春正月 王琳の東進と周廸への圧力
- 王琳は兵を率いて湓城まで下り、白水浦に駐屯した。兵甲は十万と号した。
- 北江州刺史魯悉達は、陳からも王琳からも官爵と鼓吹・女楽を受けたが、どちらにも決然とは従わず、様子見を続けた。
- 陳は沈泰に魯悉達を襲わせたが攻略できなかった。王琳は東下を望んだものの、魯悉達が長江中流を扼していたため、そのままでは進めなかった。
- そこで王琳は記室宗虩を北斉に派遣して援軍を求め、あわせて梁の永嘉王蕭荘を迎えて梁の宗祀を継がせたいと申し入れた。
- 一方、衡州刺史周廸は南川の自立を企て、所部八郡の守宰を集めて盟約した。陳の武帝は反乱を恐れつつも、手厚く慰撫してつなぎ留めた。
- 新呉洞主余孝頃は、沙門道林を通じて王琳に「まず南川の周廸を平定すべきだ」と勧めた。王琳は樊猛・李孝欽・劉広徳に兵八千を与え、余孝頃を総督として臨川故郡に屯させ、周廸を圧迫した。
- 王琳は侯瑱を司空、欧陽頠を都督交広等十九州諸軍事・広州刺史に任じた。
正月から二月 南北朝の祭祀と人事
- 北周は宇文護を太師に進めた。
- 陳では南郊・北郊・明堂を祀って大赦を行った。
- 北周では王が籍田を耕し、独孤信の娘を王后に立てた。
二月 沈泰の亡命と北斉内部の疑心
- 南豫州刺史沈泰は、侯安都救援の失敗や魯悉達制御の不手際で罪を恐れ、北斉へ逃亡した。
- 北斉の北豫州刺史司馬消難は、高洋の暴虐を見て自保を図り、領内を柔らかく治めていた。彼は高歓の娘を妻としていたが不仲で、公主が高洋に訴えた。
- さらに、消難の一族と御史中丞畢義雲の対立から御史が北豫州に赴いて調査を始め、消難は危険を感じて密かに周へ降る道を探った。
三月 司馬消難の北周投降
- 北周は達奚武・楊忠に騎兵五千を与え、司馬消難を迎えさせた。三度の連絡に返答がなく達奚武は撤退を考えたが、楊忠は千騎で夜に虎牢城下へ進んだ。
- 城は険しかったが、門が開いて楊忠は入城に成功し、達奚武も呼び戻された。斉側の伏敬遠は東城に拠って警戒したため、達奚武は城を守らず、財物を収めて司馬消難とその属を先に退かせた。
- 楊忠は三千騎を殿として洛水南岸で追撃を防ぎ、斉軍は川を渡ることを恐れて深追いできなかった。
- 北周は司馬消難を小司徒とした。
三月 北斉、梁の再興工作
- 高洋は晋陽から鄴へ戻った。
- 北斉は兵を出して梁の永嘉王蕭荘を江南へ送り、王琳を梁の丞相・都督中外諸軍・録尚書事に冊し、蕭荘は即位して天啓と改元した。王琳は実質的に梁再興の柱石となった。
夏四月 陳による梁敬帝の殺害
- 陳の武帝は太廟を祭ったのち、人を遣わして旧梁の敬帝を殺させた。
- そのうえで梁の宗室である武林侯蕭諮の子蕭季卿を新たな江陰王に立て、旧梁の名目を残した。
四月から五月 周廸包囲と諸勢力の軋轢
- 余孝頃らは二万の兵で工塘に屯し、八つの城柵を連ねて周廸を圧迫した。周廸は恐れて和を求め、兵糧も送った。
- 樊猛らは盟約を受けて撤兵しようとしたが、余孝頃は利益を貪って許さず、さらに柵を樹てて包囲を続けたため、王琳配下の諸将の間に不和が生じた。
五月から六月 北斉・陳の動き
- 北斉の広陵南城主張顕和と長史張僧那が、それぞれ部衆を率いて陳へ降った。
- 北斉では長広王湛が録尚書事、平秦王高帰彦が尚書左僕射、楊愔が尚書令となった。
- 陳の武帝は大荘厳寺で捨身を行い、翌日群臣に請われて還宮した。
- 北斉では高洋が北巡して太子殷に監国を命じ、大都督府を立てて尚書省とともに政務を分けて処理させた。趙郡王叡がその長史的役割を担った。
- 陳では侯瑱・徐度に舟師を率いさせ、王琳討伐の前軍とした。
秋七月 周廸救援と余孝頃の敗北
- 高州刺史黄法氍・呉興太守沈恪・寧州刺史周敷が兵を合わせて周廸を救った。周敷は臨川故郡から江口を断ち、余孝頃側の別城を攻めた。
- 樊猛らは救援せず、その城は落ちた。劉広徳だけは流れに乗って先に退き、難を逃れた。
- 余孝頃らは船を棄てて陸路逃走したが、周廸が追撃してことごとく捕えた。余孝頃と李孝欽は建康へ送り、樊猛だけは王琳のもとへ返された。
七月から八月 王琳との和議失敗
- 陳の武帝は謝哲を王琳のもとへ使い、帰順を説かせた。
- 八月、臨川王陳蒨に舟師五万を与えて西討を命じ、自ら冶城寺まで見送った。
- そのころ、王琳の船中に囚われていた周文育・侯安都・徐敬成らは、宦官王子晋に賄賂を約して脱出し、夜に小舟で抜け出して陳軍へ戻った。帰還後に自ら罪を請うたが、武帝はこれを赦して本官に復した。
- 謝哲は帰って王琳の意向を伝えた。王琳は湘州へ戻りたいと求めたため、陳の武帝は大軍を引き返させた。
九月から十月 陳・北周の地方対処
- 北周は元羅を韓国公に封じ、魏の後を継がせた。
- 余孝頃の弟余孝勱と子余公颺はなお旧柵に拠って降らなかったため、周文育に豫章から討たせることになった。
- 北斉では三台が完成し、銅雀台を金鳳台、金虎台を聖応台、氷井台を崇光台と改名した。
十一月 北斉高洋の暴虐と常山王演の諫争
- 高洋は三台で遊び、戯れに槊で都督尉子輝を刺し殺した。
- 常山王演は兄の酒色と残虐を憂え、顔色にもそれが現れた。高洋はそれを察して探りを入れ、演はただ涙するばかりであった。
- 王晞は演に諫言の危険を説いたが、演はたびたび直言して殴打や拘束を受けた。王晞は演を救うため、表向き自分を杖打たせて高洋の怒りをそらしたこともあった。
- 演はなお諫めようとしたが、王晞は「酒は人を狂わせ、刃や矢は親疎をえらばぬ」として命を軽んじるなと説き、いったん諫草を焼かせた。とはいえ後にも演は機会を見て苦諫し、たびたび殴打された。
- 高洋が宗室の家々を巡って遊興した際、常山王の邸だけは自然と粛然となり、長く居つかず去ることが多かった。
十一月 太子殷への不信
- 太子殷は幼くして温厚・聡明で、学問を好み名声も高かったが、高洋は「漢人めいた気質で自分に似ない」と嫌い、廃そうと考えることがあった。
- 金鳳台で囚人を自ら斬れと命じた際、太子はためらって首を落とせず、高洋は怒って鞭で打った。このため太子は心悸や言語のつかえを生じた。
- 酒宴のたびに高洋は「いずれ常山王に伝位すべきだ」と言うことがあり、魏収は楊愔に対し、軽々しい発言でも国家を不安にすると警告した。楊愔がこれを伝えると、高洋はいったん口を慎んだ。
十一月から十二月 北斉の残虐統治と財政難
- 高洋は罪人の拷問をきわめて苛酷にし、焼いた鉄具で肉体を責めて自白を強いた。そうした中でも蘇瓊だけは一貫して冤罪を雪ぎ、反逆の摘発に功を求めなかった。
- 彭城の鄭頤は王昕を誘って危うい発言をさせ、高洋に讒言した。のち高洋は王昕を宮前で斬って漳水に投じた。
- 北斉では長城築造、対梁支援、台殿修築、過度な賜与のため財政が窮乏し、百官の禄を減らし、兵の常廩を削り、州郡県や鎮戍の官も整理縮小した。
十二月 浚・渙の惨殺
- 高洋は北城の地牢に閉じ込めていた永安王浚と上党王渙を見に行き、歌を歌わせた。二人は恐れと悲しみで声を震わせたため、高洋もいったんは憐れんで赦そうとした。
- しかし長広王湛が「猛虎を穴から出してはならない」と進言すると、高洋は考えを変え、自ら渙を刺し、さらに劉桃枝らに命じて浚・渙を籠ごと槊で刺させた。二人は力が強く、槊を手で折って抵抗したが、最後は薪火を投げ込まれて焼き殺され、土石で埋められた。
- その妻たちは旧奴の家臣に与えられた。遠近はこの残酷さに激しく憤った。
是歳 嶺南と後梁の動き
- 高凉太守馮宝が死ぬと、沿海は騒然となったが、妻の洗氏が部落をよくまとめ、数州は安定を保った。九歳の子馮僕を率いて諸酋長とともに入朝させ、陳は馮僕を陽春太守とした。
- 後梁の主は大将軍王操を派遣し、王琳が東へ傾注した隙をついて、長沙・武陵・南平などを奪った。