資治通鑑陳紀一 高祖武皇帝 永定三年 559年

春正月 北周の親政開始と陳の人事

  • 北周では宇文護が表を上げて政務返上を申し出、武成帝宇文毓が万機をみずから処理し始めた。ただし軍旅の大事はなお宇文護が総覧した。
  • この年から、従来の「都督諸州軍事」は「総管」と改められた。
  • 王琳は桂州刺史淳于量を召したが、淳于量は表面上は王琳と結びつつ、ひそかに陳とも通じていた。陳は彼を開府儀同三司に任じた。

二月 合肥での戦いと北斉高洋の狂乱

  • 侯瑱は兵を率いて合肥で北斉の舟艦を焼いた。
  • 高洋は甘露寺で禅居し、軍国の大事だけを奏上させたが、これは沈湎と気まぐれの延長にすぎなかった。
  • 尚書左僕射崔暹が死ぬと、高洋はその家に行って泣き、妻の李氏に「暹を思うか」と尋ねた。李氏が「思います」と答えると、自分で見に行けと言ってその場で斬り殺し、首を投げ捨てた。

二月から三月 北周・北斉の辺境戦

  • 北斉の斛律光は騎兵一万で北周の曹回公を破って斬り、柏谷城主薛禹生は城を棄てて逃げた。斛律光は文侯鎮を取り、戍柵を設けて帰還した。
  • 吐谷渾が北周辺境を侵したため、賀蘭祥がこれを討った。
  • 梁の永嘉王蕭荘は郢州に着き、北斉へ使者を送って入貢した。
  • 王琳は将の雷文策に後梁の監利太守蔡大有を襲わせ、これを殺した。

春三月 杜弼の誅殺

  • 高洋がまだ魏の丞相であった頃からの旧臣杜弼は、禅譲にも反対し、治国には中国人材を用いるべきだとも述べたため、高洋に遺恨を買っていた。
  • 高徳政の専権にも屈せず、公然と面前でその非を言ったことから、高徳政はたびたび杜弼を讒した。
  • 高洋は酒席に乗じて杜弼の過失を数え上げ、使者を派遣して州で斬らせた。のちに後悔して追回したが間に合わなかった。

閏四月 暦法と江防

  • 北周は官司に命じて新たに暦を定め直した。
  • 陳では徐度に兵を率いさせ、南皖口に城を築かせて江防を固めた。

閏四月から五月 高徳政の死

  • 高徳政は楊愔と並んで相位にあったが、楊愔は常にこれを憎んでいた。高洋も高徳政がしばしば強く諫めるのを不快に思っていた。
  • 高徳政が病を称して退こうとすると、楊愔は冀州刺史に出せば治るだろうと勧めた。任命を聞くと高徳政は起き上がったため、高洋は「病と聞いたから治療してやる」と言って自ら小刀で刺し、さらに足を斬らせた。
  • その夜いったん家へ戻されたが、翌朝、妻が四床に珍宝を並べて人に託そうとしたところへ高洋が突然来て、それが元氏諸王からの賂だと知ると、高徳政も妻もその子も殺した。
  • あわせて彭城王浟を司徒兼太尉、高陽王湜を尚書右僕射とした。

五月 北周の制度と吐谷渾討伐

  • 北周では侯莫陳崇が大司徒、達奚武が大宗伯、豆盧寧が大司寇、宇文邕が大司空となった。
  • また、赦令以前の事をあれこれ追及することを禁じたが、廐庫・倉廩など公の財物を侵した場合のみは赦の対象外として弁償を命じた。
  • 賀蘭祥は吐谷渾を破り、洮陽・洪和の二城を奪って、その地に洮州を置いた。

五月 日食と北斉の元氏大虐殺

  • 日食が起きると、北斉の太史は「旧きを除いて新しきを布く年」と奏した。高洋は元韶に漢の光武帝が中興した理由を問うと、元韶は「諸劉を滅ぼし尽くさなかったからだ」と答えた。
  • これを受けて高洋は、災異を元氏に転嫁して厭勝しようとし、始平公元世哲ら二十五家を誅殺し、元韶ら十九家を幽閉した。元韶は地牢で食を断たれ、衣の袖をかんで死んだ。

五月から六月 周文育の死と熊曇朗の離反

  • 周文育・周廸・黄法氍は余公颺を討ち、熊曇朗も兵一万を率いて合流した。
  • 余公颺は偽って降り、周文育を捕えようとしたが失敗し、建康へ送られた。
  • 周文育は三陂へ進んだが、王琳は曹慶に兵二千を率いさせて救援させた。曹慶は常衆愛に周文育を防がせ、自分は周廸と呉明徹を攻めた。周廸らは敗れ、周文育も金口へ退いた。
  • 熊曇朗はこの失敗に乗じて周文育を殺し、王琳方の常衆愛と呼応しようとした。監軍孫白象は先に熊曇朗を討てと勧めたが、周文育は従わなかった。
  • 周廸の所在が不明の中、周文育が自ら周廸の書を熊曇朗に見せると、熊曇朗はその場で周文育を殺し、兵を併呑して新淦城に拠った。
  • しかしその後、熊曇朗は周敷に敗れて単騎で巴山へ逃げた。

六月 魯悉達の帰順と侯安都の戦果

  • 魯悉達の部将梅天養らが北斉軍を城内に引き入れたため、魯悉達は部下数千を率いて長江を渡り、陳へ帰順した。陳はこれを平南将軍・北江州刺史とした。
  • このころ侯安都は余孝猷を降し、左里で曹慶・常衆愛を破った。常衆愛は廬山へ逃げたが、土地の民に斬られた。
  • 陳は臨川王陳蒨に命じて南皖口へ城を置き、東徐州刺史銭道戢に守らせた。

六月 北周の諫言と人物評

  • 長雨に際して、北周は群臣に封事を上らせて極諫を求めた。楽遜は四事を述べ、地方官の短期交代が苛政を生むこと、華美奢侈が洛陽の禍の再来を招くこと、選任を密室で決めず公論を明らかにすべきこと、北斉との対立では小利を貪らず国境防衛を優先すべきことを説いた。
  • また、隠逸の韋夐は宇文護の豪奢な邸宅を見て、酒・音楽・高楼・彫牆のいずれか一つでも亡国の兆しになると戒めた。
  • 寇儁は財より節義を重んじ、宗族や子孫教育にも礼義を先立てたため、北周の世宗から非常に礼遇された。

六月から七月 陳武帝の死と文帝擁立

  • 陳武帝は病にかかり、六月に崩じた。軍事には卓抜した才能を示したが、政治では寛大簡素を重んじ、無益な動員を避け、私生活も質素で、後宮にも華美を求めなかった。
  • ただし皇子陳昌は長安にあり、嫡子なく、外に王琳という強敵があり、宿将も皆外征中で、朝廷に重臣が乏しい情勢であった。
  • 章皇后は杜稜・蔡景暦を禁中に召して協議し、喪を秘したまま臨川王陳蒨を南皖から急ぎ呼び寄せた。夏の暑さで梓宮準備の物音が外に漏れるのを恐れ、蠟で仮の棺具まで作らせた。詔勅は従前どおり出し続けた。
  • 侯安都は軍から帰還して南皖で陳蒨と合流し、建康へ戻った。群臣は陳蒨擁立を議したが、陳昌の存在を理由に章皇后は即断せず、皆ためらった。
  • そこで侯安都が「今は四方未定で、遠方の皇子を待っている暇はない。臨川王は天下に大功がある」と断じ、反対者は斬ると威圧して、みずから剣を執って殿上へ上がり、璽を出させ、陳蒨を喪次へ押し立てた。
  • こうして陳蒨が皇帝位を継ぎ、その日のうちに即位した。

秋七月 新政権発足と北斉の宗室虐殺

  • 章皇后は皇太后となり、侯瑱は太尉、侯安都は司空となった。
  • 北斉の高洋は晋陽へ向かうにあたり、元氏宗族をことごとく東市で誅殺した。王侯の後裔も、かつて顕官だった者も区別なく、幼児すら空中に投げて矟で受ける残虐を行い、前後七百二十一人を殺した。屍は漳水に棄てられ、鄴の人々は長く魚を食べなくなった。
  • また元黄頭らに紙の鴟に乗って金鳳台から飛ぶよう命じ、黄頭だけが紫陌まで飛んだが、結局は御史中丞のもとで餓死させられた。
  • ただし元蠻や元文遥ら少数の家だけは助かった。
  • 元景安は高氏への改姓を願い出て助かったが、従兄元景皓は「玉砕すべきで瓦全すべきではない」と拒み、その言葉を密告されて殺された。

八月 陳武帝の葬儀と北周の称帝

  • 陳武帝は万安陵に葬られ、廟号を高祖とした。
  • 北周では崔猷が、天子がなお「王」を称するのでは天下を威圧できないとして、秦漢の旧に従って「皇帝」を称し年号を立てるよう建議した。
  • これを受け、北周の君主は皇帝を称し、父文王を文皇帝と追尊し、武成と改元した。

八月から九月 陳の宗室処置と北周益州

  • 北斉は、民間で父祖が元氏を冒称していた者や養子縁組などで元姓を用いていた者にも、本姓への復帰を許した。
  • 陳では、かつて高祖が兄陳道譚を始興昭烈王と追尊し、その子陳頊に封を継がせていたが、陳頊が長安に留まったままで祭祀が絶えそうになっていた。そこで安成王に移し、皇子伯茂を始興王として道譚の祭を継がせた。
  • 北周では十六歳の宇文憲が益州総管となった。若年ながら撫民と政務に長け、蜀の人々に喜ばれた。
  • さらに天水公宇文広を梁州総管とした。

九月から十月 陳の立后と北斉高洋の死

  • 陳では皇子伯宗を太子とし、その母沈妃を皇后に立てた。
  • 北周では宇文邕を魯公、宇文憲を斉公など、諸弟に封爵を与えた。
  • 北周の少保蔡祐が死去した。
  • 高洋は酒による病で食も進まなくなり、自分の死が近いことを悟った。李后には「ただ太子正道が幼く、人に奪われるのが心配だ」と語り、常山王演には「奪うのはよいが、殺すな」と言い残した。
  • 楊愔・高帰彦・燕子献・鄭頤らに遺詔して太子を補佐させ、十月に死んだ。
  • 発喪の際、群臣は声を上げて哭したが涙を流す者は少なく、楊愔だけがひときわ嗚咽した。太子殷が即位し、大赦した。
  • 太皇太后・皇太后を尊び、土木・金鉄の雑作はすべて停止を命じた。

十一月から十二月 王琳の再攻

  • 王琳は陳高祖の死を聞くと、孫瑒を郢州刺史として留守を託し、梁の蕭荘を奉じて濡須口へ進出した。北斉の揚州道行台慕容儼も江辺に兵を出して声援した。
  • 十一月、王琳は大雷へ侵攻したため、陳は侯瑱・侯安都・徐度に兵を授けて迎撃させた。
  • 吳明徹は夜に湓城を襲ったが、王琳配下の任忠に大破され、かろうじて身ひとつで逃れた。王琳は勢いに乗って東下した。
  • 北斉では斛律金が左丞相、常山王演が太傅、長広王湛が太尉、段韶が司徒、平原王淹が司空、高湜が尚書左僕射、河間王孝琬が司州牧、燕子献が右僕射となった。
  • 十二月には、北斉で上党王紹仁を漁陽王、広陽王紹義を范陽王、長楽王紹広を隴西王へと移封した。