州へ返した。胡皇后廃位にもこの対立が関わっていた。
  • 宦官らは祖珽を次々と讒言し、後主が陸令萱に尋ねると、令萱は三度目でようやく「和士開に才学を聞いて善人と思って推挙したが、今見ると大奸臣だった」と答えた。
  • 韓長鸞の調査で、祖珽には勅命偽造や受賜偽装など十余件の罪が見つかり、後主はかつて重い誓いを立てていたため死罪にはせず、侍中・僕射を解いて北徐州刺史に左遷した。退去の際、長鸞は珽を柏閤から引きずり出した。
  • 癸巳、穆提婆を尚書左僕射、段孝言を右僕射に任じた。段孝言は賄賂と縁故で官人を選び、崔成らから公然と非難されるほどだったが、祖珽追放後は韓長鸞と結んで地位を固めた。

五月―六月:蘭陵王長恭の死

  • 蘭陵王高長恭は容貌が美しく勇敢で、邙山の戦い以来名声が高く、武士たちは「蘭陵王入陣曲」を歌った。
  • しかし後主はその名声を嫌い、長恭が定陽攻めの際に財貨を集めていたのも、功名を穢して猜疑を避けるためだと側近の尉相願が見抜いた。相願は「それでは逆に罪の材料になる。病と称して退くべきだ」と助言した。長恭は納得しつつも退ききれず、江淮での戦争が起こると再び将にされるのを恐れて、自ら病を装って治療しなかった。結局、後主は使者を送って毒殺した。

六月:陳軍さらに北進

  • 郢州刺史李綜が灄口城を奪った。
  • 任忠は合州外城を攻め落とし、淮陽・沐陽の二郡も放棄され、程文季は涇州を攻略した。
  • 湛陀が新蔡城を取り、北斉は王紘を北周へ派遣した。
  • 癸亥、黄法氍がついに合州を奪い、呉明徹は仁州へ進んで甲子にこれを落とした。
  • この頃、陳では明堂の修治も行われた。

秋七月:陳軍、巴・峽口方面でも勝つ

  • 戊辰、北斉は陸騫に二万を与えて斉昌救援に向かわせたが、西陽太守周炅は弱兵で正面を引き受け、自ら精鋭を率いて間道から背後を突き、大破した。
  • 己巳、呉明徹は峡口に至って北岸の城を落とし、南岸守備兵も逃げ去った。
  • 周炅は巴州を奪い、淮北の絳城・穀陽でも住民が北斉守将を殺して陳に降った。

七月―八月:寿陽包囲

  • 北斉の王琳と王貴顕は寿陽外郭を守っていたが、丙戌、呉明徹は夜襲をかけてこれを破り、斉兵は相国城と金城へ退いた。
  • 八月、山陽・盱眙が降り、徐敬辯が海安城を、東海城も続けて陳に降った。戊午には侯敬泰らが晋州を取った。

九月:淮北の攻略拡大、北周では太子教育問題

  • 九月、陽平城が降り、沈善慶が馬頭城を落とし、斉安城も降った。樊毅は広陵楚子城を奪った。
  • 壬午、北周の太子宇文贇は楊堅の娘を妃に迎えた。
  • 太子は小人を親しみ、宇文孝伯は武帝に「正しい師友を選んで徳を養わねば後悔する」と諫めた。武帝はこれを認め、尉遅運を右宮正、楽運を京兆丞に抜擢して太子を補佐させた。
  • 楽運が「太子は中人」と評し、良い補佐なら斉桓公のように覇者にもなれるし、悪い補佐なら乱れるとも述べたことは、武帝に強い印象を与えた。
  • 癸未、沈君理が死去した。
  • 壬辰晦、魯天念が黄城を奪い、甲午には郭黙城が降った。
  • 己亥、周弘正を尚書右僕射とした。

九月―十月:北斉で張雕・崔季舒ら誅殺

  • 北斉では、国子祭酒張雕が後主の侍読となり、何洪珍の引きで侍中・開府儀同三司となって度支をも管掌し、大いに信任された。張雕は倹約を勧め、近臣の驕りをしばしば諫め、政治の刷新を志したため、貴幸たちは彼を憎んだ。
  • 封孝琰や崔季舒も祖珽と親しく、「祖珽は衣冠の宰相で、ほかの近習とは違う」と言ったため、宦官らの怨みを買っていた。
  • 後主が再び晋陽へ行こうとした時、崔季舒・張雕らは「寿陽が包囲され、前線との連絡もある時に大軍が都を離れれば、人心が動揺する」と連名で諫めた。
  • 韓長鸞はこれを「漢人官僚が集団で上表し、実は反乱を企てている」と讒言した。辛丑、後主は署名者たちを含章殿に集め、崔季舒・張雕・封孝琰・劉逖・裴沢・郭遵を殿庭で斬り、その家族も北辺に流し、婦女は奚官に、幼男は宮刑に処した。
  • 癸卯、後主はそのまま晋陽へ向かった。

秋―冬:寿陽陥落、王琳最期

  • 呉明徹は寿陽を包囲し、肥水を堰き止めて城内へ注ぎ込ませた。城中では浮腫と下痢が流行し、死者は六、七割に及んだ。
  • 北斉では皮景和らが数十万で救援に来たが、淮口に留まり進まなかった。諸将は不安になったが、呉明徹は「敵は営を結んで動かず、自ら気を挫いている」と見切った。
  • 乙巳、呉明徹は自ら甲冑を着て四方から猛攻をかけ、一気に寿陽を陥した。王琳・王貴顕・盧潜・可朱渾道裕・李騊駼らを生け捕りにして建康へ送った。
  • 王琳は風采・記憶力・統率力に優れ、流寓の身となっても北斉人から忠義をもって重んじられていた。捕らえられると旧部下たちは皆泣いて助命を願ったが、呉明徹は変を恐れて壽陽東二十里で追って斬らせた。哭声は雷のようで、老翁が酒と肉を供えてその血を収めるほど、人々は悲しんだ。
  • 穆提婆と韓長鸞は壽陽陥落の報を聞いても、槊遊びを止めず「もともとあちらの物なのだから取らせておけ」とうそぶいた。後主が憂えると、「黄河以南を失っても、なお一つの龜茲国くらいは作れる。人生は仮住まいなのだから楽しめばよい」と慰め、後主はかえって酒宴と鼓舞にふけった。
  • そのうえ黄河沿いの黎陽に築城して守ろうとした。これは陳軍の北進を恐れた対応である。
  • 丁未、北斉の援軍一万が潁口に来たが、樊毅が撃退し、さらに蒼陵救援軍も破った。
  • 丙辰、陳は寿陽を改めて豫州とし、黄城を司州として、呉明徹を豫州刺史・車騎大将軍に任じた。蕭淳風が寿陽城南の壇で冊命し、二十万の士卒が旗鼓を連ねる中で盛大な儀式が行われた。皇帝は酒を挙げて徐陵に「人を知る目を賞する」と述べ、徐陵は「御決断こそすべてです」と辞した。
  • 黄法氍は征西大将軍・合州刺史となり、湛陀は斉昌城を奪った。

十一月:淮泗支配の拡大

  • 十一月、淮陰城が降り、劉桃枝が朐山城を、樊毅が済陰城を、魯広達が済南・徐州を落とした。魯広達はその地に駐して北徐州刺史となった。
  • 北斉の北州では住民の反乱が相次いで陳に呼応したが、北徐州刺史となっていた祖珽は城門を閉ざさず、人の出入りも禁じて静まり返らせ、敵に城内の虚実を測らせなかった。さらに突然鼓譟して敵を驚かせ、自ら出陣して反乱軍を退けた。盲人と聞いて油断していた敵は大いに驚いたという。穆提婆は祖珽を見捨てたくて援軍を送らなかったが、祖珽は十余日守り切った。

十一月―十二月:王琳の首とその葬送

  • 陳は王琳の首を建康市に懸けた。
  • かつて梁の驃騎府倉曹参軍だった朱瑒は、徐陵に書を送り、王琳は梁の遺臣として最後まで匡復を志したのだから、その首だけでも葬らせてほしいと願い出た。徐陵はこれを上奏した。
  • 十二月壬辰、皇帝は王琳の首と、かつて誅した熊曇朗らの首も親族に返還させた。朱瑒は王琳を八公山のほとりに仮葬し、義故の会葬者は数千人に達した。のちに寿陽の人々が密かに棺を鄴へ送り、北斉は王琳に開府儀同三司・録尚書事を贈り、「忠武王」と諡して、輼輬車を用いて葬った。

十二月:北周の三教論と陳の江北平定

  • 北周では武帝が群臣・沙門・道士を集め、三教の優劣を論じ、自ら高座に上って儒を第一、道を第二、仏を第三とした。
  • 乙未、譙城が降りた。
  • 乙巳、陳は皇子叔明を宜都王、叔献を河東王に封じた。
  • 壬午、任忠が霍州を落とした。
  • 周炅が朝廷に召還されると、旧梁の定州刺史田龍升が江北六州七鎮を挙げて北斉に叛き、歴陽王高景安がこれを援けた。朝廷は周炅を江北道大都督として再び派遣し、田龍升を討って斬らせ、高景安を退けて、江北の地をすべて回復した。
  • この年、突厥は北斉に婚姻を求めた。